将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:西郷南洲

12082809 長春有情に次の二つのUPをしました。

Re.「吟詠〜秋に思う〜」
「程明道『秋日偶成』」が好きです。
 最後の「男児到此是豪雄」という句がどうしてもいいなあと思います。詩吟で詠うときの音(おん)がいいのですね。

 そうだ、私の「漢詩塾」で、この「程明道『秋日偶成』」を紹介しないといけないですね。

Re.「大河ドラマ『篤姫』」時代劇専門CH
 この大河ドラマも「時代劇専門CH」で見ています。毎日見るのはさすが無理なのですが。でも篤姫はもう二度と薩摩に帰ることはないし、天璋院篤姫の生涯は1836年2月5日〜1883(明治16年)11月20日なのですね。家定は1858年8月14日(安政5年7月6日に急死しますから、結婚生活は1年9ケ月でした。
 この人が江戸の無血開城や慶喜の助命も実現するのですね。でも晩年薩摩に帰らずとも(本人が薩摩に帰ることを拒絶しました)、旅行くらいできたらなあと思います。和宮との関係も晩年(けっこう47歳で亡くなっていますが)には和解したようで、それは嬉しいです。でも西郷さんが城山で亡くなったのは悲しかったでしょうね。12082815

 この篤姫のことも私にはどうしても悲しくしか思えないのです。彼女の晩年の写真を見ても私は悲しいばかりです。斉彬という人は何であんなに早く亡くなったのでしょうか。
 西郷南洲のことを思っても、悲しいばかりです。篤姫も晩年はただ悲しいばかりだったでしょうね。

11100506 つい先日のことです。私はある飲み屋のカウンターで一人で飲んでいました。ママとインターネットの話を静かにしていました。そこへ3人のグループがやってきました。私の隣へ座ります。前の飲み屋で話した続きの話をしているようです。
 ママとの話で、最初は隣の話は気になりませんでした。でもだんだん私は気にかかり出しました。私のすぐ隣に座った人が次のようなことを言っているのです。

  私の故郷の庄内藩のことは、官軍も恐れたのか、攻めて来なかっ
  たんだ。また、秋田というところは変わっていて、奥羽列藩同盟
  には加わらず、最初から官軍方だったから、そことは戦争したが、
  秋田藩を助けに来るはずの官軍も庄内藩には手が出せなかったんだ。

 このような話を延々としています。聞いている彼の友人は感心して聞いています。そんな昔のしかも秋田県の小さな庄内藩のことなんか知らないとが当然なのでしょう。でもだんだんと私は我慢できなくなりました。
 私はついに声をかけました。

  そんなの嘘ですよ。庄内藩は別に強かったわけでもなんでもな
  いじゃない。ようするに、西郷南洲隆盛に助けられただけじゃな
  いの。違うかい?

この私の言葉で、彼は「え、よくご存知で」と声をあげました。そのあとは私
の独壇場です。

  秋田は佐竹藩であり、関ケ原のときからの幕府との遺恨がある
  から(これをあとで細かく説明した。しかも頼朝の時代のときか
  らの佐竹の立場を解説した)、当然最初から官軍方であり、庄内
  藩は京都にも出兵していた佐幕派であり、官軍が攻撃に来るのは
  当然だったのだが、それを西郷は寸前で止めてくれたから、庄内
  藩および庄内の人は西郷のことを感謝することこそあれ、あなた
  のような嘘をつくのはないはずではないのか。
  それに西郷のことは庄内の人はずっと慕っているはずだ。あな
  たも、小学校でもそのことを習ったのではないか。庄内藩では西
  郷がいかに偉大かという本も作っている。かの西南戦争のときに
  も、庄内藩の人で遠く西郷軍に参加して亡くなった人もいるでは
  ないか。

 西郷という人はとてつもなく魅力のあった人のようです。それは鹿児島の人たちだけではなく、戊辰戦争で敵であった東北の人にも、この庄内藩の例のように慕われています。
 でも、その庄内藩の人とその友人たちは、私のしつこい話と、西郷の漢詩を細かく述べたりしていくことに、なにか異常性を感じたのか、そのうち帰ってしまいました。もう少しいたら、西郷南洲の詩をいくつも吟ってあげたのになあ。                         

10110109  戊辰戦争のときに官軍(とかいう)の敵になった庄内藩では、当然薩長は好かれるわけがないのですが、西郷隆盛だけは何故か違っています。いまも西郷を奉るお祭りがあると聴いています。それは西郷さんが庄内藩のために尽力したことにあるのですが、その他のところでも西郷さんは割りと人気があるといわれています。
 私が昔沖縄で働いていたときに、飯場があった村の祭りにでたことがあるのですが、あんなに憎いはずの「ヤマトンチュー」の薩摩人なのに、西郷さんの名前の出てくる歌が唄われたときには驚いたものです。多分徳之島・沖永良部島に流されていた西郷さんの話が島から島へでも伝わっていたのでしょうか。

 こうしたことが勝海舟が西郷さんを誉め讃えるところなのかもしれないと思うのです。海舟が西郷さんを誉めていることを、何が西郷は偉いのかというのをはっきりさせようとしたら、さっぱり海舟のいっていることはわかりません。結局西郷さんは芒洋としていて、なんだか大きく、そばにいるとただひきつけられてしまうということなのでしょうか。 大久保利通が近代日本、現代に至るまでかなりな大きな役割をはたしているのはよく判ると思います。だが、いまもその大久保の子孫は鹿児島ではなく東京に住んでいるのです。そして利通のお孫さんは、いまも大久保による西郷暗殺計画はなかったということの証明をしようとしているといいます。なんだか大久保というのは日本の歴史の中では可哀想だなと思ってしまいます。

 私は昭和三五年七月小学六年生のとき、名古屋から鹿児島市内へ引っ越ししました。私が入った小学校は山下小学校といって、西郷兄弟、大久保、大山巌、東郷平八郎等々が生まれ育った樋之口町が学区にある学校でした。職員室の廊下には、これらの人たちの肖像画や写真が掲げられていました。一番右から、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛だったと思います。そうすると、肖像があってもいいのに、ない人がいますね。島津久光、桐野利秋、篠原国幹、村田新八等はないわけです。久光を斉彬と一緒に掲げるわけにはいかないのでしょうが、あとはみんな賊軍(嫌だな、この言い方)だからでしょうか。でもそうすると、西郷さんも賊なわけなのだが、西郷さんは特別なのでしょうか。
 この小学校で、朝礼の時などに校長が、「西郷隆盛は世界の偉人である」とかいうことをいうわけです。私は本当に驚きました。西郷なんて、私にとっては宮本武蔵とか豊臣秀吉とかいった人と同じように遥かに昔の人だと思っていましたから、「これは、なんという変なところへ来たものか」と思ったものです。今思えば、あの校長先生のお年だと、子どものときなんかには、実際に西郷さんと会ったことのある人の話を聴いたことがあるわけなのでしょう。だからその親しい感じの西郷さんが、実は世界に誇る偉人であるということを、繰返し言いたかったのだと思います。

 この西郷さんはかなりな詩人でもあります。いくつも書いています。私は「書懐」という詩が好きでしょうか(「書懐」という詩は二つあり、私は「書懐(後)」という詩が好きです)。その詩はまたの機会にして、今回は以下の詩を紹介します。

    弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明(註1)を隔てて墓前に哭す

  (註1)幽明 くらきとあかるき、あの世とこの世。

   互いに約を結んで御船カ崎へ相投じたのは全く後先なかった
    思いがけず自分だけが再生の縁があろうとは
    思い出せばそれも既に十幾年もの昔の夢のこととなった
    私はこの世にあり、ただあの月照を憶って空しく墓前で慟哭するばかりである

 西郷さんが、京都の清水寺成就院の僧、尊皇攘夷派の月照と錦江湾に身投げして、西郷さんだけが助かり、その十有余年のあと作ったとされる詩です。

 西郷は京都で活動し続けますが、井伊大老により、京都から月照を連れて故郷へ逃亡します。だが薩摩ももはや安住の地ではありません。絶望して、錦江湾に船を浮べて、月照と錦江湾に身を投じます。その船で最後をみとっていたのが平野国臣です。安政五年十一月のことです。
 西郷さんはどうしてか(多分体重があったから)、海に浮びあがり助けられます。船の上でどんなに死んでしまった月照のことを呼び続けたことでしょうか。そしていまその月照の墓の前で、西郷さんが泣いているわけです。

 私はこの詩を、六〇年安保闘争の全学連委員長唐牛健太郎さんのお墓の前で吟いました。函館に唐牛さんのお墓が作られた時です。唐牛さんも不思議な魅力に溢れた方でした。「全学連」とか「左翼」とか「共産主義者同盟(ブント)」とかいうものに関係なく、とにかくだれもがひきつけられるような人でした。  西郷さんも、「尊皇」とか「佐幕」とか関係なく不思議な魅力をたたえた人だったのでしょう。
 私はまた必ず唐牛さんの、あの津軽海峡が美しく見えるお墓の前で、この詩を吟いたいと思っています。(1998年10月に書きました文章です)。

 思い出せば、もう私はこの詩を何度も詩っています。みな私の友人の亡くなったときにお通夜や葬儀の場で吟ってきました。もう何度詩ってきたことでしょうか。これからも友人・先輩方のそうした場ではいつも吟っていきます。

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 マガジン将門第383号発刊 へ寅吉さんから以下のコメントをいただきました。

1. Posted by 寅吉    2007年12月17日 15:30
周さん<本が読めるようになりました>
う〜ん「人間力」ですか・・・全文を読んでいないので捉えきれませんが含蓄がありそうですね。西郷南洲なんか人間力の塊のようですが、意味が違いますか。ユリウス・カエサルなども対極的な意味で人間力があったと想像します。西郷を評して海舟が、<大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く>といった意味のことを氷川清話で言っていたと思います。カエサル<人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しかみていない>塩野七生著「ローマ人の物語」でも二人とも殺されちゃったんですよね。たとえが究極的すぎました。
リストラされて約2年間、精神的にも肉体的にもまともに本が読めませんでした。
周さんのブログに出会ってからなんだか気力が出てきたような・・・もしかしてこれ周さんの「人間力」?

 ありがとうございます。私は鹿児島というところは、私の中ではけっこう長く住んでいたところ(小学校6年から高校1年まで丸4年間いました)で、西郷南洲の生まれ育つたところにすぐそばに居たのです。南洲は、若き日に江戸にいたときに、我が故郷の水戸の藤田東湖を尊敬していました。だから、そんなことから小学生の私もかなり親しみのあった人なのです。
 今開きました『南洲翁遺訓』に次のような言葉があります(今パッと開いたら、この文が目に入りました)。

 道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり。

 やっぱり西郷を愛する人の気持がよく判ります。そうですね、例えば、西南戦争に参加した庄内藩士の若い人がいますね。20歳と18歳の方です。西郷は彼らに、庄内に帰国するようにいいましたが、彼らは西郷さんに殉じました。西郷さんが、もうとてつもなく魅力ある人だったと思うのです。

 それから、私はユリウス・カエサルも好きです。ただ、彼があのように歴史上で華やかに活躍するのは、実に短い間なのですね。
 私は若きときに、「プルタルコス」を読んで、大変にカエサルのことが好きになっていましたが、「ガリア戦記」を読んだのは、たしか高校3年のときです。横浜の高校の修学旅行で熊本に行ったときに、熊本城が燃えてしまった原因に、この「ガリア戦記」の記述を参考にしたのではないかな、と思ったものでした。いえ、官軍の中に英文か仏文で、「ガリア戦記」を読んだ人がいるのではと思うのです。
 でもなんといっても、塩野七美さんが書かれるローマは最高に面白いです。そして塩野七美さんが大好きなのが、私はユリウス・カエサルであると思っています。彼女はカエサルに惚れ抜いているのですよ。

 寅吉さんは、リストラされていたのですか。私はね、大学生のときに実に過激派なわけで、そして一つ目の逮捕起訴された東大裁判で、ずっと統一公判を主張していたほうなので(ええと、同じ埼玉大学の被告でも、みな分離公判になりました。とくに私たちのように、そのあと芝浦工大事件でも逮捕起訴された人は仕方ないのです。でも私はそれでも変わりませんでした)、このことは、ずっとあとあとまで、影響しました。もう就職のときに、露骨にいわれたこともありますよ。
 だからね、私はもういつもいつもまともには就職はできませんでした。私はいつも、「俺って馬鹿だかならあ」と考えるようにしてはいましたが、露骨にいわれると、驚いたものですよ。でも私はまたすぐにそれを忘れます。
 そしてまたある会社で、派手に労働組合をたちあげて、すぐにストライキを貫徹しましたので、それでも、その経歴でも睨まれたものでしたね。

 でも私は全然反省なんかしていません。そもそも私は過激派といっても、マルクス主義は大嫌いでしたから、そしていつもたった一人でしたから、私から逃げ出すわけにはいかなかったのです。いつもいつも、ときどき詩吟をやっている(どこでもすぐに詠いだす)ので、みんなからわけが判らない存在と見られていました。

 でもとにかく、寅吉さん、ブログを始めてくださいよ。それが面白い世界を切り拓けるかもしれないことだと思いますよ。

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364781a9.jpg 私の友人の小阪修平君が亡くなりまして、その偲ぶ会の案内が来ました。彼は駿台予備校に務めており、私の事務所も1年前までその近くにありましたから、ときどき顔を合わせました。私の事務所で、インターネットを一緒に見たものでした。彼は60歳で亡くなりました。偲ぶ会では、西郷南洲「弔亡友月照」を詠つもりでいます。(9/04)

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07050701月照
書 名 月照
著 者 友松圓諦(えんたい)
発行所 吉川弘文館
定 価 1,400円
発行日 昭和36年4月15日第一版第一刷発行
読了日 2007年5月6日

 この月照という人は、西郷南洲と一緒に薩摩の海に身を投げたということで、随分昔から存在自体は知っていましたが、一体いかなる人物なのかということは何も知りませんでした。ただ、私は50歳をすぎてから訪れた靖国神社で、この人を同じ国のために亡くなった方として祭っていることを知りました。だが同じく薩摩の錦江湾に身を投げた同士であった南洲に関しては、賊軍であったということで靖国神社に祭られているわけではありません。そのときに、大変に不可解な思いにとらえられたものでした。
 その身を投げた時の月照の辞世が以下です。

   大君のためには何かをしからん
     薩摩の追門(せと)に身は沈むとも

 思えば、このときに平野国臣が二人をみとっていたのでしたね。
 私が私よりも何故か早く亡くなった人に関していくつか詠った詩があります。それが、この月照のことを詠った西郷南洲の詩です。

  http://shomon.net/kansi/kansi3.htm#saigou  西郷南洲「弔亡友月照」

 この詩は、私は今まで何度か詠ってきたものです。

   弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明を隔てて墓前に哭す

 私の親友の葬儀のときにも、ある教会で悲しく詠ったものでした。この詩の西郷南洲の悲しい気持が私のそのときの気持を、そのまま顕してくれるものだったものです。

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