将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:西郷隆盛

1211130112111302 この新的矢六兵衛は何を考えているのでしょうか。

 六兵衛は答えなかった。広敷の隅に堂々と座っていて、遠く西郷の膝のあたりをじっと見つめ続けるばかりである。

 しかし、皮肉なことに次のように思えるのです。

 ・・・。たしかに勅使一行を迎えた旧幕臣たちは、みな尻尾を巻いて這いつくばっていた。武士としての正しい所作を弁えているのは、皮肉なことに六兵衛だけなのかもしれぬ。12111205

 この頃の西郷さんはこの小説で描かれているようだったのかなあ。西南戦争では何故か違ってきたような思いがします。
 でもこのときは、官軍の総大将なのです。

1211110112111102  帝鑑の間に西郷さんが行くのです。そこには当然新的矢六兵衛がそのまま座っているのです。福地源次郎もなんとか早く西郷さんがこの場を去ることばかり考えています。でもやはり西郷さんの目は六兵衛に据えられます。

「オマンサー、ダイヤッドガ」

 でも当然(当然と私も言ってしまいます)、六兵衛は無言です。12111006

 たしかに大器量だと隼人は思うた。相手がわけありと察すれば腹を立てずに忖度しようとする。たいそうな侍ぶりはひとかどの御旗本でござろう。拙者は薩摩の西郷と申す、お名乗り下されよ、と。

 やっぱり六兵衛には答えてほしいです。そして少しは自分の今の存在のわけを語ってほしいのです。

1211100112111002  昨日は、私は「これで私も怖くなりました。六兵衛のことを言うのかな」なんて言っていました。そうじゃないです。まだ帝鑑の間には西郷さんは行っていないのです。怖い、これは怖いです。あの新的矢六兵衛が西郷さんに何かしようとしたら、大変です。あ、だから脇差も加倉井隼人がみな取り上げているのだ。
 でも西郷さんに何か言うだけで怖いことです。でもでも、私はそういうことにはならないのじゃないかな、と思いました。。私は西郷さんも好きですし、加倉井隼人も福地源次郎も、そして何故かこの「黒書院の六兵衛」である的矢六兵衛も今では好きになってしまったのです。
 そして、うまくつつがなく終わるのじゃないか。ずるい言い12110906方ですが、事実歴史はうまく行ったのですから。うまく終わったのですから。

 通訳を聞き終える間もなく、襖が開かれた。

 また明日も待ち遠しいです。でも私の希望通りうまく行ってほしいです。

12110815 私が書きました浅田次郎「黒書院の六兵衛」(176)の中で「司馬遼太郎『跳ぶが如く』第七巻「風を結ぶ」の章の中の言葉を書きました。
 その時に思い出したのがあったのでしたが、それはこの私のリンク先の最後に書いていました。

この西郷さんへの、増田栄太郎の言葉を、ある飲み屋で、あるヤクザの親分さんと話したことがあります。彼もまた、この小説でこのところが一番印象に残っているということを言っていました。「西郷さんっていうのは、そんな人だったんだろうな」と、彼もまた遠くを見つめるような視線で言っていました。私も同感したのは言うまでもありません。

 もう20年以上前のことでしょうか。この親分の顔も何もかも思い出します。あの小説では桐野利秋にこの時期の西郷さんが少し冷たいように思えるのですが、どうなのでしょうか。
 ただ日本人が好きな西郷さんという人がここに表れているように思います。それに比べて大久保利通という人は、今もどうしても好かれないのかなあ。仕方ないよ、というしかありません。やっぱり大久保には西郷暗殺という計画はあったように私には思えるのですね。

1211090112110902  加倉井隼人は驚いてしまいます。

 ・・・、西郷が居眠りを始めたのには驚いた。巨眼を瞑って聞き入っているかと思う間に、ゆらゆらと舟をこぎ始めたのである。

12110813 うーん、また「西郷さんって、こんな人なんだろうな」と思ってしまいます。でもこうした思いが正しいのかは分かりません。
「司馬遼太郎『跳ぶが如く』第七巻「風を結ぶ」の章」の次を思い出しました。西南戦争で西郷軍に加わった豊前中津隊の隊長である増田栄太郎が言った言葉です。

吾、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。

 西郷という人をよくとらえている、よく表している言葉だと思うのですね。
12110814 ただし、この小説ではどうなのでしょうか。

 西郷はよろめきながら立ち上がった。ところが大広間を出しなに、平伏する隼人の前で立ち止まり、怖いことを言うたのである。

 さて、これで私も怖くなりました。六兵衛のことを言うのかな。

1211080112110802 この挿絵の西郷隆盛(私はサイゴウリュウセイと読みました。もっとも私は「西郷さん」と親しみを込めて読んでしまいます)です。実にまだ若い西郷さんが見てとれます。昔鹿児島の城山の上の販売店にいた方もそっくりのお顔をしていたものです。なんでも西郷さんの関係の方だと聞きました。私が小学6年のときですが。
 それにこれを通訳してしまう福地源一郎もいいです。彼は薩摩弁だけではなく西郷隆盛の言葉が分かり通訳していまうのです。

 隼人は感動した。言葉が十分に通じなくても、二人の心はひとつだったのである。西郷は倒幕の兵をおしとどめ、勝安房は抗戦の声を慰撫して、どうにか無血開城を実現した。

 やっぱり、この二人はすごいものですね。改めて私は勝安房を見直しています。漢詩がまともじゃないなんて、実に私は分かっていないだけなのです。

 西郷が笑えば、まわりもみな笑う。

12110712 やっぱり、「西郷さんって、こんな人だったののだろうな。勝も優れた人だったのだ」私は吉本(吉本隆明)さんをまた思います。吉本隆明さんは、勝を決して、貶しているだけではないのだ。実に彼の優れたところ(以下です。『ただ、青年時代に訳詩「思ひやつれし君」ひとつをのこしている』)を見ている吉本隆明さんを思います。

1211070612110707 いよいよ大舞台だなと思います。勅使が江戸城に来るわけですが、その勅使、貴族よりもこの一行には西郷隆盛がいるのです。いわば彼が、三つの街道から江戸に来る官軍の総大将といっていいのです。

 知らぬ顔ばかりだが、西郷だけはひとめでそうとわかった。噂どおりの六尺豊かな巨漢で、容貌も魁偉である。12110612

 その西郷さんが加倉井隼人にいうのです。

「ヤアカクライサア、コノタビャーゴナンギサアナコテ」
 わからぬ。だがその表情から察するに、「やあ加倉井さん、このたびは御苦労様」とでもいうのであろう。

 なんだか、この時を思います。この小説はあくまで創作であり、加倉井隼人もそもそもの新的矢六兵衛も、旧的矢六兵衛も創作であるわけですが、12110613でもこのシーンは実際に在った出来事のように感じてしまいます。
 さて、これから的矢六兵衛はどうなるのでしょうか。どうするのでしょうか。

1210310112103102 またこうして「黒書院の六兵衛」を読みます。

 隼人はしばらく悄然と肩を落として座っている。

 これは実に分かります。

 すっかり力が抜けてしもうて、立ち上がることすらままならぬ。このような姿を人にみられてはあんらぬと胸を張るそばから、どこかが破れてでもいるかのようにまたすぼんでゆく。12103004

 この状態で隼人が見るのが、この挿絵の雀です。この雀を見て、

 ・・・、隼人は心底羨(うらや)んだ。

 この隼人の思いがつづられます。残るは、西郷隆盛という総大将だけです。隼人はまだ見ていないこの隆盛を思います。
 その思いを読んでいくと、後年「何で、あのような『西12103005南戦争』になってしまったのかな」と思います。私は小六の6月末から高一の6月末まで鹿児島に居ました。そこでもうこの西郷南洲のことは嫌というほど聞きました。私も今も大久保利通のことは好きになれません。それはこの南洲への思いが私にもあるからです。

d4c23eef.jpg 西郷は3度結婚しています。
「西郷隆盛の愛した女、愛加那」に書きましたように、最初の妻は実家に帰り、2度目の愛加那は、奄美大島の娘で、島の人間を鹿児島には連れ出せないので、別れました。
 そして3度目の妻になったのが、この糸子です。西郷が39歳のときで、糸子が23歳のときでした。3人の子どもをもうけ、2度目の妻愛加那の子ども2人も引きとって育てました。
 西郷が坂本龍馬を連れてきて(このときは龍馬の恋人お龍さんも一緒でした)、泊めたときに、この糸子が家の屋根が破れていて、それで水漏れがするのを、困っているのを、西郷が「今は日本中が水漏れしているようなときだ」と糸子に言っているのを、私は龍馬がくすくす笑って聞いていたように思います。
 この糸子がのちになって、上野の西郷像を見たときに、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と言ったといいます。
 ただもう私なんかにはあの像が隆盛なのですね。鹿児島南州神社の軍服を着た西郷さんよりも親しみがあります。糸子夫人なら、あの軍服を着た西郷さんの像なら少しは満足なのかなあ。(2011.05.04)

11050210 西郷隆盛は1828年(文政10)1月23日〜1877(明治10)9月24日の生涯でした。西郷は24歳のときに、伊集院須賀と結婚しますが、江戸へ出府していた西郷は離縁します。ただ、西郷は終生このことを後悔していたと言われます。
 のちに島津斉彬が亡くなったあと、奄美大島に潜居することになりますが、このときに妻にしたのが、愛加那(あいがな)でした。だが、島人は本土には連れていけないことになっており、西郷が帰るときには、愛加那は西郷との間にできた子どもたちと島に残るしかありませんでした。
 だが西郷が再び京都でも活動する中、主君である島津久光の不興を買い、沖永良部に流されるときに、徳之島で愛加那が大島から子ども2人を連れて来ました。
 こののちは愛加那とは会っていません。ただ2人の子どもは西郷の子どもとして庶子として扱われました。
 島の娘愛加那と愛しあった西郷さんを限りなく私は好きになれます。(2011.05.03)

11010909 司馬遼太郎についていろいろと思うことがあります。

「坂の上の雲」でも思うのですが、司馬遼太郎という人は、いわゆる戦前に日本人の大部分が好きだった典型的な人間をあまり評価しない、評価できない方のように思います。それが、「坂の上の雲」や「殉死」や他のいくつもの小説で描かれる乃木希典です。また西郷さんも、実に日本人には好かれた方でしたが、これまた、その日本人が贔屓にする西郷さんのことを、その実態に迫りたいという気が、あの「翔ぶが如く」だったかと思います。
 ただ、私に言わせていただきますと、日本陸軍参謀本部編纂の、「日本戦史」の中で、「西南戦争」も「日露戦争」も詳しく扱われていましてね、私には司馬さんの書くのは、ある意味で、二番煎じにしか思えないのですね。

 まあ、「翔ぶが如く」で書かれている西郷像でいいなあ、と思うのは、有名な次のくだりでしょうか。
 熊本や他のところからも西郷軍に参加していた諸隊に、可愛岳(宮崎県延岡近く)を突破後鹿児島に帰るというときに、解散してもいい旨が伝えられます。大分県の豊前中津隊にも、他の隊と同じように、鹿児島へ向かわず故郷へ帰ってもいい旨が伝えられますが、そのときに、この中津隊の隊長である増田栄太郎が言いました。以下、「翔ぶが如く」からです。

  増田栄太郎は、いった。中津隊は熊本協同体と同様、幹部と隊士の
  関係は平等で、敬語はつかわない。増田はこのとき、自分は諸君から
  選ばれて隊長になった、といった。隊長になると、薩軍本部へ行って
  軍議の席につらなることが多い、自然、西郷という人格にしばしば接
  した、諸君は幸いにも西郷を知らない、自分だけが、職掌上、これを
  知ったが、もはやどうにもならぬ、と言い、たちまち涙を流した。一
  座の人々は増田の異常さにおどろき、さらにわけをたずねた。
  増田栄太郎がこのとき言った言葉が、文語体になって中津の人々に
  記憶されていた。

    吾、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを
    得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三
    日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は、善も悪も
    死生を共にせんのみ。

   増田のいうことは要するに、自分は諸君とちがい西郷という人間に
  接してしまったのだ、ああいう人間に接すればどう仕様もない、善も
  悪もなく西郷と死生をともにする以外にない、といった増田栄太郎の
  言葉が西郷という実像をもっとも的確に言い中てているかもしれない。
            (「翔ぶが如く」第七巻「風を結ぶ」の章)

 この小説の中では、私が一番好きになれたところです。西郷隆盛南洲公という人は、こんな方だったのだろうと、私もいつも想像してきたものでした。
 もうこの増田栄太郎の語られた言葉こそ、もう「大西郷」という人を表したものではないのかと思います。西郷という人には、誰も、理窟ではなく、ただただ惹かれていってしまうのでしょう。
 ただおそらく、こうした「訳の判らない日本人の感性」を司馬さんというのは、本当に嫌ったのじゃないかなあ、と私には思えます。だからそれが乃木希典にも向けられています。司馬遼太郎は、ただただ乃木を小説に登場させると、なんらの展開も説明もなしに、「無能」という言葉を投げつけます。私がどうしても許せないところであります。「それって、旧陸軍参謀本部の見解と同じじゃないの」といいたいなあ。
 この西郷さんへの、増田栄太郎の言葉を、ある飲み屋で、あるヤクザの親分さんと話したことがあります。彼もまた、この小説でこのところが一番印象に残っているということを言っていました。「西郷さんっていうのは、そんな人だったんだろうな」と、彼もまた遠くを見つめるような視線で言っていました。私も同感したのは言うまでもありません。(2003.10.06)

 木戸孝允の詩はいくつか見てきていますが、この詩にも、木戸孝允らしい性格の律儀さみたいなものを感じています。

    逸題   木戸孝允
  掃盡千秋帝土塵 掃き尽くす千秋 帝土の塵を、
  旭輝自与岳光新 旭輝(註1)自ら 岳(註2)に光の新たなるを与ふ。
  東巡今日供奉輩 東巡今日(註3)の 供奉の輩は、
  多是去年獄裏人 多くは是去年 獄裏の人。

404ab6cd.jpg (註1)旭輝(きょくき) 昇ってくる朝日
 (註2)岳(がく) 大臣諸侯
 (註3)東巡今日 東京遷都の明治二年のきょう

  天子の国土をすっかりはき尽くし、
  昇ってくる朝日は、自ずから新政府の高官に対して、光の新たなるを与えている
  東京に遷都するきょうの晴れの舞台の顔ぶれを見れば、
  多くは昨年まで、獄中で過ごしていた人ばかりだ。

 維新の三傑(この木戸孝允と西郷隆盛、大久保利通)の中で、孝允は一番若いのです。

  木戸孝允(天保4年6月26日〜明治10年5月26日 1833〜1877)
  西郷隆盛(文政10年12月7日〜明治10年9月24日 1828〜1877)
  大久保利通(文政13年8月10日〜明治11年5月14日 1830〜1878)

 思えば長州藩が一番維新のときには、過激に走りましたから、幾多の同士たちを亡くしています。その中では孝允だけが生き残ったと言える存在でした。でもこの三人も、言わば同じ年と言えるときに亡くなっているのですね。
 孝允は西南の役の中亡くなりまして、西南の役の最後西郷が亡くなりまして、その翌年利通は不平士族に出勤途中を襲われ殺害されました。
 この人を思うと、いつもなにか細かく話続けている彼を思います。苦心苦労の生涯だったのだろうなとばかり思ってしまいます。そして伊藤博文こそがこの人を継いだのだろうなと思うのですが、でも私には、明治政府は山県有朋が引き継いで行ってしまったと思えていまして、その意味では、孝允の意思は途絶えてしまったような思いになってしまうのです。

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