将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:読み言葉

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 大変に今も暑く感じています。

2014/07/25 06:25こうして暑いと実に大変です。今冷房をつけ、扇風機もつけたものです。
2014/07/25 07:39またリビングに来ました。

2014/07/26 04:39今は26日だと確認します。このポメラはいいですね。時間が明示されるのは実にいいです。
 おはぎ家族は今長野県の蓼科へ行っています。あ、安曇野だったかなあ。今インターネットで両方を見ましたが、分からないのです。あとでばあばに聴きましょう。
2014/07/26 05:02こうしてもう5時を過ぎました。
 いつも「『書き言葉』と『話し言葉』」ということを思います。やっぱり今はこうして書き言葉で書いている訳ですが、話し言葉でやりきるのは難しいのです。私の「ポットキャスト将門(しょうもん)」はなかなかUPできないのですね。どこでも「書く」ことは容易にできるのですが、「話し言葉」で声に出すことは難しいです。前に鎌倉で北鎌倉から歩いているときに、「話し言葉」でマイクに向かって喋ろう(マイクと録音機器は持っていました)としたのですが、無理でしたね。
 それに私は「『書き言葉』と『話し言葉』」ではなく、「読み言葉」ということを言っています。これももう少し考えて行きます。14072207
2014/07/26 07:10おはぎ家族は安曇野(「あずみの」と読みます。長野県です)へ行っています。私はインターネットでも見ましたが、要するに私はよく分かっていないなあ。おはぎにケータイメールをしましょう。おはぎがママとして三人に教えてくれるでしょう。


 どうしても三人の孫を思います。また明日は会えるのですね。いや私がもっと元気に歩かないといけないのだ。

12090907 私の『「読み言葉」のことで』にYAGURUMAさんから以下のコメントがありました。

1. Posted by YAGURUMA   2012年09月07日 10:01
 久しぶりにコメントさせていただきます。以前、青色発光ダイオードの事や、古田史学について以来です。
 "12年7月20日に松崎之貞著『「語る人」吉本隆明の一念』が出版されました。1998年前後から<語る人>に転身した吉本さんと著者との語りが明かされています。公けには誤解を恐れ言えなかった、本音やエピソードが記された得難い、晩年の回想です。『言語にとって美とはなにか』の基調となった三浦つとむについても触れられていますので是非一読ください。

 吉本さんについては、私は『「書き言葉」と「話し言葉」』ということで、ずっと書き言葉の人であるという認識でした。私は今も、彼の語る言葉も、その基調はやはり「書き言葉」であると思っています。
 私はそれでこのごろは、さらに「読み言葉」ということを思うものなのです。そこで、この「松崎之貞著『「語る人」吉本隆明の一念』」も読みたくなりました。いつもは東京駅の「八重洲ブックセンター」(ここのサイドバーにも置いてあります)まで買いにいくか、インターネットで注文してしまいますが、この本はどうしましょうかね。
 とにかく手に入れまして、読みまして、またその読んだ読後感をここに書かせていただきます。
 今は誰にも言っているのですが、YAGURUMAさんもぜひとも、インターネット上にブログなりを置いていただき、そこに、自分の思いや、読んだ本のことを書いていただきたいと思います。これは大事なことだと思いますよ。

12082109「周の掲示板」にnelu(かわふくG)さんの「犬(上)」がありました』に、目森一喜さんからの以下のコメントがありました。

2. Posted by 目森一喜   2012年08月20日 22:18
 読み言葉というと、例えば周さんだったら「土」の文章を読んでいて茨城弁が聞こえて来てしまうというような事も入って来るのでしょうか?
 それだと折り返して自分に帰って来るような表出になってしまいますね。

 いや、この私のいう「読み言葉」というのは、まだ正確に把握できていないのです。吉本(吉本隆明)さんの言われる『「書き言葉」と「話し言葉」』ということから、思いついただけなのです。
 でも「長塚節『土』」のことは、吉本隆明全著作(単行本)「吉本隆明歳時記」に私は次のように書いています。(以下は長塚節の関する吉本さんの文を抜書きし、私の思いも書いています)。

  たとえてみれば米粒のうえにどんな微細な文や図柄を巧みに描
 いても所詮は巧みな<芸>以上のものではない。なぜならば対象の
 選択力に内的な衝迫と必然がなく、ただ珍しいための限定しかな
 いからだ。それと同じことであった。この方法を極限まで追いつ
 めていったのが長塚節であった。そして極限まで追いつめられて
 いってはじめて、子規派の『万葉』の歌の把握に重要な欠陥があ
 ることが露呈されたといってよい。  (「冬の章−長塚節」)

 これを読んで、私には退屈で暗い「土」の作者でしかなかった長塚節が生き返ってきた思いがします。また私にとって苦手だった短歌を読み取ることも少しはできるようになった気もします。忠実な正岡子規の学徒だった節が死の直前にたどりついたものを感じとることができました。

 この吉本さんの文を読むのと、でも私には母の実家の裏で吹いている茨城の冷たい風を思うのです。
それだと折り返して自分に帰って来るような表出になってしまいます」。そうなのですね。私は「長塚節『土』」を読んでも、どうしても上を見てはいないのですね。ただただ、私の本当の故郷の冷たい風を思うばかりです。
12082110 長塚節の短い生涯を思うと、どうしても分からないのです。この小説を読んで面白いと感じられる人がいるのでしょうか。おそらく私は皆無だと思います。いつも私は「漱石がほめちゃったからな」と思っています。
 私は藤沢周平は、実に好きな作家です。でも彼が長塚節を書いた『白い瓶』は、手に入れて手で持ちながらも、結局読まず、古書店に売ってしまいました。
 私の「吉本隆明鈔集」での「読み言葉」はもっともう少し考えていきます。

12081507私の昔のサイトにいくつも「掲示板」がありました』に目森一喜さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜   2012年08月14日 20:19
「読み言葉」は解釈学になるのでしょうか、言語論では喩(直喩、比喩、換喩、提喩とかですね)の問題かな。
 言語学で解釈が問題になるのは、聖書で神が喩で語るからです。聖書にこうあるのが、これはこのように解釈するとか、いや、こう解釈せねばならないはずだとか、色々と大変な世界がありますね。

 吉本(吉本隆明)さんに「喩としてのマルコ伝」という著書があります。といいましても、私には今その本が取り出せないのですが。
 マタイ伝はこの私もいつも何度も読んでいます。吉本さんの「マチウ書試論」(マチウ書とはマタイ伝のフランス語読み)を読んでから、文語訳マタイ伝そのものを何度も読むようになりました。インターネットでも読めますし、文語訳は一つしかないので、いいのです。 ところが仏典などですと、道元がいけないのだと思いますが、全然分からないのです。岩波の「日本思想大系」の最初の配本が「道元」でした。だけど『正法眼蔵』なんていくら読んだまねしても読むふりしても分からないよ。
12081508 私が前に住んでいた我孫子にもよく歩く谷中にも、曹洞宗のお寺が多いように思います。私の両親のお墓のある正泉寺もそうなのです。
 私がよくいうのですが、哲学者としては道元が上だったかもしれないけれど、宗教家としては栄西のほうが1段も2段も上だと私は思います。
 でもでも、もう私は曹洞宗の寺を歩いても、もうなんだか良くなったな。仏教なんて、小難しくて嫌な思いでしたし、道元なんて難しくていやでしたが、もうどうでもいいなあ。「文語訳聖書」はいつも読んでいていいのですが、もうこの聖書は真面目で嫌にもなります。
 道元なんか、私には少しも好きになれないから、いいのかもしれないな。私が本来好きであるはずの神道よりも、一見面倒な曹洞宗でもいいなあ、なんて思うようになりました。
 義母の葬儀のあと、牧師さんとお話したのですが、今のキリスト教って、一番日本的な気がしますね。あの「文語訳聖書」は日本そのものな気がします。
聖書で神が喩で語るから」でいいのですが、私は自分の墓はもうどこか曹洞宗のお寺でもいいなあ。私の父があそこを墓に選んだのが分かるような気になりました。12081509

 私はまだ「読み言葉」を極めて行きます。このことで、私は本を読むことが再びできるようになったものなのです。
「書き言葉」も極めて行きます。私がどうにも苦手なのかもしれない「話し言葉」もやって行きます。

12081211 私の前の「将門Web」にあったいくつもあった掲示板を思い出しました。
 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

周さんのサイトに 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月12日(日)08時36分6秒
  最初に訪れたのは、当方がインターネットでホームページを開設した頃ですから、もう十年以上も前のことになります。その頃、周さんのサイトにはパソコンに関する質問箱のようなページがあって、何か分からないことがあると、そのページを見るようになり、その後、幾つか質問もして、回答を得た記憶があります。周さんが自分でパソコンを組み立てていたのも、掲示板で知りました。

 中には私が答えていたのもあったと思います。恥ずかしいな。私はそもそも、酒を飲んで詩吟を詠っているような人間なのです。
 でもいくつもの掲示板を持っていましたが、そのログはすべて残してありますよ。ただし、私以外の方も書かれていますから、それを私がここに載せるわけにはいかないのです。私があのような掲示板を持って、私が書いていたことこそ、私の過去を知る方には、驚異的なことなのですよ。
 パソコン自作も実によくやりました。でも私は自作したほうが安いからやったのです。今のように、市販されているパソコンが安いなら、もうこれがいいのです。
 それにもう昔のように大量に飲まなくなりました。・・・でも、毎日は飲んでいますね。ときどき休むべきなのですが、大量に飲まないのはいいのですが、それが難しいですね。
 そうねえ、本を読む量も減りました。年間で200冊ばかり少なくなったのですからね。
12081301 でもこのごろ、やっと『「書き言葉」と「話し言葉」』ということで、少しは何かがつかめてきた思いがします。
 このごろ、「読み言葉」ということも考えているのですよ。自分の表現行為として、「読み言葉」もあるのではないかということです。これはもう少し考えていかなければ、ならない思いなのです。この『自分の表現行為として、「読み言葉」もあるのではないか』というのは、吉本(吉本隆明)さんも言われていません。私が勝手に思っていることです。

12080909 いくつものことを思いました。「読み言葉」というのも、大きな人間の表現行為ではないかと。

2012/08/10 07:58うーん、今考えていました。『「書き言葉」と「話し言葉」』だけではなく、「読み言葉」というのもあるのではないかということです。
 もっと考え続けないとならないですね。
2012/08/10 08:02もちろんさきほどから「梅ちゃん先生」を見ています。
 また涙になっている私です。
 なんだか私は涙ばかりになっています。
2012/08/10 11:51いくもニュースで、「そんなことあたり前なのになあ」と思うことがいくつもあります。いやある学校のプールに金魚がたくさんいたとニュースを見て思うことです。
2012/08/10 12:44ニュースを見て思うことがいくつもあるものですね。もっと考え続けるべきです。
 人間の表現行為として「書き言葉」と「話し言葉」があるわけですが、「読み言葉」というのは人間の表現行為だとは普通は思われません。いやそれが実際には分からないからです。
 でも本当は「読み言葉」も私は人間の一つの大きな表現行為だと思うのですね。
12080910 これで私はしばらく、「本を読む」ということをいわば止めていた(昨年から、年300冊の読書量が100冊に落ちていました)が、もう少し考えをまとめて、そうしてから活発な読書も再開するべきかなあ、なんて思い出しました。

 長年年間300冊を読破していたのに、それが100冊に落ちていたのですが、でも今考えを整理し、まとめつつあります。やりきらなくちゃあな。

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