将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:諸葛亮孔明

12032607 ポメラをこうして書いています。でもテレビもただ見てしまうのですね。

2012/03/26 18:09こうしてこの「周のポメラ」をUPしています。もっと書き続けないといけないのだなあ。
 今日もこうして書いていますが、やっぱりなかなかこれを書くのは大変なのです。
 これは(ポメラ)はパソコンではないので、どうしてもこれでは単語登録をしていくことが大事になります。単語登録はIS01ではけっこうやっているのですが、このポメラでも同様にやっていきます。パソコンではほぼやらなくても辞書にすでにあります。ただ私がよく書きます諸葛亮孔明や曹操の詩(あと文天祥の詩や土井晩翠の詩、孔明は詩もそうですが、『出師表』もです)に出てくる語句は、みなパソコンも含めて3つともやらないとならないです。
 それに上に書いた人物は、みな私は登録したのです。ただ、土井晩翠は、「つちい」ではなく、私は「どい」で登録していたんだなあ。今分かったところです。
 土井晩翠は、本当のところ、どちらなのだろう。そういえば、晩翠の「星落秋風五丈原」は、「ほしおつ・・・」と読むのか、「せいらく・・・」と読むのかどちらだろうか。私は「ほしおつしゅうふうごじょうげん」と読んでいますが、「せいらく・・・」も捨てがたいのですね。
 あ、上に書いた孔明の『出師表』は『前出師表』です。『後出師表』は私は暗記暗誦はしていません。
 でもとにかくいくつものことをやらなくちゃあなと自分にいいきかせています。
2012/03/26 18:58このポメラでこうして書けるようになってきました。でもけっこう大変ですね。

 こうして暗記暗誦をしている文書をまた自分で思い出し書くのはいいですね。

201705081711090507  この文をここに書きます。そして電車の中でIS01で何度も読んで、記憶して、暗記暗誦できるようにします。
なお、文はそのままにして、書き下し文に色をつけました。それから、これは「出師表(すいしのひょう)」の「前」だけです(「後」は孔明の作詞したものではありません)。

先帝創業未半、而中道崩[歹 且]。今天下三分、益州罷敞。此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣、不懈於内、忠志之士、忘身於外者、蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開張聖聴、以光先帝遺徳、恢弘志士之氣。不宜妄自菲薄、引喩矢義、以塞忠諌之路也。

先帝業を創めて未だ半ならずして、中道にて崩[歹 且]する。今天下三分して、益州罷敞する。此れ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衞の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘れるのは、蓋し先帝の殊遇を追うて、之を陛下に報いんと欲するなり。誠に宜しく聖聴を開張して、以って先帝の遺徳を光いにし、志士の氣を恢弘すべし。宜しく妄りに自ら菲薄として、喩を引き義を失い、以て忠諌の路を塞ぐべからざるなり。

宮中・府中、倶為一体。捗罰蔵否、不宜異同。若有作奸犯科、及為忠善者、宜付有司、論其刑賞、以昭陛下平明之治。不宜偏私、使内外異法也。

宮中・府中は、倶に一体なり。蔵否を捗罰して、宜しく異同あるべからざる。若し奸を作し科を犯し、及び忠善を為す者あれば、宜しく有司に付して、其の刑賞を論じ、以て陛下平明の治をあきらかにすべし。宜しく偏私して、内外をして異法を異にするべからざるなり。

侍中・侍郎、郭攸之・費[ネ 韋]・董允等、此皆良実、志慮忠純。是以先帝簡抜、以遺陛下。愚以為、宮中之事、事無大小、悉以諮之、然後施行、必能裨補闕漏、有所広益。将軍向寵、性行淑均、暁暢軍事。試用於昔日、先帝称之曰能。是以衆議、挙寵為督。愚以為、営中之事、事無大小、悉以諮之、必能使行陣和睦、優劣得所。

侍中・侍郎、郭攸之・費[ネ 韋]・董允等、此れ皆良実にして、志慮忠純なり。是を以て先帝簡抜して、以て陛下に遺す。愚以為へらく、宮中の事は、事大小と無く、悉く以て之に諮り、然る後に施行せば、必ず能く闕漏を裨補して、広益する所有る。将軍向寵は、性行淑均にして、軍事に暁暢。昔日に試用せられ、先帝之を称して能ありと曰く。是を以て衆議して、寵を挙げて督と為す。愚以為へらく、営中の事は、事大小と無く、悉く以て之に諮らえば、必ず能く行陣をして和睦し、優劣所を得る。

親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也。親小人、遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎與臣論此事、未嘗不嘆息痛恨於桓・霊也。侍中尚書・長史・参軍、此悉貞亮死節之臣也。陛下親之信之、則漢室之隆、可計日而侍也。

賢臣を親しんで、小人を遠ざけるのは、此れ先漢の興隆する所以である。小人を親しんで、賢臣を遠ざけるのは、此れ後漢の傾頽する所以である。先帝在し時、毎に臣と此の事を論じて、未だ嘗て桓・霊に嘆息痛恨しないことはない。侍中尚書・長史・参軍、此れ悉く貞亮にして節に死するのが臣である。陛下之に親しみ之を信じれば、則ち漢室の隆んであることを、日に計えて侍つ可きである。

臣本布衣、躬耕南洋。苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於艸盧之中、諮臣以当世之事。由是感激、許先帝以駆馳。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。爾来二十有一年矣。先帝知臣謹慎。故臨崩寄臣以大事也。

臣は本布衣、躬から南洋に耕す。苟くも性命を乱世に全うして、聞達を諸侯に求めず。先帝臣が卑鄙なるのを以てせず、猥りに自から枉屈して、三たび臣を艸盧の中に顧み、臣に諮るに当世の事を以てする。是に由りて感激し、先帝を許すに駆馳を以てする。後に傾覆に値い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ずる。爾来二十有一年なり。先帝臣が謹慎なるのを知る。故に崩ずるに臨んで臣に寄せるのに大事を以てする。

受命以来、夙夜憂慮、恐付託不効、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、兵甲已足。当奨卒三軍、北定中原。庶竭駑鈍、攘除姦凶、以復興漢室、還于旧都。此臣所以報先帝、而忠陛下之職分也。至於斟酌損益、進尽忠言、則攸之・[ネ 韋]・充之任也。

命を受けてより以来、夙夜憂慮し、付託の効あらずして、以て先帝の明を傷つけることを恐れる。故に五月瀘を渡って、深く不毛に入る。今南方已に定まり、兵甲已に足りる。当に三軍を奨卒して、北のかなた中原を定める。庶はくは駑鈍を竭し、姦凶を攘除し、以て漢室を復興して、旧都に還さんことを。此れ臣が先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分である。損益を斟酌し、進んで忠言を尽すに至っては、則ち攸之・[ネ 韋]・充の任である。

願陛下託臣以討賊・興復之効。不効則治臣之罪、以告先帝之霊。若無興徳之言、責攸之・[ネ 韋]・充等之咎、以彰其慢。陛下亦宜自謀以諮諏善道、察納雅言、深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激、今当遠離、臨表涕泣、不知所云。

願はくは陛下臣に託するには討賊・興復の効を以ってしなければならない。効なければ則ち臣の罪を治して、以て先帝の霊に告げることだ。若し徳を興す言が無ければ、攸之・[ネ 韋]・充等の咎を責めて、以て其の慢を彰はせ。陛下も亦宜しく自ら謀って以て善道を諮諏し、雅言を察納して、深く先帝の遺詔を追うことである。臣恩を受けて感激に勝えず、今当に遠く離れるのに、表に臨んで涕泣し、云う所を知らない。

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201705081611090505 私は今毎日のように、私の孫じゅにの病院へ行っています。ただ、じゅにの部屋では、ケータイもIS01も一切電源を切らないとなりません。
それでじゅにが目を覚ましているときはいいのです(そのときは懸命に声をかけたり、まずお顔をいつも見ています)が、もうただ眠っているときは、私はやることがないので、昔から同じなのですが、いくつもの長文を心の中で読み上げています。
それが、文天祥『正気歌』、諸葛亮孔明『出師表』、土井晩翠『星落秋風五丈原』曹操『短歌行』、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(大内兵衛・向坂逸郎訳)等々なのです。
でもその中で、「諸葛亮孔明『出師表』」が全文はしっかりと出てきません。それで、ここに書いて行きます。電車の中等では、IS01は読むことができますから、そこで正確に記憶して行きたいと考えています。IS01で私のホームページ(ブログ)は開くことができるのです。それで私の頭の中に記憶します。
「文天祥『正気歌』」「土井晩翠『星落秋風五丈原』」「曹操『短歌行』」は私のインターネットに書いてあります。
だから、あとは「諸葛亮孔明『出師表』」だけなのです。

なおこれも「諸葛亮孔明『出師表』」も、適当なカテゴリがないので、「周の漢詩の話」に入れました。

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11060508「その2」に書いていた曹操が、この「三国志」の世界の前半の主役であることは間違いないでしょう。だが、曹操の奸雄と言われる魅力は、諸葛亮孔明が出てくると失せてしまいます。おそらくこの「三国志」(正史「三国志」だけではなく、「演義」含めた全体の「三国志」の世界)は全体の作者は私はこの孔明だと思っています。曹操が亡くなったあと、主役の曹操に変わった主役が孔明でした。そしてその孔明の最大のライバルが司馬懿仲達です。
 やがて、この仲達の司馬氏が魏を滅ぼして、やがて呉を滅ぼして(蜀は魏に滅ぼされます)、三国志の世界を終わらせます。
 魏の時代に、我が日本のことが、この世界にも現れてきます。邪馬台国卑弥呼の時代です。ただし、私はこの卑弥呼という人物は存在しなかったと思っています。このことはまた別に私は書いていますが、この魏から晋に移り替ることが大きかったことだと思うのですね。

(参考)第65回「卑弥呼 の2」(これを今読んでみまして、またあとでUPすることにしました)

 この仲達も実に、この三国志の時代には大きな役割を占めている人物です。そしてこの人物を考えると、いつも必ず私はこの人物を思い浮かべます。それは張合邦(合におおざとへんの一字で、ちょうこう)のことです。彼は諸葛孔明が北伐という魏への遠征のときに、最大の敵軍の将として立ちはだかります。だが彼は上司の仲達の無理な命令で孔明に破れ亡くなります。
 だがこの張合邦(ちょうこう)は、「吉川英治『三国志』」では実に三度も亡くなっています。私も「もうこの頃は吉川英治さんは、駄目だったのかな」と思っていまします。この人物を見事描いたのは、「横山光輝『三国志』」です。
 私には、三国志の最後は、仲達の世界になっていき、そしてその司馬氏が三国志を統一するわけですが、そこで戦っている張合邦(ちょうこう)のことをいつも思い描いているものです。(2011.06.06)

11060403 私は「三国志」に関しては、いくつもの書物を読んできました。実は「三国志」というと、歴史書としての『三国志』と『三国志演義』が渾然となっている傾向がこの日本にはあります。
 歴史書としての『三国志』は実は完全に訳されたのは昭和の戦後のついこの頃(1977年、1982年、1989年で三巻。筑摩「世界古典文学全集」)のことであり、ほぼ『演義』が三国志とみなさえていたことがあります。
 ただ中国では、三国志というと、いわば関羽が神として中国には存在していますから、それも中華街に行ったら頭に入れておかねばならないでしょう。横浜中華街での「関帝廟」に行くと、「ああ、中国人は関羽が好きなのだなあ」とつくづく思います。ただし、この関羽が好きなことは、この日本人も負けていないでしょう。
 それに三国志の物語は、そもそも諸葛亮がかなり自分のことを作りあげてしまったことがあり、それの影響が多大だと思われます。日本人は、南北朝時代の楠木正成にも、大坂の陣のときの真田幸村にも、この諸葛亮孔明の姿をかさね合わせたのではないでしょうか。
 もともと孔明という人は戦は苦手であったと言ってよく、内政こそが得意の分野でした。だがこの彼が蜀をすべてやりきらないとならないわけで、実に無理があったと思います。だがとにかくやり通しました。だからこの三国志の世界は、後半はもう諸葛孔明の話であり、私などには大変に面白くは感じられないものなのです。
 曹操が主人公とも言える三国志の前半は、実に面白い英雄たちの戦いの話であり、しかも曹操の作った漢詩を思い出しますと、これまた雄々しいというか実に面白い男たちの話です。でも孔明が登場すると、どうしても主君に対する熱烈な愛の話、涙の話になるのですね。また実は、孔明もそういう話を意図的に作り上げているとしか思えないのです。
 諸葛亮孔明の「出師表」(これは前後の二つの文があります)は、鬼神も泣くとされ、泣かないのは男ではないとされてきました。私も「前出師表」はすべて暗記し、かつすべてを書き出せるように、FEPを鍛えたものです(今はGoogle漢字変換になったから違います)。でも今自分に問うのですが、そんなことは何になるのでしょうか。
 どう見ても、私自身も出師表よりもはるかに曹操曹丕曹植の詩のほうが数段好きですし、実にいい詩だと確信します。どうみても孔明の漢詩(孔明には「梁甫吟」という詩が残されています)なんか、私にははるかに駄目だとしか思えません。
 ただ、孔明の一途な気持にも私はどうしてもただただジーンとなってしまうものなのです。(2011.06.04)

 諸葛亮孔明がまだ劉備に出会わないころのこと、南陽の隆中で隠栖していたときに、常にこの歌を詩っていたといわれます。
 土井晩翠「天地有情」の『星落秋風五丈原』の一節にこうあります。

   嗚呼南陽の舊草廬
   二十餘年のいにしえの
   夢はたいかに安かりし、
   光を包み香をかくし
   隴畝に民と交われば
   王佐の才に富める身も
   たゞ一曲の梁父吟

 この最後の梁父吟というのがこの詩です。「三国志」の「蜀志」に「諸葛亮好んで梁甫吟を為す」とあります。この詩は正確には孔明の作ったものではないでしょう(漢文の参考書には孔明の作としているものはあります)。だが、孔明が好んで詠っていたということで、おそらく孔明自身もこれと同じような詩を作っていたのではと私は推測します。そんなことで孔明の詩として紹介します。

  梁甫吟(註1)諸葛孔明
 歩出齊城門 歩して斉の城門を出で
 遥望蕩陰里 遥かに望む蕩陰里(註2)
 里中有三墓 里中に三墓有り
 累累正相似 累累として正に相似たり
 問是誰家塚 問う是れ誰が家の塚ぞと
 田彊古冶氏 田彊古冶氏
  力能排南山  力は能く南山を排し
  文能絶地紀  文は能く地紀(註3)を絶つ
  一朝被讒言  一朝讒言(註4)を被りて
  二桃殺三士 二桃三士を殺す
  誰能爲此謀  誰か能く此の謀を為せる
  國相齊晏子  国相斉の晏子なり

  (註1)梁甫(りょうほ)梁父ともいう。斉の泰山の麓にある山。
  (註2)蕩陰里(とういんり) 斉城の近くの村里名。
  (註3)地紀 「地維」に同じく、地を維持するつな。絶(き)
   れると地が傾き覆る。古の伝説によると、天柱地維があって
   天地が保たれると考えた。
  (註4)讒言 春秋時代の斉の名相晏平仲が景公に請うて、公孫
   接(こうそんしょう)・田開彊(でんかいきょう)・古冶子
   (こやし)の三子に二個の桃を与えさせた。晏子は三士に、
   「三士は何の功あってその桃を食うか」と詰る。公孫接は
   「大豕や虎も一打ちに捕らえる力があるためだ」と答え、田
   開彊は「伏兵を設けて再び敵を奔らせた功がある」という。
   古冶子は「われは君に従って黄河を渡った時、大亀が添え馬
   を咥えて河に入ったので亀を殺し馬の尾を握って水中から出
   た。その亀は河伯という黄河の神であった」という。二士は
     古冶子に及ばないのに桃を食うのは貪ることであると考え、
   貪欲の不名誉を受けて死なないのは勇気がないことになると
   いうので自殺した。古冶子は二子が死んだのに自分が生きて
   いるのは不仁である、人をはずかしめて名声を得るのは不義
   である、こんな遺憾な行いをして死なないのは、勇がないこ
   とになると考えてまた自殺した。
    このことは斉の国相晏子が、この三士が自分に対して起っ
   て礼をしなかったことを意に含んで陥れたのであった。これ
   を「二桃三士を殺す」という。(晏子春秋)

 歩いて斉の城門のそとに出て
 遥かに蕩陰里を眺めると
 里に三つの塚が見える
 相重なって皆似ている
 これは誰の墓であろうか
  これこそ田開彊・古冶子・公孫接の墓である
  彼らは、体力は南山を押し退けるほどに足り
  学徳は地維を絶地天地を動かすほどの人たちだった
  ところが一朝讒言を被って
  二個の桃がこの三士を殺すことになった
  誰がこの謀をしたのだろう
  それは斉の国相晏子のやったことである

 晏子は優れた人物といわれていたのですが、たいへんに心の狭い人間でこの三士が礼を失したというので、こうした策略を謀ったというわけです。それにひきかえ三士の心こそ誠に壮烈で、その死は惜しむべきであるというわけです。孔明は晏子の狭量を責めているわけです。

 と以上のように私は思ってきました(かつそのような解釈の参考書が多い)。だがちかごろは、どうも孔明の心は違うのではないかと思い至りました。たった桃二つで、勇者3人をかたずけることのできた晏子をこそ誉めているのではないのかと思い至ったのです。孔明はとにかく自分も晏子のような人物になりたいと言っていましたから。そしてこの3人が当時の斉の国の為には邪魔な人物だったのかもしれません。孔明はさらに、この3人もそれを知ってわざわざ死んでいったのだといいたいのかなとまで思いました。

11052709 この歌を詩って孔明はこの南陽の隆中で隠栖生活をしていたわけです。このときの孔明のことを、「臥龍」とか「伏龍」とかいうわけです。それで二七歳のときに劉備玄徳の三顧の礼を受け、いよいよ世に出ていくことになります。 これはいわば孔明のころよく歌われていた民謡とか歌謡曲といえるのかもしれません。「槊を横たえ詩を賦す」という曹操の「短歌行」の悲壮慷慨の気とはかなり感じが違うといえるかと思います。これが、白面の天才青年軍師というよりは、生真面目な農村の秀才肌の青年といった姿が孔明の真の姿ではないのかなと、私が思うところなわけなのです。
 そしてそんな姿の孔明こそ私は好きになれるのです。
 (なお晏子については、宮城谷昌光『晏子』 も読んでみてください)

10120901  私が「三国志」の中で誰が好きかといわれたら、躊躇なく「それは曹操だよ」と答えてきました。吉川英治はこの三国志の主役といったら、前半が曹操、後半が諸葛亮孔明と言っています。これはまったくそのとおりだといえるでしょう。前半が曹操以下たくさんの英雄たちが中国の大地を好きかってに動きまわるのにくらべて、孔明が出てくると、何故か生真面目な世界になってきます。孔明という白面の学問青年に、あれほどの英雄豪傑を抱えた曹操がどうにも手がでません。いや魏の勢力だけでなく、周瑜以下の呉の豪傑たちも、孔明にはふりまわされます。それどころか、関羽や張飛まで孔明の前では、なんだか成績の悪いただの暴れものの生徒のような感じになります。「やっぱり四書五経以下きちんと勉強したものが最後は勝つのだ」と、後世の私たちまでいわれているような気になってしまいます。
 私は孔明も好きなのですが、それは実はこうした戦争の達人としてえがかれていることよりも、彼の真っ直ぐさ、劉備への愚鈍なまでの敬愛を感じるからです。孔明はむしろ軍略家としては、司馬懿仲達よりも2段くらい下だと思われます。正史「三国志」で、蜀の生まれである作者があまり孔明を評価しないのは、かの「孔明泣いて馬謖を斬る」の事件のときに、正史の作者陳寿の父親を責任者として罰したことにあるわけなのですが、この事件をみても、何故このような戦略戦術のイロハを守れない馬謖などが一軍の将だったのでしょうか。曹操以下の幕僚たちには、この程度の将はたくさんいたのです。それが実際には曹操と孔明の力量の差であり、孔明が仲達には勝てなかったところだと思います。
 それに比べて曹操の存在の気持ちのいいことったらありません。彼ほど派手に戦争に勝利する英雄もいないように思いますが、同時に彼ほど派手に戦争に敗北した英雄もいないのではないでしょうか。まあこのことは吉川英治もいっているわけですが。
 しかしここではこうした三国志のことを書くことが目的ではありません。私は詩人としての曹操を見てみたいのです。曹操の二人の息子、次男の曹丕、三男の曹植とともに『三曹』と呼ばれて、三人とも詩人として名高いのですが、なにかあると紹介されるのは曹植の詩が多いようです。私はいつも、「なんで曹植ばかりなの、もっと曹操の詩を紹介してほしい」という気持ちでいっぱいです。私はなんといっても曹操の詩、とくに「短歌行」という詩が好きなのです。

  短歌行   曹操
 對酒當歌 酒に対しては当に歌うべし
 人生幾何 人生幾何ぞ
 譬如朝露 譬えば朝露の如し
 去日苦多 去日苦だ多し
 慨當以康 慨しては当に以て康すべし
 幽思難忘 幽思忘れ難し
 何以解憂 何を以て憂いを解かん
 唯有杜康 唯だ杜康(註1)有るのみ
 青青子衿 青青たる子の衿(註2)
 悠悠我心 悠悠たる我が心
 但爲君故 但だ君が故が為に
 沈吟至今 沈吟して今に至る
 幼幼鹿鳴 幼幼として鹿鳴き
 食野之苹 野の苹を食う
 我有嘉賓 我に嘉賓有り
 鼓瑟吹笙 瑟を鼓し笙を吹く
 明明如月 明明たること月の如き
 何時可採 何れの時にか採るべき
 憂從中來 憂いは中より来たり
 不可斷絶  断絶す可からず 
 越陌度阡 陌を越え阡を度り
 枉用相存 枉げて用って相存す
 契闊談讌 契闊談讌して
 心念舊恩 心に旧恩を念う
 月明星稀 月明らかに星稀に
 烏鵲南飛 烏鵲南へ飛ぶ
 紆樹三匝 樹を紆ること三匝
 何枝可依 何れの枝か依る可き(註3)
 山不厭高 山は高きを厭わず
 海不厭深 海は深きを厭わず
 周公吐哺 周公哺を吐きて(註4)
 天下歸心 天下心を帰す

 (註1)杜康 初めて酒を作ったとされる人物。ひいては酒のことをいう。
 (註2)青衿 周代の学生の制服。ひろく知識人に呼びかけることば。
 (註3)月が明るいために星が稀に、我が威力に群雄が影をひそめたようだ。かささぎが南へ飛んでいくが、樹を三たびめぐっても、依るべき枝がない。それは、ちょうど劉備たちが身を寄せるところもなく南へ敗走した姿のようだ。
 (註4)周公吐哺 周の周公旦が天下の人材登用の熱心のあまり、一度食事する間に三度もいったん口に含んだ食物を吐きだして、人と面接したという。

 蘇軾が「赤壁賦」において、

  灑酒臨江横槊。 酒を灑(したしん)で江に臨み、槊を横へて詩を賦す。

と読んだ英雄曹操の詩がこれです。まさしく赤壁で槊を横たえ詩を賦す曹操の姿が目に浮んできます。しかし大事なのは、この詩を賦す姿が魏の武将たちの姿なのです。こうした詩人の姿はこの時代に現れたわけです。
 曹操は自分たちの幕僚との間に「友情」といった感覚をもっています。こうした感情は過去にはなかったものなのです。諸葛孔明の「出師表」

  先帝創業未半、而中道崩徂。今天下三分、益州罷敝。此誠危急存亡之秋也。(先帝業創めてより未だ半ばならずして、中道にして崩徂す。今天下三分して益州罷敝す。此れ誠に危急存亡のときなり。……)

を読んでいると、どうみても、孔明と劉備の間に「友情」というようなものを感じることはできません。だが曹操の詩には、そうした感情が顕れているのではないのかと私には思えてきます。
 こうした曹操の気風が建安の七子(偶然6人まで曹操の幕僚たち)といわれる詩人たちにも流れています。
 詩の意味を見てみましょう。すこしよく読みこまないと、曹操の悲壮慷慨の気が判からないかもしれません。

 酒を飲むときには、大いに歌うべきだ。
 人生なんかどれほどのものか。
 朝露のようにはかなく短く、
 過ぎ去る日のみ多いものだ。
   (ここまで読むと、どうもそれほどの英雄の詩とも思えません。なにつ
    まらなく愚痴ってるの、というところでしょう)
 思いのままに歌うがいい。
 だが憂いは忘れようがない。
 何でこの憂いを消し去ろうか、
 ただ酒が有るのみだ。
   (ここまでもただの酔っぱらいのたわごとです。私たちの飲み方とそう
    変わらない。いや私たちよりくどくどしているようにも思えます)
 青い衿の学友諸君!
 わたしのこうした心は、
 君たちのなかにすぐれた才能を見いだしたく、
 今までひたすら思い続けてきた。
   (ここで一転、恋の歌のようになる。そうなのだ、曹操は士を恋うる英
    雄なのです)
 鹿は幼幼(ゆうゆう)として鳴きながら
 野のよもぎを食べている。
 そんなようにわたしは大事な友人とともに
 琴を鳴らし、笛を吹いてみよう。
 明るく輝く月の光は、
 いつまでも手にとることはできない。
 心の中からくる憂いは、
 絶ち切ることはできない。
 だが君ははるばると遠いところを、
 わざわざこうしてきてくれた。
 久し振りに飲み語らって、
 かっての友情をあたためよう。
   (憂いがなんだろうと、友がはるばるたずねてくれば、こうして飲み語
    りあかすのだ)  
 月明らかに星稀な夜、
 かささぎが南に飛ぼうととして、
 木のまわりを三度めぐり、
 依るべき枝をさがしあぐねている。
   (こうして劉備たちは南へ逃げていく、考えてみれば旧勢力である蜀漢
    と、こうした新しい感性をもった曹操たちの違いなのだ。結局劉備た
    ちは曹操とは飲み語る友情というような感覚はもっていないのだ)
 山は高いほどいい。
 海は深いほどいい。
 昔周公は食事の間も食べたものを吐き出してまで、士に会って応対した。
 だから天下の人が心をよせたのだ。
   (どんなに途中に山や海があろうと、そうした友である士を私は求める
    のだという曹操の心なのです)

 こうした曹操の心は、吉川英治「三国志」では「恋の曹操」という章で、関羽に心をよせながら、関羽に去られてしまう曹操の悲しさを描いています。吉川英治「三国志」のなかでは、私が一番好きなところです。曹操は自らの幕僚たちに、「友情」という感性で接することができた最初の英雄なのです。だから、曹操は負けても負けてもたくさんの幕僚たちは彼のもとで戦い続けるのです。ちなみに曹操の幕僚たちはみんな好きですが、私は張遼が一番好きですね。
 この「短歌行」は詩吟で吟うことはありません。まあ詠って詠えないことはないでしょうが、少なくとも、詩吟の譜がついているような詩ではないですから、自分でやらなければなりませんね。できるでしょうけれども。詩吟でやるよりも、私と飲むとときどきぶつぶついっていることがあったら、「酒に対しては当に歌うべし、人生いくばくぞ、たとえば朝露(ちょうろ)の如し……」と、この詩をつぶやいていますから、できたらきいてみてください。(1992.10.10)

 この詩が今では私の一番好きな漢詩です。いやいくつも好きな漢詩はあるのですが、いつも私の心の中でつぶやいている詩は、この詩が一番多いのです。曹操の存在思いをこの詩が一番顕していると私には思えるのですね。(2010.12.09)

10112210 以下は漢詩ではなく、土井晩翠の詩についてのことです。私は

   土井晩翠「星落秋風五丈原」

を最初に書いた時点では、私自身がこの詩をすべて暗誦し、かつよくあちこちで暗唱していたものですから、あまりこの詩に読みかなをふるというような意識がありませんでした。だが、次のメールをいただいたときに、「そうではないんだな」と思ったものでした。

『星落秋風五丈原』の読み方を教えてください」
   Sent: Friday, December 27, 2002 6:09 PM

 初めまして、Tと申します。兵庫県の小学校4年生担任をしています。

 国語の授業の最初5分程度を暗唱テストに当てています。子どもたちは、少ない子で10個、多い子で32個の詩文を合格しています。子どもたちの希望で、今、暗唱詩文集第2弾を作っています。

 そこで、『星落秋風五丈原』を選びました。しかし、私の教養がないため、読み方が分かりません。インターネットでたくさん調べたのですが、分かりませんでした。
 そこで、お願いがあります。読み仮名があっているか、見て頂きたいのです。(★)は、読み方が分からないものです。

『星落秋風五丈原』(★)

土井(つちい)晩翠(ばんすい)

祁山(きざん)悲秋(ひしゅう)の風(かぜ)更(ふ)けて
陣雲暗(じんうんくら)し五(ご)丈原(じょうはら)
零露(れいろ)の文(ぶん)は繁(しげ)くして
草(くさ)枯(か)れ馬(うま)は肥(こ)ゆれども
蜀軍(しょくぐん)の旗光(はたびかり)無(な)く
鼓角(つづみかど)の音(おと)も今(いま)しづか
丞相(じょうしょう)病(やまい)あつかりき

清渭(★)の流(なが)れ水(みず)やせて
むせぶ非情(ひじょう)の秋(あき)の聲(★)
夜(よ)は關山(かかやま)の風(かぜ)泣(な)いて
暗(あん)に迷(まよ)ふかかりがねは
令(れい)風霜(ふうそう)の威(い)もすごく
守(まも)る諸營(しょえい)の垣(かき)の外(そと)
丞相(じょうそう)病(やまい)あつかりき

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           T  
gttaqua@yahoo.co.jp
http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/6533/
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「Re:『星落秋風五丈原』の読み方を教えてください」
            Sunday, December 29, 2002 1:19 PM

 ちゃんとメールします。最初私の港区のクライアントでTさんのメールを読みましたときは、「星落秋風五丈原」が全文でてくるのかと思い込んでいました。それで、「時間がないけれど、少し書こう」と思いましたら、2連だけのご質問だったのですね。

国語の授業の最初5分程度を暗唱テストに当てています。
子どもたちは、少ない子で10個、多い子で32個の詩文を合格しています。子どもたちの希望で、今、暗唱詩文集第2弾を作っています。

 これはものすごくいいですね。できたら、「平家物語」の最初なんかもやってほしいな。
 それで、最初はまずT先生に正確に読んで生徒たちに聞かせてほしいものです。日本の古典というのは、まず第一に読んで聞かせるものなのです。だから「音(おん)」で綺麗に聞こえないといけないと思うのです。その綺麗な日本の古典の音(おん)は、必ず彼らの心の中に染みていくと思います。
 この「星落秋風五丈原」もそうですね。小学生でも、この美しい日本語の音(おん)をたくさん覚えてほしいと思うんです。そして、このときの五丈原の戦いを教えてあげてください。地図を書いて教えてあげてほしいな。
 この詩は七五調で書かれています。だから、そういう音(おん)の詩として声に出して読んでいただきたいのです。

『星落秋風五丈原』(→ほしおつしゅうふうごじょうげん)(或いは→せいらくしゅうふうごじょうげん)

陣雲暗(じんうんくら)し五(ご)丈原(じょう はら→げん)
零露(れいろ)の文(ぶん→ふみ)は繁(しげ)くして

蜀軍(しょくぐん)の旗光(はた びかり→ひかり)無(な)く

 七五調ですから

 蜀軍の旗 光無く

と読むわけです。

鼓角(つづみかど→こかく)の音(おと)も今(いま)しづか
丞相(じょうしょう→じょうしょう)病(やまい)あつかりき

清渭(→せいい)の流(なが)れ水(みず)やせて
むせぶ非情(ひじょう)の秋(あき)の聲(→こえ)
夜(よ→私は「よる」と読んでしまいます。字余りですが)は關山(かかやま→かんざん)の風(かぜ)泣(な)いて
暗(あん→やみ)に迷(まよ)ふかかりがねは

守(まも)る諸營(しょえい→「しょえい」でいいのでしょうが、私は「とりで」と読んでしまいます)の垣(かき→私は「かきね」と読みます。字余りですが)の外(そと)
丞相(じょうそう→じょうしょう)病(やまい)あつかりき

 でもやはりいい詩ですね。諸葛孔明は、この詩だけで、彼の人となりが目の前に浮んでくる感じがします。

 T先生は、きっと素敵な授業を展開されているのでしょうね。私の娘二人も小学校の教員です。私はずうずうしく娘の学校へ行ってしまうのですが、今の子どもたちの素晴らしいところには感激してしまいます。私なんか思えば、音楽も苦手で、美術なんか、もっと苦手でした。それから、こうした詩を読むのも少しも好きでありませんでした。それは本来は私自身がいけなかったのでしょうが、もう少し先生方も楽しく教えてくれればよかったのにな(もっとも人数が多かったから、その当時の先生は大変だったでしょうね。私が小学校1年の札幌でのクラスは70名の生徒でひしめいていました)。日本のたくさんの詩が、音(おん)として美しい調べをもっていることが判ったのなら、もっと早くから好きになれたはずなのです。
 そんなことを思いました。萩原周二


「申し訳ありません」
         Sent: Saturday, January 11, 2003 12:57 PM

 今になって訂正します。申し訳ないです。

零露(れいろ)の文(ぶん→あや→ふみ)は繁(しげ)くして

「あや」でも間違いではないのでしょうが、やっぱり音で読んでいくと「ふみ」ですね。 ごめんなさい。

と前に書いたところですが、ずっと気になっていまして、この部分だけずっと音に出して、暗唱していましたが、やはり「あや」でなければいかないのだと気がつきました。
 これは「ふみ」だと文書とか手紙となってしまいます。「したたり落ちる露の模様は………」という意味ですから、「文」はいわば「文様」ですから、「ふみ」や「ぶん」ではなく「あや」と、作者も詠んだのだと思います。
 たいへん、今になりまして申し訳ありません。できましたら、次の版のときに訂正いただけますか。
 申し訳ありませんでした。頓首 萩原周二


 以上のメールは他にもいくつかやりとりしたのですが、これで「周の詩歌の館」のUP分にも誰でも声に出して詠めるように、ふりがなをつけることにしました。(2003.01.13)

2016112704

10111105 この詩を私は高校3年のときに暗記暗誦したものでした。それを以下ここに書きます。いえ、この詩は私のブログに書いておきたいのです。長い詩ですが、私のホームページを今年5月最初に廃止したもので、とにかく私のブログにUPしておきたいのです。(2010.11.11)

私は三国志の世界では、曹操が好きであり、また詩人としても曹操、曹丕、曹植が好きです。ただ諸葛孔明は、その「誠」とでもいうべき姿勢には、心を打たれる惹かれるものを感じます。その孔明の心情を一番表しているのではと私が思うのがこの詩です。

星落秋風五丈原(「せいらくしゅうふうごじょうげん」或いは「ほしおつしゅうふうごじょうげん」)
                  土井晩翠(どいばんすい或いはつちいばんすい)
     
  祁山(きざん)悲秋の 風更(ふ)けて
陣雲暗し 五丈原(ごじょうげん)、
零露(れいろ)の文(あや)は 繁(しげ)くして
草枯れ馬は 肥ゆれども
蜀軍の旗 光無く
鼓角(こかく)の音も 今しづか。

丞相(じょうしょう)病 あつかりき。

清渭(せいい)の流れ 水やせて
むせぶ非情の 秋の聲(こえ)、
夜(よ)は關山(かんざん)の 風泣いて
暗(やみ)に迷ふか かりがねは
令風霜の 威もすごく
守る諸營(とりで)の 垣の外。

丞相病あつかりき。

帳中(ちょうちゅう)眠(ねむり) かすかにて
短檠(たんけい)光 薄ければ
こゝにも見ゆる 秋の色、
銀甲(ぎんこう)堅く よろへども
見よや待衞(じえい)の 面(おも)かげに
無限の愁(うれい) 溢(あふ)るゝを。

丞相病 あつかりき。

風塵遠し 三尺の
劍(つるぎ)は光 曇らねど
秋に傷めば 松柏(しょうはく)の
色もおのづと うつろふを、
漢騎十萬 今さらに
見るや故郷の 夢いかに。

丞相病 あつかりき。

夢寐(むび)に忘れぬ 君王(くんのう)の
いまわの御(み)こと 畏(かしこ)みて
心を焦(こ)がし 身をつくす
暴露のつとめ 幾とせか、
今落葉(らくよう)の 雨の音
大樹(たいき)ひとたび 倒れなば
漢室の運 はたいかに。

丞相病 あつかりき。

四海の波瀾 收まらで
民は苦み 天は泣き
いつかは見なん 太平の
心のどけき 春の夢、
群雄立ちて ことごとく
中原(ちゅうげん)鹿(しか)を 爭ふも
たれか王者の 師を學ぶ。

丞相病 あつかりき。

末は黄河の 水濁る
三代の源(げん) 遠くして
伊周(いしゅう)の跡は 今いづこ、
道は衰へ 文(ふみ)弊れ
管仲(かんちゅう)去りて 九百年
樂毅(がっき)滅びて 四百年
誰か王者の 治(ち)を思ふ。

丞相病 あつかりき。

      二
嗚呼南陽の 舊草廬(きゅうそうろ)
二十餘年の いにしえの
  夢はたいかに 安かりし、
  光を包み 香をかくし
  隴畝(ろうほ)に民と 交われば
  王佐の才に 富める身も
  たゞ一曲の 梁父吟(りょうほぎん)。

閑雲(かんうん)野鶴(やかく) 空(そら)濶(ひろ)く
風に嘯(うそぶ)く 身はひとり、
月を湖上に 碎(くだ)きては
ゆくへ波間の 舟ひと葉、
ゆふべ暮鐘(ぼしょう)に 誘はれて
訪ふは山寺(さんじ)の 松の影。

江山(こうざん)さむる あけぼのゝ
雪に驢(ろ)を驅(か)る 道の上
寒梅痩せて 春早み、
幽林(ゆうりん)風を 穿(うが)つとき
伴(とも)は野鳥の 暮の歌、
紫雲たなびく 洞(ほら)の中
誰そや棊局(ききょく)の 友の身は。

其(その)隆中(りゅうちゅう)の 別天地
空のあなたを 眺(なが)むれば
大盜(たいとう)競(き)ほひ はびこりて
あらびて榮華 さながらに
風の枯葉(こよう)を 掃(はら)ふごと
治亂(ちらん)興亡(こうぼう) おもほへば
世は一局の 棊(き)なりけり。

其(その)世を治め 世を救ふ
經綸(けいりん)胸に 溢るれど
榮利を俗に 求めねば
岡も臥龍(がりょう)の 名を負ひつ、
亂れし世にも 花は咲き
花また散りて 春秋(しゅんじゅう)の
遷(うつ)りはこゝに 二十七。

高眠遂に 永からず
信義四海に 溢れたる
君が三たびの 音づれを
背(そむ)きはてめや 知己の恩、
羽扇(うせん)綸巾(かんきん) 風輕(かろ)き
姿は替へで 立ちいづる
草廬あしたの ぬしやたれ。

古琴(こきん)の友よ さらばいざ、
曉(あけぼの)たむる 西窓(せいそう)の
殘月の影よ さらばいざ、
白鶴(はっかく)歸れ 嶺の松、
蒼猿(そうえん)眠れ 谷の橋、
岡も替へよや 臥龍の名、
草廬あしたの ぬしもなし。

成算(せいさん)胸に 藏(おさま)りて
乾坤こゝに 一局棊(いっきょくき)
たゞ掌上(しょうじょう)に 指(さ)すがごと、
三分の計(けい) はや成れば
見よ九天の 雲は垂れ
四海の水は 皆立(たち)て
蛟龍飛びぬ 淵の外。


英才雲と 群がれる
世も千仭(せんじん)の 鳳(ほう)高く
翔(か)くる雲井の 伴(とも)やたそ、
東(ひがし)新野(しんや)の 夏の草
南(みなみ)瀘水(ろすい)の 秋の波
戎馬(じゅうば)關山(かんざん) いくとせか
風塵暗き ただなかに
たてしいさをの 數いかに。

江陵去りて 行先は
武昌夏口の 秋の陣、
一葉(いちよう)輕く 棹(さお)さして
三寸の舌 呉に説けば
見よ大江の 風狂ひ
焔(ほのお)亂れて 姦雄の
雄圖(ゆうと)碎けぬ 波あらく。

劔閣(けんかく)天に そび入りて
あらしは叫び 雲は散り
金鼓(きんこ)震(ふる)ひて 十萬の
雄師は圍(かこ)む 成都城
漢中尋(つい)で 陷(おちい)りて
三分の基(もと) はや固し。

定軍山の 霧は晴れ
汚陽(べんよう)の渡り 月は澄み
赤符(せきふ)再び 世に出(い)でゝ
興(おこ)るべかりし 漢の運
天か股肱の 命(めい)盡きて
襄陽遂に 守りなく
玉泉山(ぎょくせんざん)の 夕まぐれ
恨みは長し 雲の色。

中原北に 眺むれば
冕旒(べんりゅう)塵に 汚されて
炎精(えんせい)あはれ 色も無し、
さらば漢家の 一宗派(いちそうは)
わが君王を いただきて
踏ませまつらむ 九五(きゅうご)の位(い)、
天の暦數 こゝにつぐ
時建安の 二十六
景星(けいせい)照りて 錦江(きんこう)の
流に泛(うか)ぶ 花の影。

花とこしへの 春ならじ、
夏の火峯(かほう)の 雲落ちて
御林(ぎょりん)の陣を 焚(や)き掃ふ
四十餘營(しじゅうよえい)の あといづこ、
雲雨(うんう)荒臺(こうだい) 夢ならず、
巫山(ふざん)のかたへ 秋寒く
名も白帝の 城のうち
龍駕(りょうが)駐(とどま)る いつまでか。

その三峽の 道遠き
永安宮(えいあんきゅう)の 夜の雨、
泣いて聞きけむ 龍榻(りょうとう)に
君がいまわの みことのり。
忍べば遠き いにしえの
三顧の知遇 またこゝに
重ねて篤き 君の恩、
諸王に父と 拜(はい)されし
思(おもい)やいかに 其(その)宵(よい)の。

邊塞(へんさい)遠く 雲分けて
瘴烟(しょうえん)蠻雨(ばんう) ものすごき
不毛の郷(きょう)に 攻め入れば
暗し瀘水(ろすい)の 夜半(よわ)の月、
妙算世にも 比(たぐい)なき
智仁を兼ぬる ほこさきに
南蠻いくたび 驚きて
君を崇(あが)めし 「神なり」と。

      四
南方すでに 定まりて
兵は精(くわ)しく 糧(かて)は足る
君王の志 うけつぎて
姦(かん)を攘(はら)はん 時は今、
江漢(こうかん)常武(じょうぶ) いにしへの
ためしを今に こゝに見る
建興五年 あけの空、
日は暖かに 大旗(おおはた)の
龍蛇(りょうだ)も動く 春の雲、
馬は嘶(いなな)き 人勇む
三軍の師を 隨へて
中原北に うち上る。

六たび祁山の 嶺の上、
風雲動き 旗かへり
天地もどよむ 漢の軍、
偏師節度を 誤れる
街亭の敗(はい) 何かある、
鯨鯢(げいげい)吼(ほ)えて 波怒り
あらし狂うて 草伏せば
王師十萬 秋高く
武都(ぶと)陰平(いんぺい)を 平げて
立てり渭南の 岸の上。

拒(ふせ)ぐはたそや 敵の軍、
かれ中原の 一奇才
韜略(とうりゃく)深く 密ながら、
君に向はん すべぞなき、
納めも受けむ 贈られし
素衣巾幗(そいきんかく)の あなどりも、
陣を堅うし 手を束(つか)ね
魏軍守りて 打ち出でず。

鴻業果(はた)し 收むべき
その時天は 貸さずして
出師(すいし)なかばに 君病みぬ、
三顧の遠い むかしより
夢寐に忘れぬ 君の恩
答て盡す まごゝろを
示すか吐ける 紅血(くれない)は、
建興の十三 秋なかば
丞相病 篤かりき。


魏軍の營(えい)も 音絶て
夜(よ)は靜かなり 五丈原、
たゝずと思ふ 今のまも
丹心(たんしん)國を 忘られず、
病(やまい)を扶(たす)け 身を起し
臥帳(がちょう)掲(かか)げて 立ちいづる
夜半の大空 雲もなし。

刀斗(ちょうと)聲無く 露落ちて (註)刀は正式には「ちょう」の字
旌旗(せいき)は寒し 風清し、
三軍ひとしく 聲呑みて
つゝしみ迎ふ 大軍師、
羽扇綸巾(うせんかんきん) 膚(はだ)寒み
おもわやつれし 病める身を
知るや情(なさけ)の 小夜(さよ)あらし。

諸壘あまねく 經(へ)廻(めぐ)りて
輪車(りんしゃ)靜かに きしり行く、
星斗(せいと)は開く 天の陣
山河はつらぬ 地の營所(えいしょ)、
つるぎは光り 影冴えて
結ぶに似たり 夜半の霜。

嗚呼陣頭に あらわれて
敵とまた見ん 時やいつ、
祁山の嶺(みね)に 長驅(ちょうく)して
心は勇む 風の前、
王師たゞちに 北をさし
馬に河洛に 飲まさむと
願ひしそれも あだなりや、
胸裏(きょうり)百萬 兵はあり
帳下三千 將足るも
彼れはた時を いかにせん。


成敗遂に 天の命
事あらかじめ 圖(はか)られず、
舊都(きゅうと)再び 駕(が)を迎へ
麟臺(りんだい)永く 名を傳ふ
春(はる)玉樓(ぎょくろう)の 花の色、
いさをし成りて 南陽に
琴書(きんしょ)をまたも 友とせむ
望みは遂に 空(むな)しきか。

君恩(くんおん)酬(むく)ふ 身の一死
今更我を 惜しまねど
行末いかに 漢の運、
過ぎしを忍び 後(のち)計る
無限の思(おもい) 無限の情(じょう)、
南(みなみ)成都(せいと)の 空いづこ
玉壘(ぎょくるい)今は 秋更けて、
錦江の水 痩せぬべく
鐵馬(てつば)あらしに 嘶きて、
劔關の雲 睡(ねぶ)るべく。

明主の知遇 身に受けて
三顧の恩に ゆくりなく
立ちも出でけむ 舊草廬
嗚呼鳳(ほう)遂に 衰へて
今に楚狂(そきょう)の 歌もあれ、
人生意氣に 感じては
成否をたれか あげつらふ。

成否をたれか あげつらふ
一死盡くしゝ 身の誠、
仰げば銀河 影冴えて
無數の星斗 光濃し、
照すやいなや 英雄の
苦心孤忠の 胸ひとつ、
其(その)壯烈に 感じては
鬼神も哭かむ 秋の風。


鬼神も哭かむ 秋の風、
行(ゆき)て渭水の 岸の上
夫の殘柳(ざんりゅう)の 恨(うらみ)訪(と)へ、
劫初(ごうしょ)このかた 絶えまなき
無限のあらし 吹(ふき)過ぎて
野は一叢(いっそう)の 露深く
世は北邱(ほくぼう)の 墓高く。

蘭(らん)は碎けぬ 露のもと、
桂(かつら)は折れぬ 霜の前、
霞(かすみ)に包む 花の色
蜂蝶(ほうちょう)睡(ねむ)る 草の蔭、
色もにほひも 消(きえ)去りて
有情(うじょう)も同じ 世々の秋。

群雄次第に 凋落し、
雄圖(ゆうと)は鴻(こう)の 去るに似て
山河幾とせ 秋の色、
榮華盛衰 ことごとく
むなしき空に消行けば
世は一場(いちじょう)の 春の夢。

撃たるゝものも 撃つものも
今更こゝに 見かえれば
共に夕(ゆうべ)の 嶺の雲
風に亂れて 散るがごと、
蠻觸(ばんしょく)二邦(にほう) 角(つの)の上
蝸牛の譬 おもほへば
世ゝの姿は これなりき

金棺灰を 葬りて
魚水の契り 君王も
今(いま)泉臺(せんだい)の 夜の客
中原北を 眺むれば、
銅雀臺(どうじゃくだい)の 春の月
今は雲間の よその影
   大江(たいこう)の南 建業の
   花の盛も いつまでか。

五虎の將軍 今いづこ。
神機(しんき)きほひし 江南の
かれも英才 いまいづこ、
北の渭水の 岸守る
仲達(ちゅうたつ)かれも いつまでか、
聞けば魏軍の 夜半の陣
一曲遠し 悲茄(ひか)の聲。

更に碧(みどり)の 空の上
靜かにてらす 星の色
かすけき光 眺むれば
神祕は深し 無象(むしょう)の世、
あはれ無限の 大うみに
溶くるうたかた 其(その)はては
いかなる岸に 泛(うか)ぶらむ、
千仭暗し わだつみの
底の白玉 誰か得む、
幽渺(ゆうびょう)境(さかい) 窮(きわ)みなし
鬼神のあとを 誰か見む。

嗚呼五丈原 秋の夜半
あらしは叫び 露は泣き
銀漢(ぎんかん)清く 星高く
神祕の色に つゝまれて
天地微かに 光るとき
無量の思 齎(もた)らして
「無限の淵」に 立てる見よ、
功名いづれ 夢のあと
消えざるものは たゞ誠、
心を盡し 身を致し
成否を天に 委(ゆだ)ねては
魂遠く 離れゆく。

高き尊き たぐいなき
「悲運」を君よ 天に謝せ、
青史の照らし 見るところ
管仲樂毅 たそや彼、
伊呂の伯仲 眺むれば
「萬古の霄(そら)の 一羽毛」
千仭翔(かく)る 鳳(ほう)の影、
草廬にありて 龍と臥し
四海に出でゝ 龍と飛ぶ
千載の末 今も尚
名はかんばしき 諸葛亮。

私は昔からこの詩を何度も何度も読んできました。一時は全文暗誦できたものです。やはり私には、この詩こそ諸葛亮孔明のことを一番よく表しているように思えます。

司馬懿仲達と何度も闘った五丈原で孔明は、大きな流れ星が落ちると同時に亡くなりました。仲達という当時最大の軍略家は、とうとう最後まで孔明が中原に進出するという悲願を防ぎとおしました。仲達は第二次ポエニ戦争におけるハンニバルに対する大スキピオといえるのでしょうか。ただしスキピオはザマでハンニバルに直接勝利しますが、仲達は孔明に勝利はしないのです。負けなかっただけなのです。しかし、魏と蜀の関係では、魏は負けなければ、もはや中原を支配しているのですから、それだけで蜀には勝利していることになるのです。
それにしても、この詩を読んでいると、誠に一途な孔明を感じてしまいます。ひたすら劉備玄徳の恩に酬いたいがために、なんとしても中原にうって出たい孔明の気持、中原を制覇して、漢室を再興することこそ、玄徳への恩をかえすことであり、またそれが、中国の大衆を苦しみから救うことだと考えていたのでしょう。それに対して、仲達の存在はもはやそんな考え自体もう時代遅れだよといっているようにも思えます。
また土井晩翠もまたこの孔明にかなりな愛を感じているのがそのまま伝わってきます。それに、この詩の語句はまた三上卓「青年日本の歌(昭和維新の歌)」でもいくつか使われていますね。私もどうしても自然に口から出てくるような詩句がいくつもあります。(ある方の指摘により作詞作曲者名を間違えていましたことに気がつき訂正しました。ありがとうございます)
そしてこの詩が収められている「天地有情」ですが、やはりこれ全体がいいですね。やはりこうして孔明の真心を天は知っていて、孔明の蜀に勝利をもたらす訳ではありませんが、孔明が亡くなる時に、星を五丈原に降らすわけです。天は黙って見ているのです。

高校時代の文学史の授業で、明治の詩人としては、北村透谷や島崎藤村のみ扱われて、土井晩翠をさほど評価しない内容だったのに、私は強烈に文句をつけたことがあります。とにかく私には中学生の時から好きで音読していた詩人でした。
  私の持っている「天地有情」の収められている詩集は、新潮文庫の「土井晩翠詩集」で、中2のときに鹿児島のある古本屋で買ったものでした。編者と解説がなんと保田與重郎です。

  私は晩翠詩の初めての讀者に對しては、語句の詮議を第二として、まずその作をよみ、これが音調を味ふことをすゝめる。由來和漢の文藝は、一應字を讀みうれば情おのづとうつるものである。晩翠詩中に於て、まことに難解と考へられる字句は極めて僅少である。そこで歌はれてゐる事實は日本人としての教養に缺くことの出來ない東西古今の文物史蹟である。これを知識として知ることは、文明の國民の單なる義務である。(保田與重郎「土井晩翠詩集」解説

この古本屋に、土井晩翠訳のホメロス「イーリアス」が置いてありました。それを見あげて、高価なので買えないことを悔しがっていたものでした。

私がときどき行くゴールデン街の飲み屋(「ひしょう」でした)で、2軒目としていきますから、夜の12時ころになりますが、そこで1年に1度くらい会う(私がこんな夜遅く行くからなかなか会えないのです。1軒目としていけばもっと会えるのでしょうが)、元国立大学の先生がいます。もう65歳くらいでしょうか。その方が私の顔を見ると、必ず「あ、彼が来ちゃった、俺帰れなくなっちゃうよ」などといいながら、私に向かって

土井晩翠「星落秋風五丈原」!!

と叫びます。私は立ち上がって、この詩を暗唱しだします。しかし、もう私はちょうど1連くらいしか暗唱できないのです。彼は絶えず、「あ、一行抜かした」だの「それ読み方が違う」だのうるさいのです。私が「もうここまでくらいしか覚えていませんよ」というと、今度は

諸葛亮孔明「出師の表」!!

ということで、私はまた

先帝業を創めてより未だ半ばならずして、中道にして崩徂す。今天下三分して益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり。然れども待衛の臣内に懈らず、忠志の士身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追うて、これを陛下に報いんと欲するなり。誠に宜しく聖聴を開張して、……………………。

と暗誦しだします。
しかし、実にこれがいつものことですが、実に大変なのですね。もう長年の酒のせいかだんだんと記憶力がおちてきて、もうどれも正確に暗誦できなくなってきているのです。(この先生は、もう亡くなりました。もう随分の時間が経ちました。2005.08.14)

でもこうして、土井晩翠の詩や「出師表」を通して孔明を思ってくれる人がいるのは実に嬉しいことです。「演義三国志」での孔明はなぜかすべてを判りきっている大軍師のようで、あんまり好きにはなれないのですが、孔明の本当の姿というのは、この詩で土井晩翠がいう

消えざるものはたゞ誠、

ということにあるように思います。「誠」一筋の人だったよ、と思うのです。(2005.08.14)

またこれを読んで、暗記暗誦できるようにしていきます。(2010.11.11)

続きを読む

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 今このポメラで、「曹丕」を入れて、必死にポメラ自体に登録しようといましたが、無理でした。無理なのかな。

2010/02/21 08:04ちょうど8時を回ったところです。
 昨日は長女宅に行きましたが、ポコ汰は3Fでずっと眠っていました。私も3Fへ行きまして、しばし顔を見ていました。
 ポニョにもいっぱいお喋りしましたが、ママが買い物に行ったときに泣き出してしまったのですが、ポニョはなんとなく、私じいじでは動揺するのがすぐに判っているようです。
 あのね、じいじをいじめないでね。
2010/02/21 14:25いつもなぜかこのテレビの前のソファで眠ってしまっている私です。
2010/02/21 17:30「笑点」が始まります。
2010/02/21 17:41このポメラは単語登録が100しかできないので、いつも仕方ないな、面倒だなと思ってきました。でももういっそ100全部やればいいんだ、なんだそんなことだ。それで諸葛亮孔明と曹操と曹植を登録しました。でも曹丕はできないのですね。「丕」が駄目なのです(あとでパソコンで入れますね)。

 とにかく、このポメラは単語登録が貧弱で、それが不満です。

cb05194d.jpg なんとなくもう時間を必死でひねり出している感じです。
 漢字変換ソフトを替えました。これがもう大変ですね。もうかたっぱしから漢字熟語を登録しています。私は中国の三皇五帝をすべて登録していたのですが、これからやり直しです。諸葛亮孔明の「出師表」もすべて打てたのに残念です。また数年かかりますね。
 写真は10日受け取りましたノートパソコンです。実に軽いのです。これで6台目のノートかな。このノートのほうがデスクトップよりも価格が高いです。(11/13)

2017010203

激動の幕末期、天保十年(1839)〜慶應三年(1867)を生きた高杉晋作の詩です。

題焦心録後 焦心録後に題す
高杉晉作
内憂外患迫吾州 内憂外患(註1) 吾が州に迫る、
正是危急存亡秋 正に是れ 危急存亡の秋(とき)なり(註2)。
唯爲邦君爲邦國 唯だ邦君の為 邦国の為、
降彈名姓又何愁 降弾名姓(註3) 又何ぞ愁へん。

cb470b69.jpg (註1)内憂外患 内からの心配と外からの災い。藩内の政争と対幕府関係の昏迷。
(註2)正是危急存亡秋 これは諸葛亮孔明の「出師表」の最初の「先帝業を創めてより未だ半ばならずして中道にして崩徂す。今天下三分して、益州疲弊す、此誠に危急存亡之秋なり。…」からとっています。
(註3)名姓 名誉と生命

「焦心録」を綴った後に書きとめる。
藩内の政争があり、幕府が長州に迫っている、
まさしくこれは危急存亡の時である。
我が主君のため、いや日本のために、
弾丸が雨の如く降り注ぐが、名誉も命も私は何も愁いてはいない。

幕末のあの時代は、実に大変な変動の時でした。その中で長州藩を大きく変革し、尊王攘夷から倒幕まで大きな役割を果たしたのが、この高杉晋作です。思えば、この詩句にも諸葛孔明の「出師表」が使われているように、自分を孔明にもなぞらえたものなのでしょうね。

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もう一つの『三國志』 ―「演義が語らない異民族との戦い―

   この本を読み終わりましたが、今までにもこのブログに、私が読んだそのときの思いを書いてきました。それを含んで、すべて書き改めましたので、重複する部分もあるわけですが、以下にまとめて書いておきます。(2007.10.10)

 この本を時間がかかりましたが、すべて読み終わりました。ほぼ我孫子の自宅との往復の電車の中でのみ、読んでいました。

書 名 もう一つの「三國志」
    ───「演義」が語らない異民族との戦い───
著 者 坂口和澄
発行所 本の泉社
定 価 1,714円+税
発行日 2007年8月12日初版第1刷
読了日 2007年10月10日

 私は最初次のような思いを感じて書いていました。

 もうこれは面白いです。どんなに面白いかというと、私はその面白さを読むのが怖くて、本を開けられないのです。本を読むと、いつか読み終わってしまいます。それがものすごく怖いのです。
 最初に以下が大変に気になりました。

 曹操には十三人の女性に産ませた男の子が二十五人いた。そのうち六人は生後まもなくか。あるいは十歳未満で亡くなっている。めぼしい子といえばベン皇后が生んだ曹丕・曹彰・曹植、劉夫人が生んだ曹昴、杜夫人は生んだ曹コン、環夫人が生んだ曹沖・曹宇、王昭儀が生んだ曹幹、孫姫が生んだ曹彪あたりであろうか。
 父曹操の文学者としての一流の才能を受けたのは曹丕と曹植、これにやや劣るのが曹コンだった。文学者ではないが、これに十三歳で夭逝した天才児曹沖も加えていい。

 私はこんなに多くの曹操の息子たちを知りませんでした。
 私は前に、この曹操の息子の夢を見たことを書きました。

   http://shomon.net/bun/yume3.htm#050910  曹丕・曹植の兄弟

 でも思えば、この私の夢で見た「曹林」という人物に関しては、この著者は書いていませんね。まあ、仕方ないかなあ、と思ったものでした。(2007.10.07)

 日本人が読める「三國志」としては、以下の本を私は読んできました。私が読みました順です。

 吉川英治「三国志」
 柴田連三郎「英雄ここにあり」
 陳寿「三國志」(裴松之の註を含む)
 羅貫中「三國志演義」
 横山光輝マンガ「三国志」
 北方謙三「三国志」
 伴野朗「呉・三国志 長江燃ゆ」

 もちろん、あと短いものはいくつも読んでいます。

 それに小説ではないのですが、

   http://shomon.net/kansi/siika2.htm#tutii
                      土井晩翠「星落秋風五丈原」

は一時は全文暗記暗誦できたものでした。あと「世説新語」、「三国志平話」はまだ読んでいません。手に入れるのが大変だから、図書館でと思っています。
 それと宮城谷昌光さんの「三国志」が「文藝春秋」で連載中です。私はこれが世界で最大の「三国志」になるだろうと思っています。

ebeda195.jpg ところで、この坂口和澄さんのこの本ですが、大変に読み応えがあります。「西南夷の章」の「南征の目的はどこにあったか───諸葛亮」というところは、実に頷きました。孔明の南征は、「一体あんな遠征することが何になった
のかなあ?」という思いもあったのですが、実に納得できました。

 でも、思えば「三国志」の世界というのは、こうしたことをすべて含んでいるんですね。たとえ、「演義」には書かれていなくても、「正史三国志」では簡単に書いてあっても、それはまた別なところには、詳しく書かれています。

 そういえば、陳寿の「正史三国志」よりも、裴松之の註のほうがずっと文量が多いと思っていましたが、この21世紀近くなって実際に数えた人がいるそうで、わずかに陳寿の著述のほうが、文の量は多いそうです。これを知って私は実に驚いたものでした。私が考えることなんて、実に誰とも同じようなことしか頭に浮かばないものなのですね。
 奥付やインターネットで見つけた、この著者の著作が以下です。

 「戦」日中出版 1985年12月
 「眞説三國志」小学館 1997年06月
 「三国志英雄妖異伝」青春出版社 2001年08月
 「三國志群雄録」徳間書店 2002年12月
 「正史三國志群雄銘銘傳」光人社 2005年06月
 「三国志検定」青春出版社 2006年04月
 「三国志人物外伝」平凡社 2006年05月

 できたら、このすべてを読んでみようと思っています。

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787dcbe9.jpg 諸葛亨孔明と相対した司馬懿仲達との戦いの中で、私はいつも魏の張コウ(このコウは合という字におおざとがついています。いつもこの漢字がないことが悔しい思いです)という武将に興味がありました。
 最初は、袁紹の部下として登場しますが、官渡の戦いのときに曹操につきました。このときに曹操は実に彼が味方になったことを大変に喜んでいます。
 その後いつも張コウは魏の中で活躍していきますが、とくにこの蜀との闘いでは、いつも蜀の最大の魏軍の相手だと思います。劉備も、この張コウを一番恐れたといいます。
 孔明率いる蜀軍との戦いの中で、街亭の戦いで張コウは馬謖を大破します。このときに諸葛亮は命令を守らなかった馬謖を斬ります(「孔明泣いて馬謖を斬る」のときです)。
 この3年後、孔明は祁山に出兵し、その蜀軍が全面撤退するので、司馬懿が追撃を命じますが、張コウは「追い詰められて退却する軍を追撃してはならない」と主張しますが、司馬懿の主張の前に命令どうり追撃し、蜀軍の伏兵に遭い、このときに亡くなります。
 ただし、この張コウの扱いは、例えば吉川英治「三国志」では、彼は3度討死させられていますように、私には誰も疎略なように思えましたものです。この張コウをまともに扱いましたのは、私には漫画の横山光輝「三国志」のみに思えたものでした。あの三国志のみは、よくこの張コウを描いています。
 いえ、きのうの夜、突如この張コウのことを思い出したものでした。いや、杜甫の諸葛孔明に関する詩を考えているうちに、祁山での戦いを思いだし、やがては、この人物をおおいに思い出してしまったものなのです。
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詩歌三国志
書 名 詩歌三国志
著 者 松浦友久
発行所 新潮選書
定 価 1,200円+税
発行日 1998年10月30日発行
読了日 2007年5月13日

 私が5月12日に我孫子の自宅へ行きまして、13日の夕方王子に戻るときに、この本を電車の中で読んできました。ひさしぶりに読んだものでした。
 私は、土井晩翠「星落秋風五丈原」について初めて読んだのは、新潮文庫の「土井晩翠詩集」が初めてのことでした。そして高校1年のときにすべて暗記暗誦したものでした。
 思い出せば、私は吉川英治「三国志」を初めて読んだのは、高校2年生のときでした。私はあの小説を読んで、やはりなんといいましても曹操のことが一番好きになれました。諸葛亮孔明については、さほど好きな人物とは私には思えなかったものでした。孔明が活躍しだすと、なんとなく面白く感じられないのです。私はやはり、「槊を横たえて、詩を賦す」曹操が第一番目に好きでした。だが、孔明のことも大変に好きでもいられたのは、この晩翠のこの詩があったからだと思っています。

 http://shomon.net/kansi/siika2.htm#tutii 土井晩翠「星落秋風五丈原」

 ただ、今私のこのサイトを見て、残念なところがあります。それは「五」の2連目なのですが、私は以下のように書いてあります。

  刀斗(ちょうと)聲無く 露落ちて
  旌旗(せいき)は寒し 風清し、
  三軍ひとしく 聲呑みて
  つゝしみ迎ふ 大軍師、
  羽扇綸巾(うせんかんきん) 膚(はだ)寒み
  おもわやつれし 病める身を
  知るや情(なさけ)の 小夜(さよ)あらし。

 この最初の「刀斗(ちょうと)」の最初の字ですが、これは「刀」ではありません。この「ちょう斗」というのは、一斗を容れる斗(ます)形の銅鑼のことです。当時の軍隊で、昼は鍋として炊事に使い、夜は銅鑼として、警備上に撃ち鳴らすものです。この「ちょう」という字がどうしても出てこないのです。
 以下では、正確に書いていますが、作字していますね。

   http://uraaozora.jpn.org/podoi2.html  星落秋風五丈原

 私では作字できないのです。
 でも、最後の「終章───諸葛孔明像と”詠史の時空”」をちょうど日暮里駅についたとき読んでいまして、やっぱり私は涙が出てきました。

  草廬にありて 龍と臥し
  四海に出でゝ 龍と飛ぶ
  千載の末 今も尚
  名はかんばしき 諸葛亮。

 この孔明の存在があってこそ、曹操という存在も生き生きとしてくるのです。

 曹操が、第七十八回、すなわち全体の約三分の二の時点で長逝することをもって、かれの役割が終わったと見るのは当たらない。文帝(曹丕)・明帝(曹叡)との対決にせよ、司馬懿との対決にせよ、孔明はまさに、曹操が産み出した”魏国”という機構・体制と対決しているのであり、その意味で孔明はまさに、五丈原での戦役に至るまで、一貫して”曹操”と対決しているのだといってよい。敵役としての曹操の姦智と権力が絶大であればあるほど、それを打ち砕く孔明の知謀と赤誠は輝きを増し、小説『三国演義』の主人公としての役割は不動のものとなる。したがって、五丈原で孔明が死んだとき、その”陰画”としての曹操も、はじめてその役割を終えて本当に死ぬのである。孔明の知謀と赤誠なくしては小説『三国演義』は成り立たないが、曹操の姦智と権力なくしては孔明の存在は際立ち得ない。『三国演義』における孔明と曹操の役割の相補性は、どれほど強調しても、し過ぎにはならないであろう。この二人にくらべれば、劉備も孫権も、関羽や張飛や趙雲も、あるいは周瑜や司馬懿や陸遜も、小説『三国演義』における役割は遥かに小さい。(「終章───諸葛孔明像と”詠史の時空”」)

 いや、曹操があってこそ、孔明の存在が大きく生きてくるのだと思うのです。
 それにしても、この「星落秋風五丈原」は何度詠んでみてもいいです。もう全文を暗誦はできなくなりましたが、やはりいくつもの詩句が私の口から出てきます。
 これからもまた何度も、この詩を暗誦していくでしょう。

bdc14539.jpg

 今王子のサミットストアに行きまして帰ってくると、次女ブルータスから連絡があったことを知らされました。いよいよブルータスの結婚式ですから、こちらの親族の名前住所を聞いてきたのです。それですぐにケータイメールしました。
 そうするとまた電話があり(妻が出た)、私の兄の名前の漢字の確認です。
 それで、すぐさま私がケータイメールしました。以下の内容です。

莞爾だよ
「にっこり」笑うという意味があるんだ。我孫子じいちゃんが思いを入れて考えた名前だから、間違えるなよ。三国志に「諸葛亮孔明、莞爾として笑う」なんていうところがある。「にっこり笑う」という意味だね。2・26事件で処刑された中島莞爾(あびこじいはこの人を尊敬していた)という人から付けた名前だよ。

 思えば、私の兄の名前は「莞爾」で、私は「周二」で、弟は「正志」です。私の兄と私との間には、日本の敗戦という歴史の事実がありました。
 そういえば、「莞爾」というと、まず誰もが石原莞爾のことを言います。「彼から名前をつけたのか?」というふうに聞いてきます。何を言うのですか。そもそも私の家では、この石原莞爾のことが大嫌いでした。
 そもそも、2・26事件のときに石原莞爾はすぐさまこの決起した将校たちの処刑を主張します。私からいわせれば、とんでもない人物です。
 あるとき、ゴールデン街でこのときの石原の振舞いを私が非難していましたら、早稲田大学の活動家だった人が、「あのときには、石原莞爾は満洲にいるんではないか?」などといいますので、私はやはり石原莞爾は、あのときに東京にいて、ただただ2・26の決起将校たちの処刑ばかり主張したと繰り返しました。
 その後何ヶ月後かに、また再び同じ飲み屋で彼と再開したときに、彼は「たしかに、あのときに石原莞爾は東京にいたんだね」ということで、その彼も「今までは石原莞爾というと、すごい人物かと思い込んでいたが、あなたの言うとおり、とんでもない人物かもしれないなあ」と言ってくれたものでした。

 ああ、いわばどうでもいいのですが、そのくらいのことをここに記しておきたかったのです。

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