将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:谷崎源氏

11091509 私は中学生の頃から、韻文では、漢詩は好きだったのですが、日本の短歌や俳句については苦手意識しかありませんでした。その短歌と俳句についてどうでもいいことを少し書いてみたいと思います。
 以下で書きました相手の安保(あぼう)君なのですが、

  周の三橋美智也の歌「俺ら炭坑夫」(これもいずれまたUPします)

この問答は安保君という文学にしか興味のない学生講師をからかっただけなのです。今はもう大学の日本文学の先生になってしまったのですが、よく彼とはこうした話をしました。
 彼は大学と大学院で芭蕉と源氏をやり、そのうちに、私も彼をからかうのもしんどくなってきたものです。たとえば、芭蕉なら「奥の細道」の話で、「芭蕉は実は忍者らしいよ」とかいって、さらに「笈の小文」の話までくらいなら私もできるのですが、

 安保「先生、芭蕉にですね、『冬の日』という連歌集があるんで
      すがね、御存知ですか? …………これがですね……

なんてことになると、もう私には手がでませんでした。また源氏も、「末摘花」のところなどなら、私も面白く彼をからかえたものですが、それよりさらに詳しくなるともうお手上げでした。なんせこちらは、当時谷崎源氏しか読んでいないのですから。でも楽しい思い出です。そういえば、ちょうど16、7年前に、お茶の水の丸善で偶然彼と出会ったことがありました。彼は本を買っていたところでした。

 私「あッ!安保くんじゃないか。…………
 安保「あッ先生! ……何年ぶりでしょうか?
  ………………
 私「おい、それより何の本買ってたの?
 安保「いえ、あ、なんでもないですよ………

 彼はその本を隠したがります。無理やりとって見ると、また芭蕉でした。「え、まだこんなことやっているの?」とまたからかいました。その日ひさしぶりに彼と痛飲しました。いまは九州の大学の先生になってしまいましたから、電話くらいでしか話せませんが、また会っていろいろ話したいものです。彼に会う前の晩には、私は芭蕉と源氏をしこたま読んで理論武装していこうと思います。
 それでなんでもとにかく私は思うのですが、俳句は連歌から生まれたわけですね。その連歌というのは、なんなのでしょうか。短歌といえるのでしょうか。そうだとすると、俳句は

  短歌→連歌→俳句

というように、なってきたものなのでしょうか。でも私にはどうもそう思えないのですね。
 なにか短歌と俳句との間にはかなりな違うものを感じてしまいます。なんというか、短歌は短歌として完結してしまっているように思えるのです。俳句をやるかたはまた別の表現行為にその俳句における体験を生かせるようにおもうのですが、短歌は短歌そのもので完結し、終ってしまっているように思います。 どうもうまくいい表せないのですが、たとえば俳句はヨーロッパ語などに翻訳できるように思います。いまウェブの世界でも世界をつないでそのような試みがなされているようです。芭蕉の俳句を英語に翻訳しても、その感動は充分に伝えることができるように思います。だが、短歌とくに「古今集」や「新古今集」での、短歌を英語に翻訳しても、いったい何が伝えられるのでしょうか。
 私はそうした完結してしまった短歌とは違って、もっとお遊びとしての連歌があり、その中から、芭蕉という稀有な詩人が俳句を作っていったように思えるのです。
 私の友人には何人か、短歌をやる人がいます。時々短歌集を出しています。それを読んでも、私には、どうにも届き難いものに思えてしまいます。私には短歌は実朝で終ってしまっているのです。

  源実朝「短歌」

 もちろん私は「万葉集」よりは「古今集」のほうが好きなのですが、それにしてもどうにも近寄り難いものが短歌になってしまっているという感じですね。 芭蕉の存在は、その連歌から俳句の自立のときであり、「冬の日」は大事な位置を占めているのかもしれません。
 ただ、私ももっとここのところをもっと展開できるよう、もっと勉強すべきなのだと思っています。

11091005 何年か前に、金曜日の夜に帰宅するときに、コンビニの周りで「少年ジャンプ」の発売を待っている多くの男の子たちの姿を見たものでした。本屋だと月曜日発売のジャンプを誰よりも早く読みたいのです。そして彼らが読みたい漫画はもちろん「ドラゴンボール」でした。
 私はこの少年たちの姿を見るときに、いつも平安の時代に紫式部の出す「源氏物語」を心待ちにしているたくさんの少女たちの姿を重ね合わせて感じていました。そして、この少女たちのずっと後輩に與謝野晶子がいるのだな、と思うのです。

書名     源氏物語
訳者     與謝野晶子
発行所   角川文庫

 私が源氏物語の世界に初めて接したのが、ちょうど21歳のときでした。谷崎潤一郎「新々訳源氏物語」をいっきに読んでしまいました。当時私は学生運動のことで、府中刑務所の拘置所にいたので、ひとりで誰にも邪魔されることなく読むことができました。しかし、かなり難しいのです。ちょうど中央公論社版で毎巻に登場人物の関係図があり、それを見ながら、「あ、そうか、これはこういう関係か」なんて確認しつつ読んだものです。
 しかしそれにしても難解なことには変わりありません。源氏と各女性たちとのあいだにとりかわされる短歌なんか、いくら読んでもさらによく分かりませんでした。これだと原文の源氏って、もっとむづかしいんだろうななんて想像していました。

 ところが、吉本さんの源氏に関する文とか、小林秀雄に関する文などを読むようになってから、どうも私のこの源氏に対する感じはなにか違うのじゃないかなと思い至るようになりました。
 もっと源氏は軽く読んでいけるものなのではないか。手軽に読んでのちに、いろいろなことが見えてくるのではないのかと思い到ったのです。谷崎源氏では、あまりに律儀に律儀に忠実に原文にそっているだけで、少しも面白く読んでいけません。そうしたときに、昔中学生のころ、少し接したことのある、與謝野晶子の訳で源氏に迫ってみたいと思いました。
 そしてどうやら、吉本さんのいうことの意味が少しは判ってきたものです。

 小林、宣長の源氏理解の欠陥

  宣長の「物のあわれ」論は、「源氏物語論」としてだけでなく、文学論としても画期的なものだったが、敢えていえばもうひとつこの物語の奥行きを測るところまではゆかなかった。
 わたしたちが現在『源氏物語』をたどるとき、この作品が作者と語り手の完全な分離に耐えるものであることが、すぐに理解される。宣長の『源氏』理解と、それをいわば円環的に追認し、情念を傾ける小林秀雄の『源氏』理解の欠陥は、すぐに「宇治十帖」を論じている箇所にみることができる。
「小林秀雄について」1983.5「海」に掲載 「重層的な非決定へ」1985.9大和書房に収録 「追悼私記−小林秀雄批評という自意識」1993.3JICC出版局に収録

 つまり現在の「源氏」理解では、この物語が作者と語り手の完全な分離に耐える優れた作品であるという点まで到っているということだと思う。小林にも宣長にも、そのことの読みが欠けていたということなのだが、小林にはさらに宣長の「物のあわれ」論にも至っていなかったのではと思われるのも吉本さんの指摘である。(「吉本隆明鈔集」より)

 私はこの長大な物語のなかで、好きになれるところ、好きになれる女性といったら、空蝉と夕顔でした。だが、たとえばどうして、空蝉は源氏の思いを拒絶するのか、どうして夕顔は突然死んでしまうのかがよく判りませんでした。

  こうした空蝉とか夕顔とかいうようなはなやかでない女と源氏
  のした恋の話は、源氏自身が非常に隠していたことがあると思っ
  て、最初は書かなかったのであるが、帝王の子だからといって、
  その恋人までが皆完全に近い女性で、いいことばかりが書かれて
  いるではないかといって、仮作したもののいうように言う人があっ
  たから、これらを補って書いた。なんだか源氏にすまない気がす
  る。(「夕顔」)

 こうして「なんだか源氏にすまない気がする」といっているのは、語り手なのですが、作者は「すまない」といっているわけではなく、厳然と読者に対して向っている力強い女紫式部を感じてしまいます。ここらのことが、與謝野晶子が「源氏物語」の中に力強く自立した女を感じてこうして訳していった動機なのかなとも思います。「源氏物語」は源氏の華やかな女性遍歴の物語なのではなく、その中に力強い作者の存在をも感じられるのです。おそらくは藤原道長に口説かれたこともあったであろう作者が空蝉の姿でもあり、また夕顔を殺してしまうのは、源氏自身のなかにある、「貴種」としての、もうひとりの源氏なように思います。
 與謝野晶子には、「源氏物語」はよく読み込んできていた物語なのだと思います。だから、読んでいると、書いているのが、紫式部なのか、與謝野晶子なのが判らなくなってくるところがあります。これが谷崎源氏だと、おおいに違うのですね。正確に正確に、そして谷崎はこの物語に魅せられすぎているように思われます。それに対して、與謝野晶子には、この物語がもう自らのものとして、こなれすぎているような感じがあります。谷崎は何度も何度も源氏を訳しなおします。多分もっと生きていたら、また訳し直して完全なものを作ろうと考えたのではないでしょうか。與謝野晶子はそうではなく、こんなに面白い身近な物語を、出来るだけ大勢の女性たちに読んで貰いたいとのみ思っていたように、私には思えるのです。
  ただ私にはまだまだ源氏にはもう少し迫り足りないように思っています。また何度も、読み返していきたいなと思っているところです。(1998.11.01)

日本語のゆくえ 

 一つ前の 八重洲ブックセンターへ行きました で次のように書きました。

 だからその意味では、できるだけインターネットで本を紹介することでも、本が出版されたら、できるだけ早くすることと、その本の内容、目次をそのまま紹介すること、本のとびらや横帯に書いてあることもそのまま紹介することが大事なのでしょうね。

 だから、この本について書きます。
32ccdc1f.jpg 王子から東京駅まで行くときは、「東野圭吾『容疑者Xへの献身』」を読んでいまして、ちょうど31ページ目で俄然面白くなったのですが、あわてて電車から降りました。また帰りに読もうと思いましたが、結局この吉本(吉本隆明)さんのほうで夢中になり、また王子駅であわてて電車から降りました。

書 名 日本語のゆくえ
著 者 吉本隆明
発行所 光文社
定 価 1,500円+税
発行日 2008年1月30日初版1刷発行

 この本の「目次」「帯の文」「カバー袖の文」は以下の通りです。

目次
まえがき
第一章 芸術言語論の入口
  芸術言語論までの道のり
  表現転移論のポイント
  『源氏物語』を読む
  『言語にとって美とはなにか』のモチーフ
  場面転換と「喩」
  西欧詩との等価性について
  等価性をめざす詩人たちの苦闘
  古典につながる立原道造の詩
  立原道造と「歌枕」
  芸術の世界性
  日本人の尻尾について
  小説における「話体」と「文学体」
  芸術の価値は「自己表出」にある
  「第二芸術論」をめぐって
第二章 芸術的価値の問題
  価値論とはなにか
  芸術言語の価値について
  思想家・三浦つとむ
  マルクスの自然科学
  三浦つとむの言語論の特徴について
  言語空間の構造化
  『三四郎』を読む
  『彼岸過迄』をめぐって
  『銀河鉄道の夜』と「世界視線」
  視線の交換について
  島尾敏雄作品における体験と変容
  幻想空間の意味
  経済的価値と芸術的価値の分岐点
  茂吉短歌の到達点
第三章 共同幻想論のゆくえ
  国家とはなにか
  「人間」を捨象した「政治と文学」論
  『共同幻想論』の契機
  『共同幻想論』の骨格
  遠野の特異性
  「天つ罪」と「国つ罪」
  語り部の役割
  日本の特性
  『共同幻想論』のゆくえ
  昭和天皇の短歌をめぐって
  いざというとき何をするか
  「個」を抜いた芸術はありえない
第四章 神話と歌謡
  神話と朝廷
  天皇制はどこへゆくか
  神話時代の天皇
  天皇の起原
  神武東征はあったか
  統治の原型について
  神話と歌謡
  国学が騒ぎ立てた日本人の自意識
  天皇制と芸術性
  神話に転用された詩歌
  古典を読む二重性
  天皇制と女性の役割
  天皇陵の調査を望む
  片歌から短歌へ
  俳句における主観と客観
第五章 若い詩人たちの詩
  若手詩人の詩は「神話」に使えない
  「無」に塗りつぶされた詩
  水無田気流『音速平和』をめぐって
  渡辺玄英『火曜日になったら戦争に行く』について
  この「無」をどう読むのか
  「自然」を失った現代詩の脱出口はどこにあるのか
  なぜ詩のなかで思考しないのか
  現代のわからなさ

帯の文
 神話の時代から現代へ……、日本語表現を考える。
 いまの若い人たちの詩は、「無」だ。
 母校・東工大の集中講義「言語芸術論」を集成

カバー袖の文
 日本語における芸術的価値とは何か。
 現在著者が最も関心を集中している課題を、
 母校・東工大で「芸術言語論」講義として発表。
 神話時代の歌謡から近代の小説までを題材に論じ、
 最後に「今の若い人たちの詩」を読む。
 そこで現代に感じたものは
 “塗りつぶされたような「無」”と“わからなさ”であった。
 『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』を経て展開する、
 著者の最新文芸批評。 

 以上です。

 きょうは、電車の中で31ページまで読んだだけです。ここへ帰るといろんなことがあって、読んでいる時間を作ることができません。
 でも私の読んだところまでで、思うのですが、「『源氏物語』は退屈だ」なんていいきっちゃった人は吉本さんが始めてじゃないかな。いやもちろんそれを普通に感じた人は無数にいたでしょうが、誰も言い出すことができなかったわけです。そんなことは言い出せないよね。「自分が馬鹿だ」って言っているようなものだと思ってしまうわけでしょう。
 私の兄の詩吟の仲間が、大学の卒論が「源氏物語」だったのですが、兄がいつも、「あいつは『源氏』が専門だというのに、『谷崎源氏』ばっかり読んで原文を読んでいない」と批判していて(大学生の頃のことです)、中学生だった私も、それに納得していたものでしたが、まったくそうじゃないですね。
 もっとも谷崎の源氏も実際に読むのが大変ですが、吉本さんが「與謝野晶子のでいいんだ」というのは、実に納得できます。

 この本も読み終わりましたら、また書きます。

 周の雑読備忘録「吉本隆明『日本語のゆくえ』」の2  へ

↑このページのトップヘ