11081701   Thursday, July 08, 2004 11:46 AM
Re: またメール掲載のお願いです。

 せっかくネタがあるのに使わないのはもったいないですからね。どうぞつかってください。しかし同じ読者からがあまり続くとまずいんじゃないですか。
 私にはホームページにするようなネタがないんです。友人が沖縄旅行の写真をくれたのでいたずら書きのようなレタッチをして沖縄うそ日記というホームページを3P程つくってやったら怒られました。

 あのカエサルはやっぱりショックでしたか。私でもそうだからカエサルびいきの様な人が読んだらそうでしょうね。どのあたりでもうイヤダになったのか興味ぶかいところです。しかし読み終わってからなんか心に引っ掛かるカエサル像ですね。歴史物にこんな超近代的な心理描写をいれてほしくないけど。古代ローマでもはげはマイナスイメージだったのでしょうか。文化によって違うからそうでもないということもありえますよね。この作者のフランスの将軍の話はとてもおもしろかったんですけどね。下品な言動だけれど魅力的な人物像でした。

 ワープロもない時代に年間二百通とはやっぱりただ者ではないというところですね。封を切っていないのを発見するくだりは失礼ながら笑ってしみました。お二人の心情が両方さっせられます。こんなに長いメールをいただいてお疲れにならないかと心配するほどでしたが、年間二百通の強者にはタッチタイピングと電子メールがあれば朝飯前ですね。怒濤の様なご教示で、一年先まで宿題を出された小学生か、今週中に読まねばならない参考文献が机の上に一メートルを超えてしまった大学生の気分です。
 なにしろ並より怠惰な人間ですから。まあ大目に見て進歩が遅くても見捨てないでください。うちは回線のつごうでadslにつなごうとすると、自分でパソコンを持って一階へ降りそこでモデムの電源を入れてつなぐという世にも珍しい非常時接続です。ゆっくりネットサーフィンできるのも週一回ぐらいです。無線を取り入れれば解決できるんですけどそれもいつになることやら。MM

   Saturday, July 17, 2004 3:58 PM
遅い返事とくだらない内容ですが

あのカエサルはやっぱりショックでしたか。

 結局、あのガリア人の若い王をあれほど残虐に描くのは、実はカエサルをこそ貶していることになるのだと私は思います。いや誰もがそのように判ってほしいのだろうなと推測しました。
 カエサルの「ガリア戦記」はラテン語の教科書ともいえるほど格調の高いもののようです。その「ガリア戦記」をのものを、わざわざあのように読めるのだというのでしょうね。
 私は以下の中で

  松本健一「近代アジア精神史の試み」

 西南戦争のときの熊本城に籠城した官軍の中に、英語か仏語訳での「ガリア戦記」を読んでいる軍人がいたのではないかという推測をしています。私は谷干城自身か彼の部下の中に、この「ガリア戦記」の記述から、あの城を燃やしたのではないかと、高校2年のときの修学旅行で思っていたものでした。西欧の将軍たちが必ず読んでいる教科書のような「ガリア戦記」を、あの維新の志士たちも読んだのではないかと思っているのです。

どのあたりでもうイヤダになったのか興味ぶかいところです。

 はっきりいいまして、すべてが嫌になりますよ。だから、もう「読みたくない」と何度も本を閉じたものでした。

ワープロもない時代に年間二百通とはやっぱりただ者ではないというところですね。封を切っていないのを発見するくだりは失礼ながら笑ってしみました。

 彼女を私は大学2年の、1968年の4月に埼玉大学のキャンバスで見かけました。この大学のキャンバスには、八重桜がたくさん咲いているのです。ちょうど4月といいますと、その前月が王子野戦病院闘争があり、そして三里塚闘争がありました。
 ちょうど私は、当時バス代値上阻止闘争をやっており、同時に政治闘争もやっていました。バス闘争で長期間闘うために、観光バスをチャーターして、通学の学生を運びました。まったくの敵は、日本共産党でした。この観光バスでエンプラ闘争でも、みんなを乗せて日比谷公園に行ったものでした。仲良くなったバス会社の運転手は、バスから降りて、集会に向かい、機動隊と激突するだろう私を心配して、「気をつけてね」と声を掛けてくれたものです。
 またこの観光バスを使って、三里塚闘争にもいきました。思えば、こうして観光バスで闘争の現場に行くというのは、私たちが真っ先のことではなかったかな。
 このバス闘争をやった部隊が、埼玉大学の理工学部の自治会を日共から奪還していました。だから、王子闘争のときには、その「埼大理工学部」という大きな真っ赤な旗を私もよく持って走り回ったものでした。
 その彼女は、実家が王子にありまして、高校3年生だった彼女も、近所の人を誘って、野戦病院闘争に出かけたりしていたようです。それで彼女は、この「埼大理工学部」の旗を見て、「あの大学にこそ行きたい」と思ったようです。彼女は、横浜市立大学理学部と、早大理工学部に受かっていたのですが、この旗のために、埼大理工学部の化学科に入学してきたのです。
 彼女を初めてみたときに、私はもう恋をしました。彼女は、紺のタイトのミニスカートに水玉模様のシャツを来て、本を抱えていました。色の白い実に脚の綺麗な少女でした。 でも、この子が、私の所属する「歴史研究会」というサークルに入会してきたのです。そのときに私は彼女の名前と学部学科を知ったものでした。彼女はこのサークルの「日本史ゼミ」に属しました。私は「東洋史ゼミ」でした。私は彼女が読んでいる本を横目で見て、初めて、「大江健三郎」とか「小松左京」とかを知ったものでした。私は作家といいますと、幸田露伴とか徳富蘆花とか尾崎紅葉しか知りませんでした。
 この年は1968年で、もう激しい政治の季節でした。思えば、私が彼女と初めて二人きりになったのは、この年の10・21の防衛庁闘争のときでした。彼女も私も機動隊に捕まってリンチされたものです。彼女が頭を殴られ胸を触られ背中を殴られたのを、私は目にしています。私はそのとき大きく投げ飛ばされ、宙を飛んでいました。さらに、顔を蹴られまして、血だらけになったものでした。
 そしてそのあと、東大闘争や日大闘争への参加の中で、翌年69年1月の東大血戦で、私は安田講堂に籠もることになりました。
 1969年1月17日の夜10時半頃、安田講堂を抜けて、構内の電話ボックスに走りました。構内は日本共産党がレポ隊を徘徊させていまして、下手をすると彼らに捕まりリンチされます。東大の外は、もう機動隊の世界です。その中、なんとか必死に彼女の自宅に電話しました。
 明日機動隊が導入され、間違いなく逮捕される、そうすると最低6カ月は勾留されるから、もう当分出てこれないことをいい、そしてでも元気に闘うことをいいました。そして彼女のことが好きなことを伝えました。彼女は、声が出ませんでした。
 そして翌日からの長い闘いになりました。そして19日逮捕されて、私は東調布署に勾留されました。そしてたしか4日目に、彼女だと判る差入れをもらいました。彼女はもう一人の同じサークルの娘の名前と苗字を変えた偽名にしていましたが、その偽名と、そして年齢に(18)と書いてあったその字で、彼女とすぐ判断できたものです。彼女はあと2カ月後の19歳になる直前でした。このときの(18)の8の字が今でもありありと目の前に浮かびます。
 そして私は起訴され、移管ということで、府中刑務所に行きました。そこで3月の最初のころ、ちょうど19歳直前の彼女と面会できたものです。
 そしてそしてとにかく、勾留が続きます。そして私はここから彼女に手紙を出すことができました。3月のときからです。彼女からも返事がきました。でもとにかく私は、ひたすら手紙を書きました。1週間に3回、1回につき2通手紙が出せます。もちろん、家族他にも出しますから、6通は出せませんが、とにかく1週間に5通は彼女あてに出しました。でも便せんの枚数は3枚と制限がありました。しかもあまり小さい字で書いてはいけません。そして必ず、看守の検閲があります。ただし、私の手紙はばかばかしいから、ちゃんと検閲しなかったろうなと推測します。
 かくして、勾留が続き、かつその間に裁判もありまして、さらに私たちは出廷拒否を続け、ハンガーストライキをやったりしていましたが、その年の8月21日保釈になりました。
 私はすぐに埼玉大学のバリケードへいきましたが、埼玉県警の弾圧の中(大勢の仲間が逮捕起訴され、そして指名手配中でした)、バリケードがガランとしていました。彼女ともひさしぶりに再会しましたが、とにかくもう冬の時代でした。でも私はまた、9・5の全国全共闘の結成式等々(赤軍派が初めて登場して、ブンド関東派(の戦旗派)を散々に蹴散らしたときです。これを北方謙三がよくよく勘違いして覚えているのです)には参加していました。
 そして9月18日、私の御茶ノ水大の友人に会おうと、東京教育大学(この大学はお茶大の隣でした)の闘争に出かけましたが、会えないまま、その夜北浦和での、東大闘争の被告団会議のときに、埼大のバリケードに早稲田の山本派が襲ってきた(山本派とは革マル派のこと、でも事実は革マル派を装った中核派による襲撃事件でした)というので、革マル嫌いな私は、すぐさま駆けつけまして、そして翌朝、拉致された埼大の仲間を救いに行くと、いうことで、芝浦工大へ出かけまして、そこで起きたのが、埼大中核派の滝沢紀昭さんの、事故でした。この事件が、学生運動での初めての内ゲバによる、殺人事件ということでした。もう、埼玉県警、佐藤栄作、警視庁、そしてマスコミ、そして新左翼セクトすべてが、私たちを糾弾するキャンペーンを張り出しました。
 もう大変な事態でした。彼女にこのことを伝えたのは、王子の飛鳥山公園だったのでしたが、彼女はすぐに泣き出しました。襲ったと言われる私たちも亡くなった滝沢さんも、みな同じ埼大の活動家群だったのです。
 そしてそれから、またいくつものことがあって、私はこの事件で12月10日に逮捕されました。
 この間も私は彼女に手紙を出し続けました。もう府中刑務所のような便せん3枚なんていう制限のない娑婆の世界です。私は便せん30枚を超えたのが2通、20枚を超えたのは数知れずというくらい、手紙を出し続けました。
 こんだけだせば、それはもう全部読んでいられないよね。だって、内容も、実にどうでもいい話が延々書いてあるんです。たとえば、ある手紙では、井原西鶴「日本永代蔵」の話が延々続いています。それがまた「続き」になっているんですよ。そして、この間、私は彼女の家族とも知り合いになりました。弟さんとは真っ先に会いましたし、お母さんとも会いました。お母さんは、埼玉県警が来まして、非常に失礼な態度だったらしく(私はあとで、この埼玉県警の担当は誰だったと、県警に怒ったのですが、それを教えてくれなかった)、そういう話をしました。お祖母ちゃんは、歌舞伎が大好きで、私は高校時代河竹黙阿弥をすべて読んでいましたから、そういう話で、話が合いました。下の妹もすぐ懐いてくれた。問題はお父さんと、一番下の小学校6年の妹です。
 でもそのうち、お父さんとはインパール作戦の話ができまして、なんだか、私のことを気にしてくれます。もう下の妹は脅しました。

  もうKちゃんなんか、火炎瓶で燃しちゃうよ

 そんな流れの中で、また70年の4月に私はまた保釈で出てきまして、今度は彼女の家で、私はよく夕食を作っていました。彼女の家は古い老舗の店で、働いている人も何人もいまして、食事の用意が大変なのですが、私はよく大量の天麩羅やとんかつを揚ていました。
 そうした中でも、私はいつもどんどん手紙を書いていました。
 こんな中で、彼女一人が私を拒絶しているわけにもいかないじゃないですか。とうとう最後に彼女は、私の彼女になりました。そししてだんだん、手紙の数は減ってきました。
 でもその後、私が彼女から離れて沖縄で働いていたときなんか、また私は毎日手紙を書きました。そのときはもう彼女も毎日手紙をくれたものです。

 ごめんなさい。なんだかはしょってしまい、かつなんだかおおざっぱですが、とにかく「手紙」ということで、急いで書いてみました。

うちは回線のつごうでadsl につなごうとすると、自分でパソコンを持って一階へ降りそこでモデムの電源を入れてつなぐという世にも珍しい非常時接続です。

 早く無線LANにされるといいですね。期待していますよ。
(第207号 2004.08.02)