将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:阿仏尼

11020409 これは「いざよいにっき」と読みます。
  私がこれを読んだのは40歳を過ぎてからです。そもそもこういう古典があることすら知らなかったものでした。
 これは、鎌倉時代に藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文の日記です。彼女はこの日記をどうして書いたのかというと、そしてそれが誰にも一番関心のあることなのだと思います。
 彼女は、夫が我が子である為相に播磨国の細川荘を譲ることに遺言をしていましたが、実際に長男の為氏がこの遺言に従わず譲らないために、それを幕府に訴えるのに、住んでいた京都から鎌倉まで旅をした日記です。
 彼女はもう60歳近い歳でした。鎌倉時代の、しかもまだ江戸時代のように五街道なんていうときではありません。その時代に彼女ははるばる歩いて鎌倉まで歩くのです。この日記には、名前はありませんでしたが、この日記が10月16日から始まっていたことで、こういう名前がつけられました。

 時代は、建治3年(1277年)のことです。ちょうど蒙古襲来の時代ですね。日記は、道中の日記と鎌倉滞在記になっています。
 残念なことに、彼女は肝心の所領紛争は解決しないまま、亡くなってしまいます。思えば、その頃も母親というのは強かったのですね。
 でもさらに私が関心を引くのは、彼女はこの旅の経費を一体どうしたのかということです。いっぱいの黄金でも背中にしょって歩いていたのでしょうか。それじゃ、もう当時の盗賊に狙われて怖いばかりです。あの時代に60歳近くというと、今では80歳を超えている年代だといえるかと思います。
 彼女は、ある商人に京都で為替を発行してもらい、それを鎌倉で現金化するのです。もうそんな時代だったのですね。ただし、こんなことはこの日記をあちこちで読んでもよく判りません(私が探しきれないのかもしれません)。
 でもそんなことが可能だから、彼女は息子への愛情とこうしたシステムのおかげで、この日記を書いてくれていて、今も私たちが読むことができるのです。(2009.12.07)

10121909 これは「いざよいにっき」と読みます。私がこれを読んだのは40歳を過ぎてからです。そもそもこういう古典があることすら知らなかったものでした。
 これは、鎌倉時代に藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文の日記です。彼女はこの日記をどうして書いたのかというと、そしてそれが誰もが一番関心のあることなのですが、彼女は、夫が我が子である為相に播磨国の細川荘を譲ることに遺言をしていましたが、実際に長男の為氏がこの遺言に従わず譲らないために、それを幕府に訴えるのに、住んでいた京都から鎌倉まで旅をした日記です。
 彼女はもう60歳近い歳でした。鎌倉時代の、しかもまだ江戸時代のように五街道なんていうときではありません。その時代に彼女ははるばる歩いて鎌倉まで歩くのです。この日記には、名前はありませんでしたが、この日記が10月16日から始まっていたことで、こういう名前がつけられました。
 時代は、建治3年(1277年)のことです。ちょうど蒙古襲来の時代ですね。日記は、道中の日記と鎌倉滞在記になっています。
 残念なことに、彼女は肝心の所領紛争は解決しないまま、亡くなってしまいます。思えば、その頃も母親というのは強かったのですね。
 でもさらに私が関心を引くのは、彼女はこの旅の経費をどうしたのかということです。いっぱいの黄金でも背中にしょって歩いていたのでしょうか。それじゃ、もう当時の盗賊に狙われて怖いばかりです。あの時代に60歳近くというと、今では80歳を超えている年代だといえるかと思います。
 彼女は、商人に京都で為替を発行してもらい、それを鎌倉で現金化するのです。もうそんな時代だったのですね。ただし、こんなことはこの日記をあちこちで読んでもよく判りません(私が探しきれないのかもしれません)。
 でもそんなことが可能だから、彼女は息子への愛情とそうしたシステムのおかげで、この日記を書いて、今も私たちが読むことができるのです。(2009.12.07)

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 私がちょうど1月31日より、私的な手紙に関しまして和紙で手紙を書くようになりまして、昨日夜で136通目の手紙をポストに入れました。もちろん、ビジネス上では文書は印字していくつも送っていますが、これは私的な文書をその相手本人に送っているものです。
 一番多くの手紙を書いているのは、私の娘二人あてです。娘二人には各14通の手紙を書いています。すべて違う和紙で書いています。ただし、ほぼ手紙の数はA41枚ですね。他の方には、数枚書いている方も多いです。多い方は5、6枚書いています。思えば、私も一体何を書いているんでしょうね。思えば、自分がパソコンで書いているわけですから、読み直してみれば、何を書いているのか判るわけなんですが。
 でも思うのですが、私は女性に手紙を書くほうがいいのですね。もちろん、男性の友人にも手紙を書いていますが、男性のほうが少し緊張してしまうのです。女性のほうがかなり楽な気持で書いていけます。
 私の姪や、姪の子どもたちにも書いています。姪のみーねえの息子たちは、今中1と小4です。すぐにケータイメールの返事をくれました。とっても嬉しかったです。
 私の孫のポコ汰も早く字が読めるようにならないかなあ。
 そうですね、きのうある方に書いた手紙に私は次のようなことを書きました。

 でもね、この和紙を使って出した手紙を、「こんなに高い(値段のこと)用紙でもったいない」なんていう人がいました。もう私は信じられないのですね。はっきりいえば、それこそ安価な用紙でも手紙は出さないし、無料に限りなく近いメールもケータイメールも出さない人なのですから。
 こんな今よりも、もっと紙を使うこと、手紙を出すことが高価だった時代にも、アベラールとエロイーズは手紙をやりとりしたし、阿仏尼は「十六夜日記」を書いたのです。それを今になって私たちが、どんなに男女の手紙のやりとりが大事なものか、年老いた阿仏尼が街道を旅しながら、文書を書いていくことの大切さを知ることができるのです。

 私の姪のみーねえの二人の息子たちも、私がこうして手紙を書いてくることを、「パソコンをよく使えるおじさんだからこそ、こうして頼りをくれる」と思っていてくれることでしょう。それは本当にその通りなのです。そしていつも二人のことを私が思い出していてくれる、その私の娘、おはぎとブルータスのことも(この二人の子たちは、二人のおねえさんと思っているのです)、そしておはぎの子どものポコ汰のことも、いつも思い出してくれているでしょう。それがとっても嬉しいのです。
 私はこの二人にケータイメールも出します。私の娘たちもケータイメールで交換しているようです。やがては、私のポコ汰もそれに加わります。
 思えば、早くポコ汰にも手紙を書いたり、ケータイメールを出したりできるときになってほしいものです。

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 青砥左衛門藤綱のことで を書いて、「このことも少し書いておこう」と思ったことがあります。

「十六夜日記」は鎌倉時代に60歳近くの女性が土地の訴訟で、播磨から鎌倉までの旅行記だが、これがなぜいいのか。

と書いています内容です。このときに私が話したのは、「鎌倉時代に60歳近くの女性が土地の訴訟で、播磨から鎌倉までの旅行記」が今も残っているのはいいことだが、それは60歳近い女性がちゃんと文章を書いておいたからだ。だから、今はもっと楽にパソコンで記録を残せるのだから、ちゃんと(べつにいい加減にでもいいですよ。でもパソコンを開くことを嫌がらずやることが大切)やるべきなんだというようなことを、飲んで話したものでした。
 でもこの十六夜日記(いざよい日記)の、この女性の訴訟がどうなったかは、言いませんでした。
 この『十六夜日記』については、インターネット上で次のような解説を見つけました。

  http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/np/izayoi.html  『十六夜日記』

『十六夜日記』は、弘安2(1279)〜3(1280)年、阿仏によって書かれた日記です。
 阿仏は、藤原為家の妻でした。建治元年(1275)、為家が没すると、その遺産である播磨国細川庄の土地所有権をめぐって、為家と阿仏との間に生まれた為相と、為家の長男の為氏(為相とは異母兄弟)との間に争いが起こります。生前、為家は、当初為氏に譲るつもりでいましたが、のちにそれを撤回し、為相の方に譲るという譲り状を出していました。しかし、為家の没後、為氏は自分の領有権を主張し、細川庄を為相には渡しませんでした。そこで、為相の母である阿仏が、この件を幕府に訴え審理してもらうために、鎌倉へ向かいます。
 本作は、その道中の日記と、鎌倉滞在中の日記との二部から成っています。阿仏が旅立ったのが、弘安2年10月”16日”のことだったので、『十六夜日記』という名前がつけられました。単なる記録だけではなく、歌人でもあった阿仏らしく、道中の名所を詠んだ歌や鎌倉滞在中に贈答した歌など、和歌が多く記されています。

 実は、この事件は、所領紛争の解決を見ることなく阿仏尼は亡くなり、日記も終わってしまっています。このことはやはり私には悲しいことなので、口に出すことができませんでした。
 それともう一つ私がいったことがあります。

 阿仏尼は、もう60歳近い女性です。当時の人たちは、今でいえば85歳くらいの女性だという感覚だったかと思います。この女性が播磨から京都を経て鎌倉へ旅するわけです。当時は江戸時代のように街道は整備されていません。大変なご苦労があったと想像できます。
 それで私が高校時代からこの十六夜日記に注目していたのは、阿仏尼が、現金を肌身離さずもっていたことでしょうが、すべての費用になる銭をすべてもって歩いていたわけではないのです。そんなことをしたら、街道でどんな目に逢うか判りません。
 思えば、街道には盗賊どころか妖怪もいただろうと考えられていた時代です。彼女はこの危険な道中を歩くのに、播磨で為替を発行してもらいます。いわば、その手形をもって旅行して、鎌倉で、それを銭に変えて、日々の費用をまかないます。この為替を盗賊が奪ったとしても、現金化することはできません。
 そんな形が、あの鎌倉時代にはできあがっていたのです。だから、この女性が旅できたし、この十六夜日記も書かれたのです。

 もう鎌倉時代は、そんな時代になっていたのです。

 また鎌倉を歩いて、この阿仏尼のことも想いたいです。

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