将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:隆慶一郎

12030309 2012年3月3日のポメラの2への目森一喜さんからのコメントに次のように書いたことで、

 後水尾上皇の活躍が、でもでも分かりにくくさせたように思いますね。昔修学院離宮を歩いたときにも、絶えずこの天皇上皇のことが思い出されていたものでした。

 この天皇上皇は、私にはどうしても苦手な人ですね。あの広大な修学院離宮もどうしても好きになれません。
 そもそも私は、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)というふうに、読みを入れないと、まともに読めないのですね。いや私はこの読みを入れたいがために、この文を書いたように思えます。
 隆慶一郎『花と火の帝』の作品も読みましたが、どうしても理解しにくいのです。この作品は隆慶一郎が亡くなったことにより未完ですが、あのまま書いていくのも大変だったでしょうね。隆慶一郎は小林秀雄を尊敬し、彼が生きている間は、作品を決して書かなかったのですが、なんとなくもっと書いてほしかった思いがします。
 私は彼の作品は、ほとんど読みましたが、もし、もっと早くから書いていたら、あれだけでは終わらなかったろうと悔やまれてならないのです。
 もう終わってしまったことです。仕方がないのですね。

11093001 隆慶一郎の小説をけっこう読み続けてきました。だがいくら何でも、「もういいかげんにしてもらえないかな」と感じてしまうことがあります。
 私は隆慶一郎の作品はすべて読んでみようという思いがあります。だから、「一夢庵風流記」「見知らぬ海へ」「駆込寺蔭始末」と読んできました。しかし、いつも感じるのは、彼の数多くの作品にいつも柳生暗殺者集団が敵として出てくることなのです。「吉原御免状」「かくれさと苦界行」「影武者徳川家康」「死ぬことと見つけたり」「柳生非情剣」「捨子童士松平忠輝」と読んできた作品には、主役たちを常につけねらい非情な手段で襲いかかる柳生暗殺者集団が登場します。もう、「またかよ」「また柳生かよ」「どうしてまた柳生なんだ」という思いに駆られます。
 私には、これはどうしても「やりすぎだよ」としか思えないのです。ここまで柳生というのは非情な殺人者たちだったのでしょうか。そして、どうしてもその柳生暗殺者集団は作品の中の主役たちに勝てません。勝てなくても勝てなくても、主役たちを殺せなくても、柳生は主役たちに襲いかかります。もう、私はいいかげんに嫌になってきます。たしかに歴史上では柳生は分からないところがあります。だが、本当に武芸というよりは、江戸幕府とくに二代将軍秀忠の調査隠密集団だったのが事実としても、どうして、これほどまでに、隆慶一郎の作品の主役たちに、殺されても殺されても、絶対にひるまず襲いかかるのでしょうか。
 そこで、私は気がついたわけです。友人と電話で話したときに分かりました。彼が教えてくれたのです。
 柳生というのは、これは小林秀雄なのです。隆慶一郎は小林秀雄の弟子でした。小林の存命中は決して文章を書きませんでした。小林秀雄を圧倒的に尊敬していたものと思われます。隆慶一郎にとって、小林秀雄は否定したくても否定したくても大きな存在だったのです。もう小林秀雄から離れたくても離れたくても、いつも大きく立ちはだかってくるのが小林秀雄だったのでしょう。
 だから、柳生をいくら破っても殺しても、さらに柳生は襲いかかってくるのです。そして結局は、柳生を使った江戸幕府が形を作っていきます。2代将軍秀忠がいかにひどい非情な政治家であっても、豊臣家は滅び、後水尾天皇(註1)は敗れていきます。隆慶一郎はどうにも勝てないのです。
 うーん、と私は考え込んでしまいます。ちょうど、ソクラテスをいつも作品の中に描いて、自らの哲学を展開していたプラトンが、最終的には、そのソクラテスの影響から逃れることが出来なかったように、隆慶一郎は小林秀雄の手の中から逃れられなかったように思います。

 (註1)第108代の天皇で、修学院離宮を造営された方です。
  歴史の上ではあまり露わにされていませんが、この天皇は実に
  豪気であり、徳川幕府と徹底して闘われた方でした。そのこと
  は、隆慶一郎「花と火の帝」に描かれています。思えば秀忠と
  いうのは、父親の家康よりも息子の家光よりも、陰湿かつ陰険
  な策謀家でしたね。彼のときに、「禁中並公家諸法度」が制定
  されています。

 ソクラテスという哲人は、一つの著作も残していません。プラトンの作品群の中で登場するだけなのです。弟子であるプラトンは、このソクラテスを尊敬していました。プラトンの作品群を読んでいくと、偉大なる師が、どこでも自らの思想を語ります。プラトンはそれを描いているだけなのです。だが、その作品を年代順に読んでいくと、だんだんとその作品の中で、次第にソクラテスの存在が小さくなっていきます。そして少しづつプラトンその人の思想が表れくるです。だがだが、哀しいことに、プラトンは最後はまたソクラテスに戻っていってしまうのです。ソクラテスが回帰してくるのです。これは寂しいことです。
 もう一つ例を出します。マーク・トゥインといえば、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」で知られたアメリカの作家です。もちろん、もっとたくさんの作品があるのですが(註2)、この二人の少年の物語を読んでいくと、これまたマーク・トゥインの悲劇とでも言っていいかなということが見えてきます。「トム・ソーヤの冒険」ではハックルベリー・フィンはわき役です。そして、もはや「親父なんか死んでしまえばいいのに」なんて言ってしまうくらいの不良というか自然児です。このハックこそが、自然児としての自分を発揮しに「ハックルベリー・フィンの冒険」が始まります。おそらくマーク・トゥインはこのハックこそが大好きだったのでしょう。彼の描くハックは生き生きとして元気に動き回ります。そして、この冒険の話のほうがトム・ソーヤの冒険物語よりも、ずっと長いのです。

 (註2)例えば以下があります。
     マーク・トウェイン「不思議な少年」

 ところが、話がだんだんと長くなってきて、しかもマーク・トゥインが当時の黒人差別を指摘されるあたりから、ハックの動きが止ってしまいます。もうどうしたらいいのかマーク・トゥインは悩んでしまったのでしょう。そこでこの「ハックルベリー・フィンの冒険」の最後になると、突如トム・ソーヤが現れるのです。あれだけ元気だったハックも、トム・ソーヤの前では、弟分のようになります。そしてトム・ソーヤは元気で、ハックより悪賢くて、とうとう物語を解決終了してしまいます。読んでいて、「なんで、ここでトム・ソーヤが出てくるんだよ」と誰しも声をあげるところでしょう。
 でも仕方ないのです。そのときのマーク・トゥインを救えるのは、大昔のヒーローであるトム・ソーヤなのです。本来なら、ハックルベリー・フィンが自力で解決すべきなのに、そうできないわけなのですね。

 隆慶一郎は、なんとしても小林秀雄の魔力から逃れたかったのでしょうが、結局は最後まで、その手から脱出することはできませんでした。「花と火の帝」と「死ぬことと見つけたり」が未完で終わってしまったことがそれを象徴しているように思います。

 だが、私も決意しました。私が替わって小林秀雄と格闘していきます。絶対に負けてはならない戦いのような気がしています。その内容とは何なのか。それが中世における網野善彦のいう「異形者集団」の考察から、柳田国男の「山人」、折口信夫のいう日本古代の把握等々を通じて、さらには吉本さんの南島論等々の論考から、必ずできるように思っています。
 そう思うときに、まだまだ隆慶一郎は読み続けていきます。(2002.02.04)

11060914 この上皇の読みは、「ごみずのおじょうこう」と読みます。天皇に在位していたのは、慶長16年3月27日(1611年)から寛永6年11月8日(1629年)です。第108代の天皇で、1596年6月29日から1680年9月11日まで生きられた、当時としては長命な方です。
 ちょうど時代は安土桃山時代から、徳川時代の5代将軍綱吉の時代まで生きていられた方です。隆慶一郎が『花と火の帝』を日経新聞に連載されていて、最後まで書き終えることなく終わりました(ちょうど、『死ぬことと見つけたり』も未完に終わりました。これも残念です)。
 徳川幕府は、豊臣政権から権力を奪い取り、そして最後には、大坂の陣で豊臣家を打ち滅ぼしました。大坂夏の陣が終わりましたのは、1615年5月8日の暑い盛りでした(当時は旧暦)。だが、そのあとには、徳川政権の最大の敵として立ちはだかりましたのが、実にこの後水尾上皇でした。
 この上皇は明確に武士によって奪われた政権を天皇に戻したいという意思で行動されました。ただ、秀忠・家光の武家政権は強力でした。結局は、後水尾上皇は自分の思いをかなわせることはできませんでした。
 だが、後水尾上皇は、自分が天皇だったあとの109代の天皇を明正天皇という女帝を立てることで、幕府には抗議したと私は思います。いつでも自分が復活してもいいということだったのでしょう。
 この日本には全部で8人10代のの女帝(女性の天皇)がいます(8人の天皇で、2人が2度重祚(ちょうそ)しています)が、この明正天皇は実に859年ぶりの女帝でした。
 もう一つこの後水尾上皇がやられたことが修学院離宮の造営でした。実に54万平方メートルの面積をもつ大きな庭園です。
 私は27歳の7月に、この庭園を訪れました(普通では拝観できません)。ちょうど祇園祭りのときでしたね。庭園を歩くときの離宮の係員の方の説明の声をよく覚えています。
 いや、私の歩むのが遅くて、一人の係りの方はいらいらしていたのでしょう。ごめんなさいね。私もいくつものことを抱えていたのです。(2011.06.10)

11040405 私が隆慶一郎の作品で最初に読んだのは、『吉原御免状』でした。そしてそのあとは『かくれさと苦界行』を読んでいきました。ただどうしてもこの作家の作品には馴染める思いにはなりませんでした。
 思えば、どうしても私は小林秀雄を好きなことは間違いないことだったのです。やはりどうしてもアルチュール・ランボー『地獄の季節』(岩波文庫)の訳者の小林秀雄は忘れることができません。
 でもそんな小林秀雄に囚われているとしか思えない著者の作品には嫌になったものでした。この二つの作品で、主人公松永誠一郎に執拗に襲いかかるのは闇の柳生軍団ですが、これこそが小林秀雄なのです。だが、小林秀雄は実際にはそれほどの人物ではなかったように、その柳生のあとと言っていいだろうときに書いたのが、この作品なのです。
 その最初の二つの作品の主役の松永誠一郎とされたのは、実は誠一郎は後水尾(ごみずのお)天皇の落胤と言われているのです。
 この天皇は、大坂夏の陣が終わったあと、徳川幕府の最大の敵になりました。この帝のことを書いたのがこの作品です。ただし、この作品も作者の死で未完で終わりました。

 私が27歳のときに、京都の修学院離宮へ行きました。この後水尾上皇が作られた大きな庭園です。私はいつもこの離宮の中を後から、「もっと早く歩くように」と園の係に執拗に言われ続けました。その係の方の声とこの作品をいつも思い出しています。
 思えば、この天皇に関しても、少し書いていこうかなあ。

11020612 隆慶一郎の小説をけっこう読み続けてきました。だがいくら何でも、「もういいかげんにしてもらえないかな」と感じてしまうことがあります。
 私は隆慶一郎の作品はすべて読んでみようという思いがあります。だから、このごろも「一夢庵風流記」「見知らぬ海へ」「駆込寺蔭始末」と読んできました。しかし、いつも感じるのは、彼の数多くの作品にいつも柳生暗殺者集団が敵として出てくることなのです。
「吉原御免状」「かくれさと苦界行」「影武者徳川家康」「死ぬことと見つけたり」「柳生非情剣」「捨子童士松平忠輝」と読んできた作品には、主役たちを常につけねらい非情な手段で襲いかかる柳生暗殺者集団が登場します。もう、「またかよ」「また柳生かよ」「どうしてまた柳生なんだ」という思いに駆られます。
 私には、これはどうしても「やりすぎだよ」としか思えないのです。ここまで柳生というのは非情な殺人者たちだったのでしょうか。そして、どうしてもその柳生暗殺者集団は作品の中の主役たちに勝てません。勝てなくても勝てなくても、主役たちを殺せなくても、柳生は主役たちに襲いかかります。もう、私はいいかげんに嫌になってきます。たしかに歴史上では柳生は分からないところがあります。だが、本当に武芸というよりは、江戸幕府とくに二代将軍秀忠の調査隠密集団だったのが事実としても、どうして、これほどまでに、隆慶一郎の作品の主役たちに、殺されても殺されても、絶対にひるまず襲いかかるのでしょうか。
 そこで、私は気がついたわけです。友人と電話で話したときに分かりました。彼が教えてくれたのです。
 柳生というのは、これは小林秀雄なのです。隆慶一郎は小林秀雄の弟子でした。小林の存命中は決して文章を書きませんでした。小林秀雄を圧倒的に尊敬していたものと思われます。隆慶一郎にとって、小林秀雄は否定したくても否定したくても大きな存在だったのです。もう小林秀雄から離れたくても離れたくても、いつも大きく立ちはだかってくるのが小林秀雄だったのでしょう。
 だから、柳生をいくら破っても殺しても、さらに柳生は襲いかかってくるのです。そして結局は、柳生を使った江戸幕府が形を作っていきます。2代将軍秀忠がいかにひどい非情な政治家であっても、豊臣家は滅び、後水尾天皇(註)は敗れていきます。隆慶一郎はどうにも勝てないのです。
 うーん、と私は考え込んでしまいます。ちょうど、ソクラテスをいつも作品の中に描いて、自らの哲学を展開していたプラトンが、最終的には、そのソクラテスの影響から逃れることが出来なかったように、隆慶一郎は小林秀雄の手の中から逃れられなかったように思います。

(註)第108代の天皇で、修学院離宮を造営された方です。歴史
  の上ではあまり露わにされていませんが、この天皇は実に豪気
  であり、徳川幕府と徹底して闘われた方でした。そのことは、
  隆慶一郎「花と火の帝」に描かれています。思えば秀忠という
  のは、父親の家康よりも息子の家光よりも、陰湿かつ陰険な策
  謀家でしたね。彼のときに、「禁中並公家諸法度」が制定され
  ています。

 ソクラテスという哲人は、一つの著作も残していません。プラトンの作品群の中で登場するだけなのです。弟子であるプラトンは、このソクラテスを尊敬していました。プラトンの作品群を読んでいくと、偉大なる師が、どこでも自らの思想を語ります。プラトンはそれを描いているだけなのです。だが、その作品を年代順に読んでいくと、だんだんとその作品の中で、次第にソクラテスの存在が小さくなっていきます。そして少しづつプラトンその人の思想が表れくるです。だがだが、哀しいことに、プラトンは最後はまたソクラテスに戻っていってしまうのです。ソクラテスが回帰してくるのです。これは寂しいことです。
 もう一つ例を出します。マーク・トゥインといえば、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」で知られたアメリカの作家です。もちろん、もっとたくさんの作品があるのですが(註)、この二人の少年の物語を読んでいくと、これまたマーク・トゥインの悲劇とでも言っていいかなということが見えてきます。「トム・ソーヤの冒険」ではハックルベリー・フィンはわき役です。そして、もはや「親父なんか死んでしまえばいいのに」なんて言ってしまうくらいの不良というか自然児です。このハックこそが、自然児としての自分を発揮しに「ハックルベリー・フィンの冒険」が始まります。おそらくマーク・トゥインはこのハックこそが大好きだったのでしょう。彼の描くハックは生き生きとして元気に動き回ります。そして、この冒険の話のほうがトム・ソーヤの冒険物語よりも、ずっと長いのです。

 (註)例えば以下があります。
   マーク・トウェイン「不思議な少年」

 ところが、話がだんだんと長くなってきて、しかもマーク・トゥインが当時の黒人差別を指摘されるあたりから、ハックの動きが止ってしまいます。もうどうしたらいいのかマーク・トゥインは悩んでしまったのでしょう。そこでこの「ハックルベリー・フィンの冒険」の最後になると、突如トム・ソーヤが現れるのです。あれだけ元気だったハックも、トム・ソーヤの前では、弟分のようになります。そしてトム・ソーヤは元気で、ハックより悪賢くて、とうとう物語を解決終了してしまいます。読んでいて、「なんで、ここでトム・ソーヤが出てくるんだよ」と誰しも声をあげるところでしょう。
 でも仕方ないのです。そのときのマーク・トゥインを救えるのは、大昔のヒーローであるトム・ソーヤなのです。本来なら、ハックルベリー・フィンが自力で解決すべきなのに、そうできないわけなのですね。

 隆慶一郎は、なんとしても小林秀雄の魔力から逃れたかったのでしょうが、結局は最後まで、その手から脱出することはできませんでした。「花と火の帝」と「死ぬことと見つけたり」が未完で終わってしまったことがそれを象徴しているように思います。

 だが、私も決意しました。私が替わって小林秀雄と格闘していきます。絶対に負けてはならない戦いのような気がしています。その内容とは何なのか。それが中世における網野善彦のいう「異形者集団」の考察から、柳田国男の「山人」、折口信夫のいう日本古代の把握等々を通じて、さらには吉本(吉本隆明)さんの南島論等々の論考から、必ずできるように思っています。
 そう思うときに、まだまだ隆慶一郎は読み続けていきます。(2002.02.04)

11020202 私は「葉隠」というと、「愛読書だよ」といってもいいくらい好きな書物です。そしてけっこういろいろなところで話す機会の多い本です。
 私たちは若いときに学生運動で、拘置所に居る期間があったものでした。いろいろな刑務所内の拘置所で、所内の「官本」といわれる本の中には、宗教関係の本と並んでこの「葉隠」があるものですから、必ず読んでいる人が多かったものでした。学生活動家に限らず、やくざ組織の人たちも、けっこうこの本を読んでいる人がいるものでした。私は「葉隠」の研究家かと言えるほど詳しいやくざの方2人にお会いしたことがあります。みんな官本の岩波文庫で読んでいました。元禄時代の本ですが、けっこう読みやすいのですね。
 ところで、その私などがけっこう親しんできた「葉隠」のイメージとはかなり違うなという「葉隠」に関する小説があります。

書 名 死ぬこととみつけたり
著 者 隆慶一郎
発行所 新潮文庫
発行年月日 1994年9月1日発行(90年2月新潮社より出版)

 この小説を読んでいくなかで、私のもつ違和感とは、これは隆慶一郎が「葉隠」の世界を描いたのではなく、書き替えたものなのだなと思い当たったことで理解できました。ただ、作者の死によって、この小説が未完で終わってしまったのは大変に残念です。それにより、主役三人が「武士道は死ぬこととみつけたり」ということで、腹を切って死ぬ様が描かれないままになってしまいました。三人が死ぬのは何ごとかを成し遂げた(鍋島藩を守りきったからというようなこと)からではなく、もともとみな死人(しびと)なのだというところにあるようです。
 たがそれにしても、やはり私には、この著者の描く葉隠の世界には「違うんじゃないかな」という思いが大きくなってきてしまいます。隆慶一郎の描く小説は、みな主役たちが、とてつもなく強いいわばスーパーマンです。必ず圧倒的な強さで、敵を倒し殺してしまいます。でも私の知る「葉隠」の世界とは、鍋島藩の普通の武士たちに、「武士」としての生き方を示した指南書という気がしています。けっして、強烈に強い武芸を持っているものにではなく、むしろどこにでもいるサラリーマンとしての、武士たちに、「このように振舞え」と言っているのが「葉隠」だと思うのです。ですから、けっして楽しい書物ではありません。だから、江戸時代を通じても鍋島藩の武士たちにもほとんど読まれなかった書物であるわけです。誰にとっても、何だか武士としてけっこう面倒な生き方を勧めている書物のようだという印象だったのではないでしょうか。
 例えば、主君が何といおうと、主君のため、藩の為に、諌言を言い続けるべきだというような主張があります。そのために、主君から疎んじられても仕方ないのです。そして言い続けて、言い続けて、最後は「死ぬべき」なのです。これは江戸時代を通じて、ほとんどの武士がやらなかった、できなかったことでしょう。「葉隠」を読んでいると、「随分厳しいな、多くの武士たちには嫌な生き方を勧める本だったのだろうな」と感じてしまいます。かなりな、迫力をもった存在として、主君にも誰にも、嫌われようとなんだろうと、主張すべきことは主張していくべきであり、ことによっては、主君に平気で嘘をつくことも必要なのが、武士であるべきだという主張を、私は見ています。ただその前提には、「いつでも死ぬ」ことがあるのです。まさしく「武士道は死ぬこととみつけたり」なのです。
 私はサラリーマンのときに、この「葉隠」の主張をかなり参考にしてやりきろうとしてきました。普段はおとなしく淡々と仕事をしているが、これは言い張らないと会社の為にはならないのだと判断した場合には、相手が社長であろうが、断乎私の思うところを主張しつづけました。その結果、どうみても経営陣に嫌われたとしてもいいのだ、と思うところがありました。だが「葉隠」が江戸時代を通じて、鍋島藩の武士たちから、少しも受け入れられなかったように、私のやり方が誰にも理解されなかったことばかりだったと思います。もちろん私には、死というものを前提にしていたわけではありません。ただ、これこそが俺の生きざまなのだという思いがありました。

 そのように、「葉隠」をサラリーマン生活での生き方として、参考にしてきた私にとって、この隆慶一郎の描く、とんでもなく強いスーパーマンの活躍には、やっぱり納得できないのです。なんだか、遠い世界のお話のようで、私にとって、身近な「葉隠」の世界ではないのです。隆慶一郎は、こうして「葉隠」を書き替えてしまったわけですが、どうしてこうしてしまったのかなと思いが残ります。
 小説の中で、主役たちと、江戸の「吉原」が密接な関係を持つわけですが、これはもう、隆慶一郎の世界であり、彼のロマンなのだなと思います。隆慶一郎にとって、「吉原」とは、遊女たちの苦界の場ではなく、実はいわば「自由」を象徴する場であったという訳なのですが(「吉原御免状」「かくれさと苦界行」等で描かれている)、それが「葉隠」の世界までも仲間にしてしまったのかというのが、私の違和感を持ちながらも、少しは納得感動してしまう感想であるわけです。
 小説の最後のあたりで、江戸の大火(この火事はこの小説の敵役である老中松平信綱がやったことになっている)で、燃え上がる吉原の中で主役たちが、遊女たちを必死に救おうとする様が書かれています。遊女たちを助けようと、遊女たちに綱をつけて河の中まで引っ張るシーンがあるのですが、これこそが関東大震災のときに、吉原の遊女たちが不忍の池で死んだときに、それらの遊女たちには吉原の男たちが、逃げないように綱をつけていたという従来の説に対して、隆慶一郎が、そうではなく、本当に彼女たちを助けようとしていたのだという主張があるのですが(このことに気がついたときから、彼のいくつもの世界が開けていくのです)、そのことを書いているのだなと確信しました。

 うーん、隆慶一郎の夢の世界、ロマンの世界の中では、「葉隠」も「吉原」も、徳川家康も、「道々の輩」も、みな手をつないでいるのだなと納得してしまいました。
 ただ、私はまた「葉隠」を読み込んでいきたいなと強烈に思っています。(1995.11.01

10122419 私はどうにも徳川家康という人物が好きにはなれないものです。桑田忠親という私の好きな歴史家(この先生の本もそのうち、とりあげたいな。好きな先生ではあるのですが、そばへいくとなんとなく気むずかしそうという感じもしますが)が、家康の言う「忍耐の忍はまた残忍の忍でもある」といっているのですが、それがまったくそのとおりだと思うからです。もちろん信長だって秀吉だって残忍な面を持っているわけですが、家康の場合はそれがもうまず最初に感じられてしまうのです。
 そんな私の家康像をまったく違う面から切り開いてくれた小説があります。

書名  影武者徳川家康
著者  隆慶一郎
発行所 新潮文庫

 平将門に7人の影武者がいたといわれるように、戦国の時代に限らず、こうした武将には影武者という存在がいたのだと思います。とくに家康にはなにしろ、桶狭間の戦いにおける今川義元の死による大軍のあっけない敗北や、武田信玄の死による無敵武田軍団の壊滅もよく見ていたと思いますから、とくに自らの身辺には気を配っていたことでしょう。その家康の影武者である世良田二郎三郎の物語がこの作品です。

 関ヶ原の戦いの時に、石田三成の将島左近の命で武田の忍びである、甲斐の六郎が家康暗殺に成功します。これで西軍が勝つはずでした。しかし歴史のとおり、東軍が勝利します。それは家康のすぐそばにいた二郎三郎という影武者がすぐさま家康になりかわって指揮をとりはじめたからです。長い間(といっても10年間なのですが)の影武者生活で家康の兵法や思考法まで身に着けていたのです。家康がいないのでは、徳川家による天下掌握もありません。しかも後の2代将軍秀忠はこの合戦の現場には間に合いませんでした。家康の存在のみが大切なのです。
 この事実を知っているのは、本多平八郎忠勝と秀忠、そして二郎三郎の親友である本多正信だけです。なんとしても大坂の豊臣家を滅ぼすまではこの影武者による徳川家康でいこうということになります。そしてこの事実を当然殺した側の甲斐の六郎と島左近もこの事実を知っています。
 これから秀忠と影武者徳川家康の戦いが開始されます。秀忠ははやく影武者に征夷大将軍になってもらい、自分に将軍職を譲り、豊臣家を滅ぼして、この目障りな影武者を殺したくてうずうずしています。二郎三郎はそれを遅らせなければなりません。そのために影武者徳川家康は豊臣家の存続をも考えていきます。このために、歴史上では関ヶ原で亡くなったはずの島左近もこの影武者に協力していきます。
 そしてなんとこの影武者は庶民の為の戦のない自由な国を打ちたてようとしていきます。これは彼はもともと自由を愛する「道々の輩(とみがら)」「公界の者」の出身であり、日本中をさすらう漂泊の自由人だからなのです。たぶん戦前までの日本では、日本中を歩き回っていた「サンカ」とかマタギとか、柳田国男のいう「山人」の系譜の人といえるのでしょうか。

 この話は、歴史の上では、実在の家康が関ヶ原の戦いを境として何故かかなり性格が変わっているように見受けられる事実からきているようです。また秀忠がが親孝行な息子というよりも本質はかなり陰惨で残忍な性格だったということからも考えられているようです。「禁中並びに公家諸法度」が秀忠から出されているのもなるほどとうなずいてしまいます。秀忠は天皇家に対してもかなりな脅迫をしていきます。影武者家康は、それと正反対のところにいます。これはたとえば「サンカ」の人々が天皇家は自分たちと同じ一族であると考えていたことにあたるといえるのでしょうか。家康の身代りになってから生まれた子どもたちのために、水戸家と尾張家を作らせますが、それは外様大名や天皇家を見張るためというよりも、江戸をこそ見張るためなのだというのにはうなずいてしまいます。思えば、明治維新のときに尾張藩は官軍になっていますし、水戸藩が徳川と天皇のあいだでいざとなったときには天皇家の側につくように考えられていたという説などを思い出してしまいます。15代将軍慶喜の最終的な態度などはそれの証拠になるのでしょうか。また、水戸黄門が編集した「大日本史」で、足利尊氏を悪人としているのは、あの尊氏こそ、実は徳川家のこととして書いていたのかもしれないなとまで考えてしまいました。
 この作者隆慶一郎はもう2年前に亡くなってしまいました。かなり著作時期の短い方であり、作品も寡作です。なんと小林秀雄の弟子であり、小林秀雄の存命中は小説を書くことができなかったのだと言われています。そしてこの作家は、いわゆる歴史上の為政者ではない、ただ生まれ誰にも記憶されることなく死んでいった自由を愛する庶民を歴史の表に出していきたいのだと思います。そしてその中で中心に位置しているのがこの「影武者徳川家康」なのです。 隆慶一郎の他の作品に触れていきたく思うのですが、そのたびにこの「影武者徳川家康」にたちもどることがでてくることでしょう。(1991.11.04)

10101704「ニュースさとう」で吉本(吉本隆明)さんのついこのごろの新聞で竹内好について書いていることを書きました。
「歴史さとう」では、豊臣秀頼と千姫のことを書きました。歴史は残酷だなあと思うばかりです。あ、また北鎌倉で東慶寺を訪ねたい思いです。隆慶一郎の小説にこの東慶寺も出てきたものですね。その小説を思い出しています。
 写真は、10月17日の午前11時46分の柳田公園です。私は小さい娘二人とこの大きな遊具に乗って遊んだものでした。二年くらい前にポコ汰とここを滑ったときに、もう少し怖く感じたじいじの私です。(10/25)

↑このページのトップヘ