将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:青空文庫

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 今度は実際の本文を書きましょう(もちろん日本語で)。大久保ゆうさんの訳です。この飛行士が王子さまと出会うシーンです。これは青空文庫にのっているものです。
 私が「以下のように少し笑えるものもテグジュペリは見せてくれるのです」と書いたところで、でも笑えるけれど、大事なシーンです。

  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 それはともかく、いきなりひとが出てきて、ぼくは目をまるくした。なにせひとのすむところのはるかかなたにいたんだから。でも、おとこの子はみちをさがしているようには見えなかった。へとへとにも、はらぺこにも、のどがからからにも、びくびくしているようにも見えなかった。ひとのすむところのはるかかなた、さばくのどまんなかで、まい子になっている、そんなかんじはどこにもなかった。
 やっとのことで、ぼくはその子にこえをかけた。
「えっと……ここでなにをしてるの?」
 すると、その子はちゃんとつたえようと、ゆっくりとくりかえした。
「ごめんください……ヒツジの絵をかいて……」
 ものすごくふしぎなのに、だからやってしまうことってある。それでなんだかよくわからないけど、ひとのすむところのはるかかなたで死ぬかもしれないのに、ぼくはポケットから1まいのかみとペンをとりだした。でもそういえば、ぼくはちりやれきし、さんすうやこくごぐらいしかならっていないわけなので、ぼくはそのおとこの子に(ちょっとしょんぼりしながら)絵ごころがないんだ、というと、その子はこうこたえた。
「だいじょうぶ。ぼくにヒツジの絵をかいて。」
 ヒツジをかいたことがなかったから、やっぱり、ぼくのかけるふたつの絵のうち、ひとつをその子にかいてみせた。なかの見えないボアだった。そのあと、おとこの子のことばをきいて、ぼくはほんとうにびっくりした。
「ちがうよ! ボアのなかのゾウなんてほしくない。ボアはとってもあぶないし、ゾウなんてでっかくてじゃまだよ。ぼくんち、すごくちいさいんだ。ヒツジがいい。ぼくにヒツジをかいて。」
 なので、ぼくはかいた。
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それで、その子は絵をじっとみつめた。
「ちがう! これもう、びょうきじゃないの。もういっかい。」
 ぼくはかいてみた。
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 ぼうやは、しょうがないなあというふうにわらった。
「見てよ……これ、ヒツジじゃない。オヒツジだ。ツノがあるもん……」
 ぼくはまた絵をかきなおした。
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だけど、まえのとおなじで、だめだといわれた。
「これ、よぼよぼだよ。ほしいのは長生きするヒツジ。」
 もうがまんできなかった。はやくエンジンをばらばらにしていきたかったから、さっとこういう絵をかいた。
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 ぼくはいってやった。
「ハコ、ね。きみのほしいヒツジはこのなか。」
 ところがなんと、この絵を見て、ぼくのちいさなしんさいんくんは目をきらきらさせたんだ。
「そう、ぼくはこういうのがほしかったんだ! このヒツジ、草いっぱいいるかなあ?」
「なんで?」
「だって、ぼくんち、すごくちいさいんだもん……」
「きっとへいきだよ。あげたのは、すごくちいさなヒツジだから。」
 その子は、かおを絵にちかづけた。
「そんなにちいさくないよ……あ! ねむっちゃった……」
 ぼくがあのときの王子くんとであったのは、こういうわけなんだ。
  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 こうして、飛行士サン=テグジュペリは王子さまと出会うのです。
 思えば、この「星の王子さま」(内藤濯の訳で読みました。岩波書店の本でした)は何度も読みましたね。フランス語の原作の本は、今どこにあるのでしょう。私が他の大量の本と一緒に売ってしまったかもしれません。
 こうして青空文庫で読めていいですね。

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 朝起きたら、このパソコンが「更新プログラム」ということでその結果困りました。

2014/05/18 17:29ずっとインターネットで「青空文庫」をいくつか読んでいました。芥川龍之介『河童』と太宰治『グッドバイ』『走れメロス』を読んでいました。
 もうこれらはみんないいのですが、とくに『走れメロス』は「古伝説、シルレルの詩より」とありますが、太宰治のは原作よりも、シラーの詩よりもいいですね。あのシラクサの暴君は原作よりも太宰治の物語ではいい人になっています。いいなあ、また私は涙を浮かべていました。14050904
2014/05/19 02:29こうして昨日の書いた「周のポメラ」の続きを書きたいのですが、今はこのパソコンが「更新プログラム」ということで現在は30%完了ということになっています(まだまだ続くのです)。仕方ないなあ。
 やっと今は57%になりましした。
 今は79%完了です。もうすぐ90%を超えます。100%完了しました。
2014/05/19 02:46今は「ストアを読み込んでいます…」です。
 この状態がずっと続いています。困ったなあ。
 もうイライラします。
2014/05/19 03:00もう困りました。
2014/05/19 03:04リビングへ来ました。ときどきパソコンを見に行きます。仕方ないです。14050905
2014/05/19 03:20まだ終わらないのです。
2014/05/19 03:45困ったなあ。
2014/05/19 03:53仕方ないから、パソコンを一旦おとしました。
 それで以下に昨日の『走れメロス』のある部分を書きます。


 ああ、また別に書きます。

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 私が「サンタクロースはいます」の関連したUPで、「そして、このあと翻訳文をUPします」と書いていたのですが、いろいろとあってやっていられませんでした。
 以下、青空文庫からコピーします。

サンタクロースはいるんだ
Yes, Virginia, There is a Santa Claus
ニューヨーク・サン紙社説(担当:フランシス・ファーセラス・チャーチ) The New York Sun (written by Francis Pharcellus Church)
大久保ゆう訳
13122118

 ニューヨーク・サン新聞 1897年9月21日 社説欄
 本紙は、以下に掲載される投書に対してただちにお答え申し上げるとともに、このようにまっすぐな方が読者におられることを、心から嬉しく思います。

「こんにちは、しんぶんのおじさん。
 わたしは八さいのおんなのこです。じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら、サンしんぶん、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか?
      ヴァージニア・オハンロン」


 ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、何もかもわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。
 じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、ひとのまいにちは、いやされたりうるおったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、子どものすなおな心も、つくりごとをたのしむ心も、ひとを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしかたのしめなくなるし、世界をいつもあたたかくしてくれる子どもたちのかがやきも、きえてなくなってしまうだろう。
 サンタクロースがいないだなんていうのなら、ようせいもいないっていうんだろうね。だったら、パパにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつというえんとつぜんぶを見はらせて、サンタクロースをまちぶせしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずにおわっても、なんにもかわらない。そもそもサンタクロースはひとの目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。ようせいが原っぱであそんでいるところ、だれか見たひとっているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないってきまるわけじゃない。世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎなことって、だれにもはっきりとはつかめないんだ。
 あのガラガラっておもちゃ、中をあければ、玉が音をならしてるってことがわかるよね。でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。すなおな心とか、あれこれたくましくすること・したもの、それから、よりそう気もちや、だれかを好きになる心だけが、そのカーテンをあけることができて、そのむこうのすごくきれいですてきなものを、見たりえがいたりすることができる。うそじゃないかって? ヴァージニア、いつでもどこでも、これだけはほんとうのことなんだよ。
サンタクロースはいない? いいや、今このときも、これからもずっといる。ヴァージニア、何ぜん年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはいつまでも、子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。


※そのあと、ヴァージニアはニューヨークの学校の先生になって、四七年間子どもたちを教えつづけたそうです。

翻訳の底本:The New York Sun (1897) "Yes, Virginia, There is a Santa Claus"
  上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
翻訳者:大久保ゆう
2002年10月1日初訳
2011年12月9日改訳
2011年12月9日作成

このニューヨーク・サン紙の社説を書いたフランシス・ファーセラス・チャーチという方はどんなに素晴らしい人でしょうか。またこの新聞社も素敵です。それに「そのあと、ヴァージニアはニューヨークの学校の先生になって、四七年間子どもたちを教えつづけたそうです」というのもいいです。
 私の長女おはぎは小学校2年のときに、クラスで「サンタクロースはいない?いやいるんだ」という大論争が起きて、おはぎは「サンタクロースはいる」という側で、みーねえがこの絵本をくれて、この大論争に勝利したのでした。
 私も「サンタクロースはいる」という側ですが、この記者の方にようにうまくは展開できません。13122120
 これこそ実にいいお話です。もうこのことは永遠に忘れられないでしょう。
 イエス・キリストは、このサンタさんがいたからこそ、全世界で忘れられない存在になれたのです。
私も「じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ」という言葉を忘れないでしょう。

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 この章の「明暗」を見て、私はすぐに「夏目漱石『明暗』」を思い出していました。私は漱石は好きですが、あの小説は好きだとはいえません。もう一度読んでみるかなあ。三度目になるのですね。青空文庫で読めるから読んでみましょう。

 植木の話では、正月を袋井の実家ですごすた妻と娘の初子は京都へ帰り、今は福岡にいるという。

 娘ひとりで見知らぬ土地へ行かせるのはしのびないと母娘ともども縁者の家に身をよせているそうで、…………


 なんか読んでいて辛いです。それならなんで植木はけんと……、とも思い、またでもけんと触れ合ってもほしくなります。こうした私の思いの中の矛盾もまたこの二人の恋模様なのでしょう。

 …………。由比の紺屋であつらえてという浴衣地は、あざやかな藍色がけんの肌をひきたて、朝顔ならぬ夕顔がしっとりとした大人の色香をかもしだしている。13110806
 
この挿絵でも、けんの色香を感じます。やっぱりこれを描いている横山美佐緒さんはいいですね。単行本の活字になったら、みられないのだなあ。せめて単行本でも表紙カバー等に使っていただきたいものです。

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 私は周の掲示板で、

私はいつも歌の「湯島の白梅」を思い出します。このあと将門Webでも書いてみましょう。

と書いていながら、やっていませんでした。反省して、今書きます。これは昭和17年(1942)の歌です。

作詞 佐伯孝夫
作曲 清水保雄
歌  小畑実・藤原亮子
制作 滝野細道

一(藤原亮子)
湯島通れば 想い出す
お蔦主税(ちから)の 心意気
知るや白梅 玉垣に
残る二人の 影法師
二(小畑実)
 忘れられよか 筒井筒(つついづつ)
岸の柳の 縁むすび
かたい契りを 義理ゆえに
水に流すも 江戸育ち
三(小畑実・藤原亮子)
 青い瓦斯燈(がすとう) 境内を
 出れば本郷 切通し
あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
鐘は墨絵の 上野山

 この中の筒井筒とは、「丸井戸を囲った垣」のことで幼い頃男女が遊んだ場所の意味です。幼馴染の二人ということですね。
 この小説は、ここのサイドバーにあります青空文庫で以下で読めます。ただし、とても長い作品ですよ

  泉鏡花『婦系図』
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1087_34456.html

 この作品では、お蔦の「

別れろ切れろは芸者のときに言う言葉……今の私にはいっそ死ねと言ってください

」が実に有名です。

 私はこの泉鏡花の作品としては、他に『高野聖(こうやひじり)』『歌行燈(うたあんどん)』を中2の時に読んでいます。
 この作家は、1873年(明治6)11月4日〜1939年(昭和14)9月7日の生涯でした。私は尾崎紅葉、徳富蘆花、小栗風葉と並んで私の好きな作家です。

13071103  私はこの章について書こうとするときに、青空文庫でカール・マルクスの本がないか探しました。また「二葉亭四迷『小説総論』」も少し読みました。やはりマルクスはないし(私は『資本論』は高畠素之の訳で少し読みたい思いでした)、『小説総論』は今日来るだろうkobominiに入れて読みます。
 この章は全編イエスが語ります。私はイエスのことがだんだん好きになってきていたのですが、これはそれほど好きになれない思いなのですね。
 それと、「三位一体」とはどういう意味なのだろう。どうみても、イエスと神とは別人格に思えます。ああ、神もイエスも人じゃないんだな。私ではなかなか理解できるまでは至りません。
 私では理解にいたるまで遠い、遠い道のりだということを感じました。

第17章
13071104 イエスこれらの事を語りはて、目を擧げ天を仰ぎて言ひ給ふ『父よ、時來れり、子が汝の榮光を顯さんために、汝の子の榮光を顯したまへ。汝より賜はりし凡ての者に、永遠(とこしへ)の生命を與へしめんとて、萬民(ばんみん)を治むる權威を子に賜ひたればなり。永遠の生命は、唯一の眞(まこと)の神にいます汝と、なんぢの遣(ちかわ)し給ひしイエス・キリストとを知るにあり。我に成さしめんとて汝の賜ひし業を成し遂げて、我は地上に汝の榮光をあらはせり。父よ、まだ世のあらぬ前に、わが汝と偕にもちたりし榮光をもて、今御前(みまへ)にて我に榮光あらしめ給へ。世の中より我に賜ひし人々に、われ御名(みな)をあらはせり。彼らは汝の有(もの)なるを我に賜へり、而して彼らは汝の言(ことば)を守りたり。今かれらは、凡13071105て我に賜ひしものの汝より出づるを知る。我は我に賜ひし言を彼らに與へ、彼らは之を受け、わが汝より出でたるを眞(まこと)に知り、なんぢの我を遣し給ひしことを信じたるなり。我かれらの爲に願ふ、わが願ふは世のためにあらず、汝の我に賜ひたる者のためなり、彼らは即ち汝のものなり。我がものは皆なんぢの有(もの)、なんぢの有は我がものなり、我かれらより榮光を受けたり。今より我は世に居らず、彼らは世に居り、我は汝にゆく。聖なる父よ、我に賜ひたる汝の御名の中(うち)に彼らを守りたまへ。これ我等のごとく、彼らの一つとならん爲なり。我かれらと偕にをる間、われに賜ひたる汝の御名の中に彼らを守り、かつ保護したり。其のうち一人だに亡びず、ただ亡の子のみ亡びたり、聖書の成就せん爲なり。今は我なんぢに往く、而して此等のことを世に在りて語るは、我が喜悦(よろこび)を彼らに全(まつた)からしめん爲なり。我は御言(みことば)13071106を彼らに與へたり、而して世は彼らを憎めり、我の世のものならぬごとく、彼らも世のものならぬに因りてなり。わが願ふは、彼らを世より取り給はんことならず、惡より免(まぬか)れさらせ給はんことなり。我の世のものならぬ如く、彼らも世のものならず。眞理(まこと)にて彼らを潔め別ちたまへ、汝の御言(みことば)は眞理なり。汝われを世に遣(つかわ)し給ひし如く、我も彼らを世に遣せり。また彼等のために我は己を潔めわかつ、これ眞理にて彼らも潔め別たれん爲なり。我かれらの爲のみならず、その言によりて我を信ずる者のためにも願ふ。これ皆一つとならん爲なり。父よ、なんぢ我に在し、我なんぢに居るごとく、彼らも我らに居らん爲なり、是なんぢの我を遣し給ひしことを世の信ぜん爲なり。我は汝の我に賜ひし榮光を彼らに與へたり、是われらの一つなる如く、彼らも一つとならん爲なり。即ち我かれらに居り、汝われに在し、彼ら一つとなりて全(まつた)くせられん爲なり、是なんぢの我を遣し給ひしことと、我を愛し給ふごとく彼らをも愛し給ふこととを、世の知らん爲なり。父よ、望むらくは、我に賜ひたる人々の我が居るところに我と偕にをり、世の創の前(さき)より我を愛し給ひしによりて、汝の我に賜ひたる我が榮光を見んことを。正しき父よ、げに世は汝を知らず、されど我は汝を知り、この者どもも汝の我を遣し給ひしことを知れり。われ御名を彼らに知らし13071107めたり、復これを知らしめん。これ我を愛し給ひたる愛の、彼らに在りて、我も彼らに居(を)らん爲なり』

 私がもっと理解できるにいたるには、「遠い道のりだ」ということが判りました。そのことを知れただけで、少しはいいのかなあ。
 いや、なんだか、不満な思いが残ってしまいます。

1307020613070207  こうして植木とけんの出来事を私も嬉しく読んでいくことが出来ます。

 今は十三、四の小娘ではない。花も恥らう乙女などとうの昔にどこかへおいてきてしまった。

 いや私には今もけんは綺麗な可愛い女性です。それを強く思います。
 けんはこのときに持っていた本を落としてしまっているのです。

 手をほどいて目をあげると、植木が風呂敷包みをさしだしている。蛇におどろいてころんだときに落としたのだ。礼をいってうけとる。
「本、ですか」13063012
「ええ、おたつさんにいただいた大切な本」
「それなら樋口一葉でしょう」

 植木もちゃんと知っていたのでした。これで私こそちゃんと一葉を読んでいないことに焦ります。青空文庫でちゃんと読んでいくべきですね。ただ一葉は読むのが少し大変な思いなのですね。

1306280413062805 今日はこの作品を読んでいてものすごく嬉しいです。私が以下のように書いていたのですが、

 今日から、「一葉びいき」という見出しになっています。この一葉とは樋口一葉のことかなあ、とすぐに思いましたが、もちろん違うでしょうね。私は好きな作家ですね。でも彼女は金貸しだからな。いや金貸しがいけないというのではありません。そんなことを書いている彼女がそんなに好きにはなれないのです。

 これはやはり樋口一葉のことでした。私は昔から好きな作家ですが、やはりここで書かれているのは彼女のことだったのですね。ものすごく嬉しいと同時に、まだ読んでいない作品がたくさんあるわけで、その反省のほうがしきりでした。
 この挿絵のおたつがけんに渡すのがこの樋口一葉の本なのです。

「あなたがお好きだと、はるさんからうかがいました。二冊ありますから」
 けんは歓声をあげて本を抱きしめた。
 樋口一葉の全集である。

 私はここのサイドバーに置いてある青空文庫で見てみました。以下の作品が公開されています。

あきあはせ
雨の夜
うつせみ
大つごもり
琴の音
さをのしづく
十三夜
すゞろごと
たけくらべ
月の夜
にごりえ
軒もる月
反古しらべ
闇桜
雪の日
ゆく雲
わかれ道

 私が読んだのは、うつせみ、大つごもり、十三夜、たけくらべ、にごりえ だけなのですね。中2のときと、高校2年でも読んでいますが、また今読まないといけないですね。反省します。でもこうしてパソコンで読めるのは実にありがたいです。

 けんはどんなに嬉しかったことでしょう。思えば、樋口一葉は24歳で亡くなっているのですね。私には一番美しい作家なのです(実際には美人ではなかったと言われていますが)。13062705

 けんは天にも昇る心地だった。

 このけんの気持が分かります。そして好きな植木にも会えたけんはどうなるのでしょうか。嬉しいだけでもっといいことがあればなあ、植木としんみり話すことができたらなあ、と私は希望しています。

51bceaa1.jpg  王子駅で乗りました。またじゅにに会いに行きます。 
  ある友人に、私の家に電話をもらったのですが、私が手紙を出したことで電話をくれたのでした。
 でも彼のところは手紙はまだ一通だけなのかなあ。なかなか手紙はおそいね。
 メールはもっといいし、ケータイメールはすぐにつきます。ただ私は手紙がいいのですね。
  ただし、今は書いている時間がなかなか見つけ出せません。たしか2008年には、年間で608通(ただし私的な文書だけ)書いているのですが、よく時間が作りだせたなあ。
  もちろん、私はこの年もせっせとインターネット上のブログは更新したし、本も300冊は読破しました。 今は紙の本は、それほど読みませんが、パソコン上ではけっこう読んでいます。「青空文庫」で読んでいるのですね。

6c695a24.jpg  南浦和で武蔵野線に乗りました。
  普通には両手親指打鍵できるのですが、立っているとそれは無理だなあと気がつきました。
  それにしても電車の中でも忙しいことですね。隣の女性は池波正太郎の小説をお読みなのですが、私は懸命に内容を思い出しました。
  思えば私は時代小説も好きです。読んでいない作家は誰かなあ。いくらでも作家を思い出します。 もっと読んでいくべきだなあ。
 でももう紙の本は嫌だから(いえ、吉本(吉本隆明)さんや長谷川慶太郎は別です)、青空文庫(私のここのサイドバーにあります)をダウンロードすべきかなあ。
 ついこの頃も電車の中でパソコンをいじる人を見かけます。それは40代です。もう今では古いよなあ。なんだか、歳をとった古い人を感じます。

11041501  プーシキンは、1799年6月6日〜1837年2月10日の生涯でした。
 ただ私には彼のことというと、片親がアフリカから来た黒人であったという思いだけでしたが、この頃になって正確に知りました。彼の母親の祖父のガンニバルが、ピョートル大帝に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人だったのですね。
 私がこの作品を読んだのは、中学2年のときでした。岩波文庫で神西清の訳でした。この小説を読んでから、トランプのスペードのクイーンのカードを見ると、いつも心のなかで「スペードの女王だ!」と叫んでしまっています。
 私はプーシキンは好きなので、その他の作品もけっこう読んでいます。今では、青空文庫で岡本綺堂の訳で読めるのですね。岡本綺堂というところにいささか驚いてしまいます。(2011.04.16)

11022510 中里介山『大菩薩峠』へ さちこ さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by さちこ   2011年02月26日 10:55
都内 図書館 検索 大菩薩峠でこのページにタドリツキマシタ。ブックオフでたまたま市川雷蔵の表紙絵の文庫本にひかれ、手にしたのがきっかけで、その巻は温泉での大活劇の胸躍る楽しさで始まります。今、買い集めた文庫本は友人のもとへいっているので、詳しくは思い出せないのですが、どうげん先生で幕が開くのです。とても読みやすい文庫本だったので、抜けてる巻が都内の図書館にあるのでは、と、その4文字を打ち込みましたらリアルタイムで大菩薩絶賛のコメントをきくことができ どうもありがとうございました。これから 抜けてる巻を探す旅にでます。

「市川雷蔵の表紙絵」なんていいですね。私が読んだのは、浦和図書館(駅は北浦和駅です)で、もう随分昔のことです。私は「中里介山全集」で読んだものでした。市川雷蔵の映画は私も大好きですよ。
 もう今では、青空文庫で読めるのですね。もう私はすべて書籍は、電子書籍(私はガラパゴスです)で読もうと思っていましたが、電子書籍にはなかなかなってくれないですね。
 私はこうしてディスプレイで読むのは、実に楽でいいです。図書館は、漢詩関係の本は、あれば(これがないものは困りはてます)すぐ読めていいのですが、例えばフェイスブックの関係なんかは、時間がかかって(数ヶ月先になります)困ります。
 村上春樹の本なんかは、息子(私の長女の彼)に借りればいいのですが、フェイスブックは、今もその面白さが分からないので、困っています。

11020407 私がこれを読んだのは、高校3年の時でした。私が現代国語の授業で、「『小説神髄』より『小説総論』のほうが上だ」と言ったところ(思えば、あの頃の言いたい放題のことを言っていましたね)、次の授業で、その担当の先生がこの作品を全文ガリ切りで印刷してきて、一時間の授業になったものでした。
 今青空文庫で読むと、以下にあります。

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1868_22437.html
                二葉亭四迷『小説総論』

もう今の私では、ただ読むのだけでも大変ですね。

 小説に勧懲摸写の二あれど、云々の故に摸写こそ小説の真面目なれ。

 いつも思うのですが、私はこの二葉亭四迷がよく判りません。『浮雲』『平凡』は面白いけれど、『其面影』なんてどこが面白いの。
 思えば、私にはこの二葉亭四迷もよく理解できない人です。
 そういえば、高校時代にこれをガリ切りしてくれた先生は、7、8年前に亡くなりました。彼の自宅が成田線で彼の自宅の前まで行きまして、涙でいっぱいになったのを覚えています。(2009.12.03)

11011907  いつも「てっぱん」を見ています。

2011/01/19 07:59リビングで「てっぱん」を見ています。もうブログではいくつものUPをしました。でも昨日はたいしてUPしていないですね(いやしているほうかなあ)。
 東京北社会保険病院へ行ったときに、IS01で2つUPしました。でも実はもう一つ書いたのですが、それはUPできませんでした。パソコンとケータイとIS01がブログを更新できるものなのですが、ちゃんとできないのですね。要するに3つもあるので、私が完全に理解できていないのです。
2011/01/19 08:13今は「てっぱん」を見て、涙を流してしまいました。
2011/01/19 08:34今少し前に、開かなかったジャムの入っていたものを開けました。暖めることですね。
2011/01/19 08:44何かとにかくやることです。
2011/01/19 17:38義母のベッドのそばにいます。ここでは、私を息子と認めてくれるかなあ。
 IS01では、日経新聞ばかり読んでいます。書籍はまだ読んでいないですね。これから、まず「長塚節『土』」を真っ先にして、青空文庫の本をかたっぱしから読むつもりです。それは実に嬉しいことです。
 明日長女とポポとここへ一緒にこよう。

 でも長女と昨日話したら、長女は独自に義母のところへ行くようです。ポポと行きたかったのになあ。

10122903 私はこの小説を中2の時と、高2の時に読みました。それで先日北ケーブルテレビでこの映画を見て、そのときに青空文庫でこの小説を改めて読みました。実にいい作品ですね。そしてこのヴィヨンの妻がとっても好きになります。ヴィヨンはただのよいどれですが、その奥様は実にいいです。
 でもこの妻の夫であるヴィヨンは何なのでしょうか。ただの酒飲みの悪いだらしのない男でしかありません。
 とはいえ、太宰治は実にいいです。自分のこともあのように見ていられたのですね。いつも、太宰の奥さんって何だったのだろうとばかり思っています。もちろんこのヴィヨンの妻が太宰の奥様ではありません。でも私には、この小説の妻が太宰の求める女性だったのだろうと思うものです。
 でもでも残念です。39歳で自殺していなければ、あのあとも文学を書いていってくれれば、おそらく夏目漱石以上の作品を書いていただろうと思うのです。そのことがとても残念です。
  1909年(明治42)6月19日 ~1948年(昭和23年)6月13日の生涯でした。私は大学1年の夏休みに、太宰の自殺した玉川上水を歩いています。

    夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
  「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だっ
  てさ。こいつは、  当っていない。神におびえるエピキュリアン、と
  でも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人
  非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、
  去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、
  あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人で
  ないから、あんな事も仕出かすのです」
   私は格別うれしくもなく、
  「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいの
  よ」

 この「ヴィヨンの妻」の最後の部分を読み、私はまた涙を流していました。(2010.02.06)

101209092010/12/10 11:46またもうすぐニチイの介護サービスの時です。
 今この機会に「青空文庫リーダー」を使ってみようと思ったのでしたが、ここでは駄目でした。パソコンでないといけないのでした。またノートを持ってきて、起動するわけにはいきません。あとで午後一時過ぎたらやってみます。
 そういえば「浅野」にも行きたいのですが、なかなかチャンスがないなあ。夜は無理だから昼食に行くしかないのですね。でもそれも難しいな。
 きょうはシャープの電子書籍リーダーのガラパゴスが来るはずなのですが、いつなのかなあ。
 ちょうど12時5分前にニチイの方が来てくれました。
こうして、ポメラで書いて、IS01も時々書いて(今はこの機器ではまだツイッターしかできないけれど)、電子書籍で小説を読めれば嬉しいです。私は最初に「長塚節『土』」を読むつもりなのですが、さてどうなるでしょうか。私は長塚節と、そして彼の書いた『土』がどうしても深く思い出されるのです。「青空文庫」で読めるのです。思い出せば、中学2年でこの作品は読んだのですが、また読み直すことになるなあ。
 長塚節は、若くして亡くなったのですね。彼の歌集は、母のものがあったのに、我孫子の家を引っ越する前に下北沢の古書店に売ってしまいました。今からあの古書店に行っても見つからないだろうな。
 私が書いている『吉本隆明鈔集』で長塚節の言葉も出してきて、私はそれでの歌はも覚えていますが、あとの歌はなにも記憶に甦りません。
 あ、すぐあとで私の『吉本隆明鈔集』での長塚節に関する隆明鈔の言葉を書きます。
2010/12/10 12:30今日の介護サービスは終わりです。大変なお仕事ですね。実にありがとうございます。

10090117  Spider job 蜘蛛業 に書いております ニュースさとう が8月29日〜9月4日までのUPが以下の通りです。

2010/09/04(土)No.291
義母名義の電話が勝手に休止移転される
010/09/03(金)No.290
決めるのは私たちのようです
2010/09/02(木)No.289
アンドロイドケータイでワンセグ
2010/09/01(水)No.288
私は青空文庫はよく読んでいます
2010/08/31(火)No.287
Gメールからの通話が100万を超えたといいます
2010/08/30(月)No.286
せっかくこれだけ暑いのになあ
010/08/29(日)No.285
新型キンドル過去最高のペースで売れているそうです

  いつもこの「ニュースさとう」は、インターネット上で見つけたニュースの中から、私が勝手に選んでいるものです。でもきょう4日は、私の義母名義の電話が何者かに勝手に休止移転(移転だと思います。電話そのものは使えていますから)されたことを書きました。もう大変に驚き怒っています。

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「今 2:22」に、その鈴さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by ひとみ   2009年09月18日 04:53
周ちゃん おはようございます
今日は 4時に 目が覚めてしまいました
(眠るって やっぱり 大変?なのかな)
私も 太宰治は好きです
昔 彼のものを 読破しました
今度「ヴィヨンの妻」がドラマ化されますね
(映画でしたっけ?)
見たいと思っています
どうぞ お元気で(^−^)
                ひとみ

 私も太宰治は好きです。そして今はますます好きになっています。最初に読んだのは中学生そして高校生のときですが、大学での学生運動で東大闘争で逮捕起訴されたときに、彼の全集をすべて読みました。井伏鱒二への借金の申込なんかの葉書もいっぱい読みましたよ。
 昔、たしか法が改正されて登記所が混んで混んで仕方のないときに、渋谷登記所で、こんなことがありました。係の人が「津島さん、津島○○(女性の名前でした)さん、青森からおいでの津島さん……」と呼んでいるのです。でも何故か、相手は現れませんでした。私は、「あれっ、津軽から、ヴィヨンの妻が来ているのかな?」なんて思ったものでした。
「ヴィヨンの妻」の、私はこのもともとのフランソワ・ヴィヨンの詩集は読みました。私が府中刑務所の中にいるときに読んだものです。もう目茶苦茶な酔いどれは、こうしてフランスの中世にもいるのですね。彼は今になるも、その最後はどうなったのか判っていません。
 フランソワ・ヴィヨンもどうしようもないくらの酔いどれでしたが、太宰治ももうどうしようもないくらいの酔いどれですね。
 でもこのごろは、私は思っているのです。ヴィヨンの妻というのは(これは太宰治の妻のほう)、ひょっとすると、そんなにいい人ではなく、太宰治こそが素晴らしい存在だったのではないかと。
 太宰治の作品は、青空文庫ですべて読めます。私もときどき読んでいますよ。いつか私の孫のポコ汰に、彼のいくつかの童話を読んであげようと思っています。

 私もこの映画は見てみます。

 その帰り、二人の男が相合傘(あいあいがさ)で歩いている。いずれも、その逝去(せいきょ)した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就(つ)いての、極(きわ)めて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡(めがね)、縞(しま)ズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢(ねんぐ)のおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
 その編集者は、顔を赤くして答える。
 この文士、ひどく露骨で、下品な口をきくので、その好男子の編集者はかねがね敬遠していたのだが、きょうは自身に傘の用意が無かったので、仕方なく、文士の蛇(じゃ)の目傘(めがさ)にいれてもらい、かくは油をしぼられる結果となった。
 全部、やめるつもりでいるんです。しかし、それは、まんざら嘘(うそ)で無かった。
 何かしら、変って来ていたのである。終戦以来、三年経(た)って、どこやら、変った。

 以上は、太宰治の「グッド・バイ」です。太宰治は、こうして、私たちにグッド・バイしたのでした。

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新聞名 図書新聞第2923号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年6月27日
読了日 2009年6月20日

 一面の以下が私にはよく判りませんでした。

グーグルの和解案には乗らない――高須次郎流対協会長に聞く、グーグル・ブック検索問題:主導権を握られないために、出版社自らがデジタル化に取り組むとき

主導権を握られないために、出版社自らがデジタル化に取り組むとき」と言われても、実際にやっているのかなあ。ぜひデジカル化してほしいものですが、どうにも信じられないのです。

今回の和解案を呑んでしまうと、グーグルの図書館プロジェクトが日本に入ってきたときや別のサイトがそういうサービスを始めたときに、対抗できなくなってしまいます。

というのですが、もう今でも昔の出版社には対抗できるのかなあ。
 私は、「太宰治の場所:生誕100年・文芸評論家に聞く/1 吉本隆明さん」に書きましたように、私が以下にあげたように、

今私が好きだと思える作品を思い出せるだけ以下にあげてみます。

ヴィヨンの妻
右大臣実朝
黄金風景
お伽草子
女の決闘
グッド・バイ
新釈諸国噺
惜別
走れメロス

なのです。私は「人間失格」と「斜陽」をここにはあげていません。でもでも、これは私が判っていないのかもしれません。 

 それででも、この2冊を読むのに、もう文庫本を買う気はしません。だから、私のこのブログのサイドバーにある「青空文庫」で読もうかと思っています。もう私はそうして読んだほうがいいのです。私にはそれのほうが向いているのかもしれません。そうすれば、ちゃんと「人間失格」も読めるように思います。

 そのほか、秋竜山さんの薦める原島広至著『東京今昔散歩――彩色絵はがき・古地図から眺める』(中経出版、本体六五七円)は読んでみようと思いました。

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