将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:靖国神社

15110208
昨日「大久保利通のことで」を書いていたときに、「次は西郷隆盛のことを書こう」と思っていました(西郷さんは「隆盛」とまで書かないと、会津藩の西郷頼母(さいごうたのも)がいるのでこう書きました)。15110303
そしてこの歌を口の中で唄っていました。

 写真で見ただろうおっかさん
 上野のお山の大男
 東京名物西郷さんだ
 お国のためだと言って死んだ兄貴の横顔思い出す

 そして靖国神社を「東京見物させたいものと言ってた兄貴が戦友たちと眠っているんだ、会っていこう」と唄っています。私はこれを心の中でもごもごも唄うだけで涙になっていました。それは今も同じなのです。私の亡くなりました兄莞爾が三橋美智也の大ファンでした。10月17日に兄の三回忌でお墓に行ったときもこの歌を思い出していたものでした。15110304
もちろん私も三橋美智也の大ファンです。

11080207   Tuesday, October 14, 2003 10:00 AM
萩原様
 小野田襄二さんの『革命的左翼という擬制』を読みました。
 ブンドについても革共同についても、それぞれの時点での評価の所は判断がつかないのですが、位置していた場所によって見えたものが違うのだろうなと感じました。
 威勢のいいかけ声で常識的な判断が通用しなくなって行く過程への反省が深刻ですね。この部分は指南力を持っていると感じました。
 学生運動を卑下しすぎているように感じはしましたが。
 場所によって見え方が違うという事と、常識が押しのけられる事の恐ろしさは払拭されていませんね。今はソフトになっているから、「玉砕」とは反対向きの言葉が出てくるだけです。ソフトになっているから常識的に見えるのですが、排除力は強くなっているように思います。
 松崎については、これ以上の思いを持てる人はいないのではないでしょうか。小野田さんぐらいしか、こういう目で松崎を見てやれる人はいないでしょうね。
 あとがきはまったく賛同も共感もできませんでしたが、読んで良かったです。
 小野田さんがこうした事を沈黙したままでいるよりは、言葉にしてくれた方がどれほどいいか計り知れません。多くの人の沈黙が、鉄面皮の跳梁を許しています。

「2003/無言館」見ました。
 まったく根拠のない印象なんですが、全共闘運動って、親の世代の戦争体験の追体験かもしれないと感じた事があるのを思い出しました。
 何か共感のつながりがあるような感じです。
 そこを取り違えると赤軍になるのかもしれません。目森一喜

   Thursday, October 16, 2003 5:33 PM

 小野田襄二さんの『革命的左翼という擬制』を読みました。

 あの本を私は堀雅裕さんの1周忌のときに、小野田さんから手紙の形で受け取っていたのです。もう部厚い手紙でしてね、読み終わるのが大変でした。
 この手紙を読んだときにも、「これをもし本に出してしまったら、衝撃を受ける人が大勢いるだろうな」なんて思ったものです。でもそれでも、みなに披露してほしいと思いましたね。

 松崎については、これ以上の思いを持てる人はいないのではないでしょうか。小野田さんぐらいしか、こういう目で松崎を見てやれる人はいないでしょうね。

 まったく同感です。そういう意味では根仁だって、それなりの人物なのかな、なんて思ったものです。電話でいいましたように、やはり黒寛が徹底してよくないですね。私は最初のマルクス主義哲学の1、2冊は優れている(「社会観の探求」等)が、彼が政治を語ったり、政治をやろうとしたから、日本の左翼の悲劇惨劇が生まれたように思います。もちろん、革共同だけではなく、ブンドだって、この悲劇惨劇には責任があるのですが、黒寛がいなかったら、あるいはもう少しまともだったら、違っていたんじゃないかな。
 本当は松崎は優れた活動家なのでしょうが、もうどうしようもないね。「いつ殺されるか」というところで、彼は国家の側へ行ったのでしょうね。それも別にいけないとは、今の私はいえません。ただやっぱり革マルって嫌だね。

 小野田さんがこうした事を沈黙したままでいるよりは、言葉にしてくれた方がどれほどいいか計り知れません。多くの人の沈黙が、鉄面皮の跳梁を許しています。

 そうです。私は小野田さんが、難しい数学の本を出して、読むのに辟易しようと、またアル中で、もうほとんど困った酔いどれで、「もういいかげんにしてよ」(これは私の酔い方でも誰にも言われているでしょうが)という思いになっても、どうしても小野田さんのことを先輩として敬愛せざるをえません。彼が中核派を離れて、それでも運動をやり続けようとしたときに、まったく彼には関係なく起きてしまった事故が芝浦工大事件でした。彼には責任はないのです。それなのに、彼は自分の運動も、自分の仕事も、自分の御自宅の仕事も投げ捨てて、私たちを救援してくれました。私は中核派にしろ小野田派(反戦連合という運動だったようだ)も大嫌いでしたから、まったく小野田さんには、私のことなんか関係ないはずなんです。でも、よくやってくれました。私の父も母も小野田さんのことを信頼していました。先日の小野田さんの出版記念会でも、私の弟(私の詩吟の伴奏で参加していました)も、「あのときはどうもお世話になりました」と30数年来の挨拶を小野田さんに対してしていました。
 だからね、やっぱり私には大事な先輩なのです。

「2003/無言館」見ました。
 まったく根拠のない印象なんですが、全共闘運動って、親の世代の戦争体験の追体験かもしれないと感じた事があるのを思い出しました。
 何か共感のつながりがあるような感じです。

 私もいつもこのことを思いますよ。私の親父が東大闘争で、家族会をやったときには、みな家族会はそんな感じだったようですよ。戦争体験者で、実際出征した親たちが多かったようです。親父は、そのずっと前から靖国神社で戦友たちと会を作ってやっていましたが、同時に当時の国家のやり方に反抗する私たちにもシンパシーを覚えたようです。私も「なんだ、ようするに俺と同じじゃないか」なんていうところですね。

 そこを取り違えると赤軍になるのかもしれません。

 正確には、赤軍ではなく「連合赤軍」だと思うんですよ。いや、赤軍にしろ、その前の三派全学連にしろ間違っていたことは、それこそ間違いないが、やはり毛派とブンドである赤軍派が一緒になったときに、さらに違うものになったと思うんですね。思えば、毛沢東というのは、スターリンよりもヒトラーよりも悪い奴じゃないかな。まあ、結局一番悪いのはマルクスなんだと思いますがね。萩原周二
(第169号 2003.11.10)

cde4ed74.jpg 義母は、昨日帰って来たときに、私に実に丁寧な挨拶をして、まるで私が義理の息子とは判っていないのかなあ、なんて少し寂しい気持になったものです。
「パソコンって、自分で作れるんですね!」って、そうですよ。私は今まで13台自作しました。要するに、安価だから作ったのです。だから今は直接買ったほうが安いので、もう自作しません。最初は1998年9月に作りました。20万円を切る19万円以下で作りました。たしか当時は減価償却資産の限度額が20万円だったのです。そのあとすぐに、事務所用と自宅用に2台一遍に作りだしました。もうその頃こそ莫大に飲んでいたもので、記憶がないまま秋葉原をうろつき、かつ明け方始発で自宅に帰ったり、夜23時台に御茶ノ水の事務所へ出かけたりして、2台とも作成しました、これができた1998年10月1日、私は自分のホームページをインターネット上に公開しました。
 でもでもその後数年で価格は10万円以下で自作するようになりました。自作の価格というのは、普通はディスプレイを含んでいないものでした。でも私が浅草の友人に自作したときは、ディスプレイ、ウィンドウズソフト含んで5万円で、たしか秋葉原からタクシー代含めて3,000円おつりを渡しました(もっともその自作後の酒代は別で、彼の奢りでした)。
 今は、もっと安く購入できますよ。
 私にこうしたパソコン自作を教えてくれたのは、大正末年生まれの方でした。秋葉原の安いパーツ屋をいくつも教えてくれたのは彼なのです。彼は実際に秋葉原のあるところで、自作の授業もやって、ある雑誌にその模様を載せたことがあります。思えば、彼らとも一緒に靖国神社に行ったこともあるのですね。
 写真はここの玄関の人形たちがこうして列になって並んでいるところです。長女がこうしたのかな。でも一人の子がいないのですね。どこ行っちゃったのだろううか?(02/28)

 ナミちゃんのブログこのUP がありました。

周さんと三十年振りで話せるのもスリルだよ(^o^)/

といいますが、30年ぶりかなあ。私は今59歳だから、私がナミちゃんと始めて会ったのが、大学5年(ひょっとして大学6年のときかもしれない)の4月で、埼玉大学の下大久保校舎のサークル部屋ででした。何故か、歴史研究会の部屋にいたら(あの頃毎日アルバイトで、週に1度大学へ行っていたと思います)、ナミちゃん07071106とみっちゃんがきてくれました。なんだか、とても若い綺麗な女の子が二人も来たので、でもあいも変わらず好きかってなことを言っていたら(それがずっと私の流儀でした)、なんだかナミちゃんが気に入ってくれたものでした。
 でもあのサークル部屋は、所属しているのはみな学生活動家ばかりでしたからね。そしてみな元気な若い現役の活動家か、私のようなもう過ぎてしまった活動家(なにしろ、私はあのときもう裁判を二つ抱えていました)ばかりでした。だからあのときは37年前。
 その後は当然何度も会っていましたが、最後の頃は日の丸にいた頃かなあ。

 ただ偶然、ナミちゃんの住んだところ故郷も我孫子で、私の自宅も我孫子でした。次女が生まれた病院とナミちゃんが子どもさんを生んだ病院も同じじゃないかなあ。
 でも不思儀なことに我孫子の住人同士だったのね。

上田の無言館は是非行ってみるといいよ。

 土曜の夜土曜の夜はお魚つ”くし のコメントにも そうそう上田の無言館に行ったかい?と書いてありました。あれを読んで、私はサーッと血がひくような感じであのたくさんの絵を思い出していました。
 以下に私が行きました、東京ステーションホテルで開催された絵画展に行きましたことを書いてあります。

   無言館遺された絵画展

   昨日の「無言館遺された絵画展」

 もう私はこの絵をみて感動しました。でも一番とにかく、涙が出てきました。今も涙がわき上がります。ちょうど父と義父の年代の方々が描かれた絵です。
 私は今も靖国神社へ行きましても、どうしても涙にくれています。
 私はどちらも同じなのです。私の父も同じでした。あんなに、絵を描きたかった、他のいくつものことをしたかったのに、戦争に行ったのです。
 私の父も義父も、どうやら戦争から帰ってきました。だから、私も妻も今存在しています。だから、私の二人の娘も、孫のポコちゃんの存在もあります。大声で泣くことができます、みなで笑うこともできるのです。

 あの「無言館」のある多くの絵を描かれた若者も同じです。生きて帰っていれば、私のような子どもも、私の二人の娘にも会うことができたのです。孫を腕に抱えることもできたのです。
 それがみなできなくなってしまいました。だから、あの「無言館」の絵は、何も語らないけれど、その前で私は涙を流してしまうしかないのです。

 どうしても涙だけが湧いてきてしまいます。

続きを読む

901ee52d.JPG写真のように桜も可哀想です。さて急ぐけれど、地下鉄の中は走れないですね。また降りてから走ろう。靖国神社も行かないとならないなあ。

  写真は柳田公園の雨の中の桜です。

4b76ee47.jpg きょうは冷たい雨ですね。雨に濡れた桜が少し可哀想です。きょうは午前中いくところのすぐ近くが靖国神社です。また桜を見てこようと思っています。あ、でも雨の中だとデジカメが撮りにくいですね。(4/03)
続きを読む

7f9e8acc.jpg 昨日は私も桜をあちこちで見ました。王子柳田公園でも、市ヶ谷でも、靖国神社でも蛎殻町でも綺麗に咲いている桜を見ました。もう春になったんだなあ、ということをひしひしと感じていました。
 でも朝になるとこうして雨です。せっかく咲いた桜の花がどうなっちゃうのかなあ。心配です。(3/30)
続きを読む

9c019a1f.jpg

 私の「かにた婦人の村」を今思い出した川本久美惠 さんより次のコメントをいただきました。

3. Posted by 川本久美惠    2007年03月28日 22:20
11年10ヶ月お世話になった事務所の引越しでバタバタしていています。
引越しのあいさつ代わりに、じゃじゃ馬日記最終号を配布しようか(旧体制が虎視眈々としているそうですので)、となり、自宅パソコンにデーターがなく、久々に将門webを訪問し、ブログも拝見しました。
お嬢さんおめでとうございます。

「かにた婦人の村」読みました。
テレビで紹介され知っていたつもりでいましたが、分かっていなかった。

従軍慰安婦のこと、分かりやすく説明いただきありがとうございました。
この問題は、左右どちらの側の言い方も嫌悪を覚え、慰安婦にされた方々にただただ胸が詰まる思いのまま思考が停止してしまっていました。

 ありがとうございます。「旧体制」というのは、あの悪質な弁護士や会計士等々が多い連中とその尖兵でやっていた事務所ですね。私は、とにかく私があそこに存在することはそれらのの抑止力にはなっていたのかなあ、という思いでしたが、いつまでもそれにつき合っていられません思いでした。
 とにかく、私は自分の義母の介護が一番大事です。
 私の母は、私の義姉が実によく介護してくれています。もう私は頭が下がる思いです。そして、私のことを弟としてちゃんと遇してくれています。
 私のこの義姉のことで、私の長女おはぎが、「なんでまっちゃん(義姉は町子という名前なので、こう言われています)は、うちのパパと仲がいいの?」なんて聞いたことがあります。義姉は、「ああ、何でかしらね、でも弟だからよ」なんて言っていたような気がします。

 私の次女が結婚できて、もうとにかく感激感動です。あとは、夏に家族旅行で、全部で7人家族の旅行になります。
 でも過去の旅行のときは、ホテルで「じゃ、お風呂いこうぜ」と4人でわいわい行きましても、いざお風呂に入るとなると、妻・おはぎ・ブルータスは3人で入りますが、私は一人です。前に中伊豆に行ったときも、結局温泉には一人で入ります。それで、でも中に入っている人とお喋りでもしようかと思っていると、素敵な大きなお風呂なのですが、中に一人しかいなくて、しかもその人はすぐに出て、私はすぐに独りです。だから、身体を洗って、すぐに部屋に帰り、冷蔵庫からビール出して、独りでテレビ見て飲んでいました。そうすると、3人がにぎやかに帰ってきます。
 でも昨年夏の湯西川温泉のときは、おはぎの彼ミツ君もいてくれたので、温泉は男組が二人でした。
 でもでも、今年から、男組が4人になるのです。女組は、妻・おはぎ・ブルータスと3人のままですが、男組は、私・ミツ君・ナオ君、そして0歳のポコちゃんがいます。ポコちゃんも、立派なちんちんを持っています。これはものすごく嬉しいことです。お風呂のあとの酒が美味しいだろうなあ。

 私が 98-04-29かにた婦人の村と「噫従軍慰安婦」 で次のように書いた内容があります。

 ある方から以下のような書き込みがありました。

>大連においても、見境もなく女たちを襲うソ連兵の防波堤となって、
>市の有力者の懇請を受け、犠牲となって働いた女性たちがいました。
>彼女等の勇気有る献身が大和撫子を守ったのです。

 彼女たちの行動に限りなく敬意を感じます。そしてソ連およびスターリンをどうしても憎いと思います。私が学生のときに、三派全学連とともに行動していたわけですが、その中で彼らはマルクス主義共産主義を信奉しながらも、どうして日本共産党民青ではなく、三派系になったのかというと、このスターリン主義が許せないのだ、ということがおおきかったと思います。とくに日ソ不可侵条約を一方的に破り、我が日本の婦女子たちを強姦強殺したソ連そのものを絶対に許せないのだ、という言葉会話はよく聞いたものでした。私はマルクス主義は嫌いでしたが、こんな心情こそはまったく同じだと感じていたものです。

 このことを私に教えてくれたのは、昭和一けたの女性です。彼女とは靖国神社へ一緒に行ったことがあります。彼女と同じ昭和一けたの男性たちも大勢いたのですが、彼らは、靖国神社の遊就館で、ただただ涙を流している私のことが不思儀だったようです。なぜなら、その涙を大量に流している私が、彼らがいつも嫌っている戦後生まれの団塊の世代で、三派全学連、全共闘で実際に闘っていた私だったからです。そして彼らの多くは、靖国神社も私のようには好きになれないようでした。
 このときに関係の友人たちとは、他でも会いましたことがありますが(私が真っ先にオフ会をやりました)、大正生まれ、明治生まれの方とは、私は話が合うのですが、昭和一けたの方(の多く)とはどうにも、感覚が合わなかったものでした。

 でも川本さんの会社が御徒町に自社ビルを作られたのですね。おめでとうございます。地図で見ると、あのあたりもいいところですね。私は学生のときのアルバイトやその他のことでも、御徒町は親しみを覚えるところなのです。

 あ、それとスカイプはいかがですか。もうバージョンが3.0を超えて、もう実にいい内容になりましたよ。100人までの会議ができますから、たくさんの女性、多くのメンバーと打ち合せをするのには最適だと思いますよ。カメラで互いの顔姿を見ながら会議できます。たとえ、米国でも豪州でも英国でも中国でも御徒町でも、みな何時間でも会議が無料でできます(あ、でも会議は何時間もやっていては、そういう会社は駄目ですが)。
 このごろ、よくスカイプのことを聞かれています。いいことですね。嬉しいです。50代、60代の方とスカイプでお話するのは愉しいです。

続きを読む

ada42607.jpg

 私の 吉本隆明鈔集「外国から靖国神社へ行くのは外交の妨げですなんていわれたら、冗談はよせやいと一言のもとにいうところです」imajou さんが次のコメントをくれました。

2. Posted by imajou    2007年01月08日 18:37
素晴らしい。大賛成です。政治家にこの発言をして欲しいのですが、言えるのは小泉さんか麻生さんくらいしか居ないでしょうね。

 まずimajouさん、お兄さんが亡くなられたのですね。どんなに力を落とされたことかと推察いたします。imajouさんのインターネットでのいくつもの活動は、多くの方にかなり励みになっているはずです。どうかお元気でやり続けてくださいね。
 私はimajouさんとお会いしたいなという気持でずっときていましたが、今年こそなんとか実現したいなと思っています。
 私はですね、ニフティの「戦前戦中フォーラム」で2度目のオフ会のときに、靖国神社へ行きましたときに、実に驚いたことがあるのですよ。私は遊就館にて、滂沱として涙を流していました。でもその私の涙を不思儀に見ていた人たちがいます。それは若い人ならその私の涙に対して、「なんか判らないなあ」という気持は少しは判るのですが、ちょうど昭和一けたの方たちに何人かいたのです。
 私のようないわば、彼等が嫌うはずの「全共闘」(私は全共闘だけではなく、その前の三派時代の活動家でもあります)が、なぜあんなに涙を流すのだという大きな疑問でしょう。そして彼等は、靖国神社が嫌いでした。
 でも、私は靖国神社遊就館で私が流す涙は、もうこらえきれない私の本当の涙です。

 私の父は、私が東大闘争の69年1月18・19日の闘いで、逮捕起訴されたときに、実によく闘ってくれました。私の勾留されていた府中刑務所だけではなく、他の刑務所・拘置所にも行きまして、すべて他の家族会の仲間と一緒になって激しく闘いました。だから、私の父は、いわゆる三派の中で、中核派と社青同解放派が激しく殴り合ったり、ML派も出てきてまた殴りあったりするのをよく見てきていまして、実に面白くて気に入ったようです。でも私の父が気にいらなかったのは、この靖国神社のことです。靖国神社に対する三派全学連の姿勢です。靖国神社には、その当時も私の父は戦友たちといつも参拝していたものです。
 その私の父の思いは、私も同じです。

 あ、とにかく、今年こそimajouさんにお会いしたい。この思いでいっぱいです。

続きを読む

a447f787.jpg

 ぼくがもし小泉純一郎みたいな立場の政治家だったとして、たとえば外国から靖国神社へ行くのは外交の妨げですなんていわれたら、冗談はよせやいと一言のもとにいうところです。そんなこといまさら言えた義理かというと思いますね。ヨーロッパとかアメリカとか、自分たちは植民地をさんざん作っておいて、何で日本だけがいけないんだ、しかもこっちは大東亜戦争の名目はついていたんだから、そういうことをいうのはおかしいと、ぼくだったらいうと思います。政府の命令と主導で大勢引き連れていくのなら問題だけど、一人で御参りして帰ってきてどこが悪いんだって、そんなことは仮に悪くたって、お前のところに言われる筋合いじゃないっていいます。(『生涯現役』2006.11.20洋泉社第ニ章「老いのことば」)

 これは実に気持いいことを、気持いい言葉で言ってくれています。私はもう大昔から思っていたことです。なぜこれだけのことを、日本の政治家及び各知識人たちは言いきれないのか。なぜ自分たちの父親母親たちが、何か卑劣なことをしでかしたようなことを思い込んでいるのか。私にはどうしても理解できないことだった。今こうして、吉本さんの言葉を読むと私の父が笑顔で私を見てくれている気がしています。

続きを読む

d3d4a301.jpg

 二つのUPに続けて、昨日はそのあと靖国神社のそばのクライアントから、私がいつもいく理髪店に行きました。そのときにもタクシーの運転手さんとお話しました。また最初は街路樹の銀杏のお話でした。でもそんなに長い時間じゃないので、あまり話せなかったなあ。
 そういえば、昨日は南北線の市ヶ谷駅から靖国神社そばの会社へいくのに、靖国神社をぬけました。遊就館って大きいのですね。
 それから法政大学を横目に見たのもひさしぶりでした。たしか1968年に来たものでしたね。それから今思い出せば、1972年の法政祭にも来ていたな。埼大のむつめ祭とはあまりに違う雰囲気なので、驚いたものでした。
 それから理髪店に行きまして、私の今住んでいる王子が、「どうして、あんなに床屋が多いのか?」なんて話をしました。
 あ、今思い出しました。そこで何かの券をもらって、ガラガラやったら、ストローをもらったのだ。普段なら、どこかで誰かにあげちゃうのですが、「あ、もうすぐ孫が生まれるんだ、これは喜ぶぞ」と手に持って、しばらくしてなくしてはいけないと鞄に入れました。
 でも今になって気がついているのです。いいわけすると、パソコン等々をいれるところと別なところだったからなのです(でもそれで、また鞄の他の箇所も見ましたら、また別なものが出てきました。少々驚くよなあ)。
 それで床屋さんが、年内にもう一度こないとだめだというのですが、どうしようかなあ。

 そしてそのあと、私は谷中の浅野で飲んでいたのですた。また思い出したのですが、私のとなりに着物姿の綺麗なひとがいたなあ。あ、それから外人の女性(たしかメキシコ人だったかな。でも思えばどうみても白人だったなあ)も来たなあ。とにかく、「これで終りね」(私はビール一本とお酒4本しか飲めません)と言われて帰ったのです。
 あ、また思い出した。マスターと映画の話をしていましたね。キムタクの「武士の一分」(山田洋次監督)がとてもいいそうです。私も必ず見ないとなりませんね。
 でも今こうしてブログを書いたから、とてもいくつものことを思い出しています。
 思い出せば、私は酒の席でたくさんのことをお喋りしているんだなあ

 これから外出して、いくつものことをやります。秋葉原歩いて、本屋行って、それから夕方プロジェクト猪の忘年会に出ます。
 来週は浦和会です。
 もう、とにかく量は飲まないことを誓う私です。

続きを読む

11ecf3d2.jpg きのう靖国神社前から渋谷までタクシーに乗りました。運転手さんは、私よりも10歳くらい上の方でした。
 それで何故か眼鏡の話になりました。彼は眼鏡を二つ持っているが、その眼鏡を作ってくれた店がタクシー会社から遠くなって困っているという話から始まりました。
 それで思い出したのですが、私も眼鏡を始めて作ったのは中学生のときでした。でもあれはいつどこでなくしたのかな。
 それで、今またきゅうに思い出しました。たしか15年くらい前にも、眼鏡を御茶ノ水で作りました。あれはどうしたのかな。どっか探せば出てくるかなあ。
 私は目が悪くなってから、黒板の文字は一切ノートをとらなくなりましたから、特別困ったことはありません。
 でもでも、今気がつきました。あの運転手さんが言っていたのは、老眼のことなんですね。あ、そうか。
 でも「東京の道は綺麗ですね」と周りの銀杏を見ながら話していました。銀杏は音をたてるように葉を落としていました。
 続きを読む

↑このページのトップヘ