将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:高師直

15021920
 今朝は「周の掲示板」に高師直(こうのもろなお)を載せました。次に兄の高師泰(こうのもろやす、兄だとされています)を載せようと思ったのですが、インターネット上に高師泰の画像はない、少ないのですね。でもあとでなんとかUPしますが。

X12120413  私が2012年12月8日のポメラに書きました「京都二条河原の落書」をここに書いて行きます。
 なお私は

私はこの人物が好きなのですね。京都二条河原の落書とはこの人物を詠っています。

X12120415と言っていますが、この落書は決して高師直をさして言っていいるわけではありません。ただ、どうしても私はこの時代というと、この高師直を思い浮かべてしまうのです。
 その高師直が足利直義に打たれてしまうのは、なんだか悔しいです。いえ、私は足利直義も好きなのですがね。

 この落書は以下の通りです。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)

器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク モルル人ナキ決断所
キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ
賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ
巧ナリケル詐(いつわり)ハ ヲロカナルニヤヲトルラム

為中美物(いなかびぶつ)ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツヽ 気色メキタル京侍
タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好(いろごのみ) イクソハクソヤ数不知(しれず) 内裏ヲカミト名付タル
人ノ妻鞆(めども)ノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ
尾羽ヲレユカムエセ小鷹 手コトニ誰モスエタレト 鳥トル事ハ更ニナシ
鉛作ノオホ刀 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス

ハサラ扇ノ五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖
日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕
下衆上臈ノキハモナク 大口(おおぐち)ニキル美精好(びせいごう)

鎧直垂猶不捨(すてず) 弓モ引ヱヌ犬追物
落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ
遍(あまねく)ハヤル小笠懸 事新キ風情也

京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌
在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ
譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也

犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也
茶香十炷(ちゃこうじっしゅ)ノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス

町コトニ立篝屋(かがりや)ハ 荒涼五間板三枚
幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ
諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ
去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ
適(たまたま)ノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ

非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ
花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス
四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル
朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ
サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ

天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル
京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ

11070803  この人物は生年月日は分かっていません。亡くなったのは、1351年3月24日(正平6年/観応2年2月26日)と言われています。
 この画像は、長年足利尊氏だといわれてきました。しかし今では高師直だと言われています。実際に、この像の真上には尊氏の息子の義詮が花押(かおう)が記してあり、自分の父親の像に上には、記さないので、これは尊氏ではありません。だが、かなりな人物であるわけで、今では高師直か、その息子ではないかと言われています。私はこの絵は昔から好きでしたが、やはり高師直であろうと思っています。
 それでは尊氏といえば、今まで平重盛の像と言われていた次の像です。11070804昨日書いた、足利直義の像と一緒に兄弟で並んでいるわけです。
「この頃都に流行るもの・・・」という「二条河原の落書」がこのとき都に書かれました。この落書の世相がこの高師直の時代だと思われます。
 また『仮名手本忠臣蔵』は、実際の江戸時代の元禄の時代ではなく、この時代になっており、浅野内匠頭長矩が塩冶判官、吉良上野介義央を高師直としています。ただ、このことはまた別に書いていく気でいます。
 ただ私には、この最初の像に見られるような高師直が好きであり、この時代を自分の思うまま駆けていたという気持ちがするのです。(2011.07.09)

11070802 この人の生涯は、1306〜1352年(正平7年/文和元年2月26日)でした。足利貞氏の三男でした。兄尊氏とは、同じ母親であり、実に仲のいい兄弟でした。
 だが、高師直・師泰兄弟と対立することで、兄尊氏とも対立することになり、高師直・師泰兄弟を破り殺害することになりましたが、やがて兄尊氏に毒殺される(ただし、これは『太平記』の記述)ことになります。
 この人のことを評価するのは、難しいなと思います。何といったらいいのか迷ってしまうのですね。
 それとここの掲げた像ですが、この像の解説にも次のようにあります。

神護寺三像伝源頼朝像従来、源頼朝像とされてきたが、近年、直義像とする説が提示され有力となっている

 以下も読んでみてください。

  源頼朝像 沈黙の肖像画

  どうも私たちが今まで抱いてきた「常識(みたいなもの)」はけっこう違うことが多くなっているようです。(2011.07.08)

   Wednesday, May 23, 2001 9:34 PM
「Re: 将門Webマガジン第40号」

11070205いつも読み応えのあるメルマガをありがとうございます。また、 先日はお手数おかけし、すいませんでした。
 最近は、リンクス情報から、いろんなサイトへおじゃましてみるのが楽しくて、歴史の本もろくに読まず、パソコンの前にくぎ付けでした。
 個人事業主さんの掲示板に周さんの書きこみを発見、その通りだと思いました。
 日本史は、今ようやく南北朝にたどり着いたところ、しかも古墳時代をとばしています。とりあえず6月中に明治時代まで行って、7月からもう一度復習しようと決めました。
 日本史の本を読んでいると、どうしても中国の歴史の本も読まないといけない気がしてきて、ほかの本にも手を出してしまい寄り道ばっかりしています。
 また、メルマガの中で周さんが、ギリシャ悲劇についてお書きになっていたのを見て、ギリシャ神話など読みたくなったりしています。
 なんだか、つまらないことばかり書きました。
インターネットをはじめてまもなく、周さんのサイトに出会えたのは幸運だったなと、最近思っているところです。夏になってもこたつのこっちー


   Thursday, May 31, 2001 4:38 AM
「Re: 将門Webマガジン第40号」

 いつもメールいただきまして、その返事が遅くなり申し訳ありません。

 最近は、リンクス情報から、いろんなサイトへおじゃましてみるのが楽しくて、歴史の本もろくに読まず、パソコンの前にくぎ付けでした。
 個人事業主さんの掲示板に周さんの書きこみを発見、その通りだと思いました。

 いくつもの掲示板でこたつのこっちーさんの書込みを見ることができるのは嬉しいです。

 日本史は、今ようやく南北朝にたどり着いたところ、しかも古墳時代をとばしています。とりあえず6月中に明治時代まで行って、7月からもう一度復習しようと決めました。

 もう南北朝は読まれたでしょうね。あの「太平記の世界」で、どの人物が好きですか。私はもうなんと言っても、あの時代はすべての人物が好きになるのですね。
 例えばですね、足利尊氏はその複雑な性格含めて好きですし、ただ真面目な直義も好きです。いや、日本の歴史では最高の嫌われものであろう高師直も好きです。そして愚直とも思える新田義貞も好きです。北畠顕家も当然好きですし、いやいや、例えばもっと時代が下って活躍する細川頼之も好きです。足利直冬の最後の心を思うと、とても悲しくなりますが、彼にもひかれます。
 いや、嫌いだといえば、太平記で活躍するわけではないですか、吉田兼好が嫌いですかね。

 日本史の本を読んでいると、どうしても中国の歴史の本も読まないといけない気がしてきて、ほかの本にも手を出してしまい寄り道ばっかりしています。

 そうです。南北朝の太平記は中国の「三国志演義」なのですね。尊氏は曹操であり、楠正成は諸葛孔明なのです。
 中国の歴史関係では、一番最初に読むべきは「十八史略」だと思います。そしてやはり「史記」ですかね。「史記」はやはり「本紀」や「世家篇」というのは若干退屈なのですが、それを我慢して読んでいきますと、「列伝」という、驚くほど面白い世界になります。
 私は宮城谷昌光という作家が好きです。ただし、彼の小説を読むのには、ある程度中国の歴史と古典を読まれてからがいいと思うんです。彼の小説を読むと驚いちゃうんですよ。
 例えば、帝舜のことをかいた小説があるのですが、そこに舜の弟で象という人物がいます。この人物のことは、やはり最初は「十八史略」なりで読んでからでないと、この宮城谷昌光という人のすごさが判りません。あるいはその小説にかすかに背景に出てくる、堯という帝王の画き方にも、私は驚いてしまうわけなのですが、それもこれも、まずは最初に常識としての人物像を持つべきだと私は思うのですね。

 また、メルマガの中で周さんが、ギリシャ悲劇についてお書きになっていたのを見て、ギリシャ神話など読みたくなったりしています。

 たしかに、ギリシアの神話および英雄伝説というのは、実に面白いですね。これまた基本的なことを読んでおきますと、さまざまな作家の解釈に実に興味が深まると思います。
 例えば、ギリシアでは、英雄としてヘラクレスが最強の男であり、人気があるはずと考えるわけですが、実はそう簡単ではありません。ヘラクレスの親友でもあり、若いときには、あのトロイア戦争の原因になるヘレネを誘拐したこともあるテーセウスという英雄が人気があるというか、だんだん人気が出てくるのです。それは、ヘラクレスは彼の死後、彼の子孫たちが、ペロポネソス半島を攻略したことになっており、これは歴史上ではアカイア人たちの土地を奪ったドーリス人が作ったスパルタ国になるわけなのですが、このことがペロポネソス戦争におけるイオニア人だったアテナイ人には、気にいらなかったことなのでしょう。テーセウスは一貫としてアテナイの英雄です。
 とにかく、やっぱりさまざまに読んでいかないとならないなあと私も今確認しているところです。萩原周二

   Saturday, June 02, 2001 9:03 PM
「Re: 将門Webマガジン第40号」

お忙しい中、お返事ありがとうございました。
 日本史の中では、いままでのところ、ヒトがやまあいでこじんまりと暮らしているような縄文時代がすきだったのです。
 南北朝や戦国時代には、ヒトは狡猾になってゆくばかりです。戦をふせぐためにも、自分が生きるためにも、人の裏をかき、身内を犠牲にしなければならないです。でも、周さんのメールを読んでいるうちに、だれしも好きでそんな時代に生まれたわけじゃないし、みんなその中でなんとか一生懸命やった人たちばかりなんだ、と思えるようになりました。

 もう南北朝は読まれたでしょうね。あの「太平記の世界」で、どの人物が好きですか。私はもうなんと言っても、あの時代はすべての人物が好きになるのですね。
 例えばですね、足利尊氏はその複雑な性格含めて好きですし、ただ真面目な直義も好きです。いや、日本の歴史では最高の嫌われものであろう高師直も好きです。そして愚直とも思える新田義貞も好きです。北畠顕家も当然好きですし、いやいや、例えばもっと時代が下って活躍する細川頼之も好きです。足利直冬の最後の心を思うと、とても悲しくなりますが、彼にもひかれます。 いや、嫌いだといえば、太平記で活躍するわけではないですか、吉田兼好が嫌いですかね。

↑を読んで、歴史上の人物の中で誰がすきかなんて思ったことがなかったので、ショック。そういう風に読めば 、すごくおもしろいでしょうね。 いま、信長とか秀吉が出てきたところまでしか読んでないので、引き返してもう一回読んで見ます。
 好きな人はいないけど、後醍醐天皇は、立場をわきまえずわがままな人だと思うので、もし今生きてても出会いたくない人です。
 足利兄弟は、お兄ちゃんの方が戦に強くて、弟はかしこいけど戦がだめだったみたいですね。あの厳しい時代に、長年、二人で一緒に仕事していくのはきつかっただろうな。血のつながり以上のものがないと、できないことですね。 高師直という人は、わかりません。(いーかげんな読み方してるのが、はずかしい)とりあえず、もう一回読んでみます。

   Saturday, June 09, 2001 1:28 AM
「遅くなりました」

 返事を書かないでいるうちに次のメールをいただいてしまいました。

 南北朝や戦国時代には、ヒトは狡猾になってゆくばかりです。戦をふせぐためにも、自分が生きるためにも、人の裏をかき、身内を犠牲にしなければならないです。でも、周さんのメールを読んでいるうちに、だれしも好きでそんな時代に生まれたわけじゃないし、みんなその中でなんとか一生懸命やった人たちばかりなんだ、と思えるようになりました。

 まったくそう思いますよ。だから、私は南北朝の時代でも、尊氏も直義も高師直も好きなのです。

 好きな人はいないけど、後醍醐天皇は、立場をわきまえずわがままな人だと思うので、もし今生きてても出会いたくない人です。

 これは仕方ないでしょうね。私も好きになれません。

 足利兄弟は、お兄ちゃんの方が戦に強くて、弟はかしこいけど戦がだめだったみたいですね。あの厳しい時代に、長年、二人で一緒に仕事していくのはきつかっただろうな。血のつながり以上のものがないと、できないことですね。

 私は以下で次のように書きました。

   堺屋太一「豊臣秀長」

 日本の歴史で、政権をとった兄と弟といったらたくさん出てくると思います。いまざっと思い出してみました。

  天智天皇と天武天皇
  源頼朝と義経
  足利尊氏と直義

まだまだいるでしょうが、上の二組はそれほど親しい肉親といった感じはなかったと思われますが、尊氏と直義といったら、実に仲のいい兄弟でした。だが、最後に兄は弟を毒殺してしまいます。直義が保守的な鎌倉武士団にどうしても担ぎあげられてしまい、兄の補佐役などに留まることなどできなかったからでしょう。

 この二人の兄弟、および直冬のことはときどき思い出しては、ため息をついてしまいます。
 でも南北朝は、この他さまざまな人物が生き生きとしていて好きです。例えば今川範氏や小弐頼尚や、もちろん菊地武時(いちおうみな九州での武将をあげました)も、みなそれぞれ魅力があります。ちょうどやはり、「三国志」なんだよな(いや、正確には「三国志演義」かな)なんて思います。すいません。どうでもいいことを。また。萩原周二
(第46号 2001.07.02)

20170410012017041002    小楠公といわれる楠木正行のことを詩った元田東野の詩です。楠帯刀(くすのきたてわき)とは正行のことです。

    芳山楠帶刀歌            元田東野(永孚)
  乃父之訓銘干骨        乃父の訓(註1)は骨に銘じ
  先皇之詔耳猶熱        先皇の詔(註2)は耳猶熱す
  十年蘊結熱血腸        十年蘊結(うんけつ)す熱血の腸
  今日直向賊鋒裂        今日直ちに賊鋒に向って裂く
  想辭至尊重來茲        想う至尊を辞して(註3)重ねて茲に来り(註4)
  再拜俯伏垂血涙        再拝俯伏(註5)して血涙垂る
  同志百四十三人        同志百四十三人(註6)
  表志三十一字詞        志を表す三十一字(註7)の詞(ことば)
  以鏃代筆和涙揮        鏃を以って筆に代え涙に和して揮(ふる)う(註8)
  鋩迸板面光陸離     鋩(きっさき)は板面に迸(ほとばし)って光陸離たり
  北望四條賊氛黒        北のかた四条を望めば賊氛(ぞくふん)黒し
  賊將誰也高師直        賊将は誰ぞや高師直
  不獲渠頭授臣頭        渠(かれ)の頭を獲ずんば臣が頭を授けん
  皇天后土鑑吾臆        皇天后土(こうてんこうど)吾が臆(おもい)を鑑む
  成敗天也不可言        成敗は天なり言う可からず
  一氣磅薄萬古存        一気磅薄万古に存す
  君不見芳野廟板舊鑿痕  君見ずや芳野廟板(註9)旧鑿の痕(註10)
  至今生活忠烈魂        今に至まで生活す忠烈の魂

  (註1)乃父之訓(だいふのおしえ)   父楠木正成が湊川の合戦に向うとき
                  に桜井の駅にて正行に教えさとした教訓。そのとき正行は
                  まだ十一歳であり、父は正行に河内へ帰って後日を期すこ
                  とを遺訓とした。
  (註2)先皇之詔(せんのうのみことのり)  後醍醐天皇崩御の際の詔。
  (註3)辞至尊  後村上天皇にお暇乞いを言上したこと。正行と弟正時
                以下一族打ち連ねて、芳野の皇居に参じて天皇に自らの
                決意を述べ、また天皇から「朕汝をもって股肱とす。慎ん
                で命を全うすべし」という言葉をもらい、正行は「只是最後
                の参内なり」と退出した。
  (註4)重来茲(かさねてここにきたり)  後村上天皇にお会いしたあと後
         醍醐天皇の御陵に参拝したこと。この御陵は如意輪寺の本堂
         のうしろにある。
(註5)再拜俯伏(さいはいふふく)  御陵の前にぬかずき再拝したこと。
  (註6)百四十三人  正行・正時以下、今度の戦に一歩も引かず一緒に討
                      死しようと決意した一族一四三人。
  (註7)三十一字  三十一文字の和歌の。「返らじと兼て思えば梓弓なき数
          に入る名をぞとゞむる」という正行の辞世。
  (註8)以鏃代筆和涙揮  鏃(やじり)を筆の代わりにして如意輪堂の壁板
に一四三名の名前を書き連ね、さらに正行の辞世の
歌も涙とともに書き留めた。
  (註9)芳野廟板(よしのびょうはん)  如意輪寺の扉。
  (註10)旧鑿痕(きゅうさくのあと) 正行が鏃でほりつけた歌と一四三人の
                   姓名。

  父正成の桜井駅頭の遺訓は骨に銘じて忘れられない、
  先帝後醍醐天皇の御詔は、今も猶我が耳に熱気を帯びている。
  その時以来十年積り重ねた熱血は腸に結ばれてきたが、
  今日こそそれを賊の先鋒に向って破裂するときである。
  想えば後村上天皇に拝謁し、御暇乞いをして重ねて御陵の前に来て、再
  拝してぬかずけば、さすがに血涙が流れる。
  同心の百四十三人は、
  いずれも決死の覚悟なれば、「かえらじと」の三十一文字に志を述べる。
  鏃を以て筆に変えて、涙と共にこれを如意輪堂の扉に書き記し、合わせ
  てその姓名を書き残す。
  その切先は板面にほとばしって、きらりきらりと輝いた。
  北の方四条畷を望めば、賊の勢い盛んであたりも暗く妖気が漂っている。
  その賊将は誰かといえば、高師直である。
  よし、彼の首を挙げることが出来なかったら、この正行の首を授けるまで
  のこと。
  天地の神々もこの正行の覚悟をご覧あれ。
  戦の勝敗は天運であり、議論の限りではない。
  (こうして、正行は敵陣めがけて真っ直ぐ突入し、師直にあとわずかと迫り
  ながらも、衆寡敵せず、最後は正行・正時で差し違えて死ぬ)
  だが、この正行小楠公の忠節の気は天地に満ち渡り、永久に存在している。
  皆さんもご存知のように、芳野の如意輪堂の扉に刻まれた鏃の痕には、
  今もってこの小楠公の忠烈の魂が生きているのである。

10112804  楠木正行は十一歳のとき父正成と、桜木の駅で別れました。死を前にした正成はそのときに、今はただ河内に帰ってやがて天皇の為に働くことを命じます。ここで一緒に死んでしまっては天下は足利尊氏の思うままになってしまうとさとします。正行はただこの父正成の遺訓を守って、いまやっと一族あげて芳野へ挨拶にきて、それから北に向おうとします。
  だがこのときに、南朝方の中心人物である北畠親房は、我が子顕家(註11)の例をひきながら、顕家のようにどうしてすぐさま北へ向って進軍しないのだと責めます。正行は、ただ後村上天皇にお会いしたいことと、後醍醐天皇の御陵に参拝したいだけなのです。

  (註11)北畠顕家  実に天才的な戦人の公家の貴公子であったかと思い
                  ます。奥州から西上し、足利尊氏・直義の野望を打ち砕き、
                  九州まで敗走させていますが、二度目に再び西上したとき
                  に、高師直の為に戦死しています。ただ彼は極めて真面目
                  な人であり、この死の前にかなり後醍醐帝ならびに南朝公
                  家方のやっていることを諌める文を残しています。

  はっきり言って、これほどまでに一族すべて南朝に尽くしているのに、北畠親房の言葉はあんまりだったのではないでしょうか。正行は一族総て死を決して、鏃で如意輪寺本堂の壁板に、一四三名の姓名を書き連ね、

    かえらじとかねて思えば梓弓
      なき数に入る名をぞとゞむる

という歌を一首書き留め、各々鬢髪を切って仏殿に投げ入れ、その日のうちに芳野山を打ち出て、四条畷の高師直、師泰の敵陣に真っ直ぐ討入ました。
  正行軍は三千の軍勢に対して、師直師泰は六万余騎の大軍だったといいます。師直は足利軍きっての猛将であり、戦上手でした。だがその師直軍も散々切り立てられ、師直の身辺にまで正行は迫りますが、師直は影武者を立て逃げおおせ、ついに衆寡敵せず、正行軍は全員が討死あるいは自刃します。

10112805  太平記によれば、この四条畷の戦いでは、実は南朝方は、それこそ師直軍にも負けないくらいの人数がまわりでこの戦を見ています。この連中を「野伏り(のぶせり)」といいます。大宮人(おおみやびと)であり、お公家さんが指揮する連中が師直の大軍に囲まれ必死に戦っている正行軍を高いところから黙ってみているのです。思えば大変に腹立たしいことです。私はどの時代でも今でもこの野伏りのような連中が一番憎い相手です。
  この四条畷に勝利した高師直・師泰は余勢をかって、さらに吉野の行宮を攻め、火を放ってこれを焼払います。私はなんだか「ざまあみろ」というばかりの気持になってしまいます。
  この高師直という人は日本の歴史の中でも一、二位を争うほどの嫌われる人物ではないでしょうか。「仮名手本忠臣蔵」では、吉良上野介義央の役はこの師直(ちなみに浅野匠守長矩は塩谷判官である)になっているわけです。だが私はこの師直という人物が好きです。足利尊氏のように複雑な性格でもなく、直義のように妙に真面目で保守的ではありません。ただただ己の思うままに好きに生きた気がします。ただ好きに生きたといっても、佐々木道誉とは違い(道誉も面白いけどね)、それだけの暴れ方を見事に歴史に露出してくれた気がしています。

  正行はこの師直をなんとしても討ち取りたかったでしょうが、その正行の辛い悔しい思いを汲むことができたのは、実はこの敵であった師直ではないのかな(これは違うよという意見が多いでしょうが)と、私は思ってしまうのです。
  私はこの詩を、師直軍の大軍の中へ突入して消えていく正行軍と、それを高いところから見ている野伏りとの対比で見ているのです。

  それから、私はこの作者の元田永孚(ながざね、東野は号)はあまり好きになれません。いくつも詩を作っているのですが、さすが朱子学者だけあって、真面目で正当な内容の詩ばかりで、私のような極端を好む過激派にはどうにも相容れないものを感じてしまいます(註12)。

  (註12)例えば、元田東野には「中庸」という詩があり、男子は極端に走る
        のではなく、須らく中庸を択ぶべしという内容です。これでは、私が
        好きになれるわけがないのです。

  その中でも、この正行に関する詩だけは、正行の悲しすぎるまでの心を感じとることができて、好きになれるものです。

ただこのごろ何度かこの詩を読み返してみますと、いくつものことが浮かんできました。元田東野は明治十年十一月二一日宮中の観菊の宴にて、この詩を明治天皇の前で朗吟したということです。自らは北朝系の天皇でありながら、南朝をこそ正統と断じた明治天皇には、この小楠公正行の心はどのように訴えてきたものがあったのでしょうか。
また明治10年といえば、西南の役のあったときです。10月24日西郷南洲は鹿児島城山にて、別府晋介の介錯で亡くなりました。

秋風埋骨故郷山(西道仙「城山」の結句)

元田東野翁は肥後熊本の生まれ(上の「城山」の作者西道仙も熊本の方です)。西郷軍には彼の故郷の子弟もたくさん参加していました。また明治天皇も西郷隆盛のことが好きでした。そんなときに詠われた悲劇の小楠公の姿を、天皇はどのような思いで聞かれたことでしょうか。おそらくは、元田東野が小楠公に仮託したのではないかと思える南洲公に対して、天皇は明治22年2月21日の憲法発布にあたり、その罪を赦して正三位を追贈されることとなりました。なんだか、そのときにほっとした元田東野翁の気持が判るような気がしてきました。 (2005年の秋に書いていました)

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