将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:鶴丸高校

12073005 加山雄三さんが歩かれるのを見て、いくつも思い出していました。

2012/07/31 08:03「梅ちゃん先生」を見ています。
2012/07/31 10:13加山雄三さんが桜木町を歩いているところを見ています。私も高校は最初は鹿児島の鶴丸高校に入ったのでしたが、私以外は中学3年の三学期の終わりに横浜に引っ越しすることになり、その時期では、高校入試の時でしたが、もう転校することもできずに、鶴丸高校に入って原良町に下宿しました。実はこの時期はけっこう大変でしたね。
 でも母と父が横浜東高校の転入試験を見つけてくれて、けっこうな倍率でしたが、どうやら合格しました。でも私は希望ヶ丘高校というところの転入試験もあり、そちらばかりを考えていたのですが、東高校の方が先であり、ここに合格すると、もう他は受験するのを止めさせられました。ちょうど鶴丸高校出身の先生(この先生は体育の教官でした)と面会をしており、「他へ行ったら、あの先生に悪いじゃないか」というものでした。
12073009 この東高校は鶴見区寺尾というところに新校舎を建てたのですが、それは2年生からで、一年生の2学期からは私は桜木町の横浜体育館のそばにあった夜間高校に行きました(駅は桜木町の一つ先の関内でした)。昼は校舎が空いていたわけです。
 この頃は教科書は無償ではなく、教科書一冊づつを販売元に買いに行ったものでした。住んでいたのは、港北区の篠原というところで、普段は東横線の白楽という駅でしたが、この教科書を買いに市電で行ったものでした。でもその行った街の名前を今は忘れてしまいました。
2012/07/31 16:40日経新聞の今日の夕刊の「こころの玉手箱」を読みました。真野響子さんの連載の2回目で、『大先輩への無礼 恥ずかしく 笠智衆さんからの手紙』」です。

 かって笠さんの芝居を「棒ぜりふ」と評して物議をかもした人がいましたが、お門違いだ。出身地の熊本弁を標準語に直そうとすると、どうしても平たんになる。私は熊本出身の作家、石牟礼道子さんが免疫学者の多田富雄さんと交わした往復書簡を基いした舞台に出演した経験があり、熊本弁の特徴がわかった。

12073010 これは私こそが恥なのです。なんだか私も分かってないのです。
 こうして読みまして、昨日の夕刊も取り出して読みました。

 私はこの鹿児島から横浜に来た頃教科書を買いに行った街を思い出して、とうとう思い出せました。最初は、横浜の市電をインターネットで見てみましたが、私の記憶にある町はどうしても分からないのです。
 でも必死に探しまして、私の記憶の街は以下でした。
 横浜西区藤棚なのです。インターネットのここの写真を見ていて、ここを思い出していたのです。もう街は変わりましたが(だって48年前のことですから)、何かが甦るのです。

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 1月1日の7:00に届いた破茶さんの『独楽吟のススメ』です。

「2012/1/1 【No.2143】わたしの独楽吟(どくらくぎん)」を読んでの周の感想。

 新年、明けましておめでとうございます。
今年も 気負わずのんびり 風の向くまま気の向くままに独楽吟を作り続けていくつもりです。よろしかったら、お付き合いください。皆様にとって 幸せ多い一年になりますように。今年もよろしくお願い申し上げます。

 私からも、この新年もよろしくお付き合いください。

たのしみは 恨みつらみを 喜びに 発送転換 元気になる時

 子供の頃から蛇年で、執念深いなどと言われてきましたが、この年、還暦も近づくこの年になってようやく、恨みは自分に何の利益ももたらさない事を体得しました。小人なのです。これからは 人生の実りの秋を大切に暮らして行こうと思う年の初めです。

 まだ還暦じゃないのね。思えば、私は鶴丸高校の1年のときは昭和39年のときです。そのときは原良町に下宿していたのでした。すぐに転校してしまいましたが。

たのしみは 家の近くの 温泉に ふらりと出掛け のんびりする時

 普段からのんびりしていますが、温泉はまたこれが“のーんびり”できるのです。きれいさっぱりのーんびり、近くに温泉があってうれしいことです。

 温泉は大好きです。私は温泉新聞という会社の新聞記者だったことがあるのですね。もうそれは遠い日々ですが。

2018101502  今「ちい散歩」を見ています。私は相鉄線もよく歩いたものなのです。
  思えば私は高校は鹿児島の鶴丸高校でしたが、横浜に引越していた家族を追いかけてきたのですが、転校受験するのが2校と聞いていたのですが、横浜東高校を受け、そこには受かると、「でももう一校あるじゃないか」と私は言ったものです。それが希望ヶ丘高校でしたが、でもそこはもう両親は、受験させてくれませんでした。
その高校が、この相鉄線沿線でした。 懐かしい思い11081708出ですね。

 横浜は私には懐かしい故郷の一つです。 思えば私にはいくつもの故郷があるのですね。
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11060601 六角橋商店街を見て、ただただ懐かしさを感じていました。

2011/06/06 07:49NHKで六角橋商店街を映しています。私の一家は鹿児島から横浜市港北区篠原町に引越てきました。ただ私だけはしばらく鹿児島にいました。鶴丸高校であの頃は簡単に転校なんかできないのです。
 横浜のこの商店街は私は好きでした。5、6年前にも、この商店街を歩いたものでした。実に懐かしいです。
2011/06/06 08:06「おひさま」がいいです。でも生徒たちの涙で私も涙になっています。
 この女優さんが街を歩いていても電車の中でもあちこちで目についてしまいます。
 でも生徒たちの思いでまた涙です。なんだか泣いてばかりいる私です。

 もう仕方ない私ですね。昨日はUPしていないのですね。だらしないなあ。

11050502  王子駅です。池袋まで行くのに、いつも田端経由で行きますが、本当は赤羽経由のほうが近いのかもしれないな。
  でもいつもこの路ですものね。 妻が身体の具合がよくないので、私がいくのです。いつも田端経由だなあ。これで行きます。 駒込駅のつつじが綺麗です。

  もうポメラを持たないようになりましたから、このIS01を上手く打てないとなりませんね。あと画像も考えないとなあ。
   ポメラは漢字辞書がよくないです。いくら使っても辞書が向上しません。だから嫌になってきました。それにポメラはそれ自体ではインターネットネットにつながりません。それをいわば「売り物」にしているようですが、私にはその気が知れません。
   でも私はあんな小さい機器だから、仕方ないよと思っていましたが、このIS01のほうがずっと小さいです。ずっと軽いです。それにこれはデジカメにもなるのです。 ただ、これでブログをUPするとき少し面倒です。いえ、私がまだなれていないのですね。

  思えば、これから行く東武練馬は、大昔Mが住んでいたなあ。彼女とは、鹿児島の甲東中学で同じ生徒会をやり、鶴丸高校も同じでしたね。それで彼女は大学が御茶ノ水大学でしたね。 

  義母との面会を終えて、今東武練馬駅のホームです。 電車に乗りました。 なかなか書いてばかりにもいかないな。日経新聞よまなくちゃあ。
  日経は読みました。やっぱり紙よりはいいなあ。

11050109 10月19日に「鶴丸高校第18回卒関東地区在住者同窓会」がありました。

 私ははじめての参加でして、実に39年ぶりに再会できました友人がいました。会場は以下の42階でした。

  東京ドームホテル

 ここで愉しい時間をすごしましたが、ここで午後6時から9時まで過ごしたあと、2次会ということで、以下の会場が用意されていました。

サウンドステージ&ダイニング アーティストカフェ|東京ドームホテル

 ただ私たちは、もう54、5歳のおじさん、おばさんばかりです。ホテルの係がここへ案内してくれるといいます。その人の言われる通りについていきました。だが、エレベーターがいっぱいで、ちょうど、その係の人と私含めて3人が最初エレベーターに乗りました。でも行き先は42階の上の43階です。「これなら、案内がなくても誰でもこれるよ」という思いでした。
 店に入りますと、ちょうど20人くらいの円卓が用意されており、窓の外はもう実に綺麗な夜景が見られます。「あ、これなら、もうすぐここに来る女性たちは喜んでくれるだろうな」と思いました。待っている時間に、「皆を待っているべきだ」という声もあったのですが、もう私は注文します。「ドライマティニを持ってきて」。
 それで私はトイレに立ちました。案内を請いますと、入り口のほうに行くように言われます。さらに、そこを出ますと、ちょうど入り口でワイヤレスマイクロフォンをつけた女性が、「ここですよ」とトイレに案内してくれました。 そしてすぐに戻ります。だがここで問題が起きました。さきほどの同じ女性が私を会場に入れてくれないのです。「予約がないとだめだ、誰の予約なんですか?」というばかりです。「鶴丸」の名前を出しても、「そんな予約はない」というばかりです。たぶん、どなたか個人名での予約だったのでしょう。私は、「さきほど2分前にあなたが私を案内してくれたばかりじゃないか」といいますが、彼女はまったく記憶がないようです。私は「すぐそこで仲間が待っているよ」と言っても認めません。もう私は頭に来まして、いっそ「すぐそこだよ」と中に入ろうとすると、それこそ身体で実力で止められます。「何故入れないのだ」「予約がないと駄目」という問答を続けていると、さらに体格のいい係が私のそばにやってきます。
 そのとき、ちょうど私が注文をしたボーイさんが、「お客さま、お待たせしました」と、ドライマティニのグラスを盆に乗せて私にほほえみかけてくれました。それで、「先ほど中に入って、そこで注文したのだから、こうしてそれが出てくるんだろう」と言いまして、中に入りました。しかし、先ほどの失礼な案内係は謝りにもきません。
 それで、でもとにかく皆が来るのを待っていました。でも待っても待ってもきません。3人だけです。ついに、1次会で最後までかたずけていた幹事の一人がきました。「あれ、みなはどうしたの?」。どうもこれはおかしいです。 かくして、そのグループの一人に電話します。みなは3階のある店に入っていました。彼らは大勢でぞろぞろ来たのですが、やはり入り口で「予約がないと駄目だ」「いや予約しているはずだ」「でもありません」という問答を繰り返し、中に入れないで、そちらへ向かったのです。
「いや、ちゃんと席を予約してあったのだから、また上がってこない?」という私たちの誘いに、「もうあんな不愉快な店には行きたくない」ということで、私たち4人のほうが3階に降りていきました。
 私は店の人間にはかなり怒りました。「なんで2分前に、あなた自身が案内した客の顔を忘れるんだ」「こんなに大勢で予約してあるんだから、すぐ判断できるはずだろう」「もうこのことは、ちゃんと自己批判しろよ」「まあ、私のホームページで書きますよ」と言ってきました。

 でも、どうしてこんな馬鹿なことが起きるのでしょうか。とてもいいロケーションにある素敵なホテルのレストランです。お客さんでいっぱいでした。でもなんで、お客をこんな不愉快な目にあわせるのでしょうか。
 何日かあとで、ある店で、このことを話しました。そうすると、そこのママがいうのです。「そういう店は、もうただただマニュアル通りにしか動かないのよ」「人気のある店だから、予約がある人しか入れないというマニュアルの通りにしか動けないのよ」。私もそうなんだろうな、と納得しました。 そしてそのマニュアルには、自分たちのミスは謝罪しないということになっているんでしょうね。
 私は自分のコンサルしている企業にも、個人にも、絶対にこうした姿勢は許しません。当たり前のことだと思いますよね。

92-11-16 00:55:38 TR通信・39
TR通信・39 学校に不満

11040518 私が中学生のときも、高校生のときも、こんな校則はなかった。私は中学は、鹿児島市立甲東中学、高校は鹿児島県立鶴丸高等学校と横浜市立東高等学校でした。どこもこんなことはなかった。
 学校生活もとくに楽しいわけでもないが、こんな形の不満はなかったように思う。とくに鶴丸高校というのは驚くほど自由であった。こんな楽しい空間があるものかと思っていたものでした。
 読んでいるとなにかもう学校の先生と生徒の関係というふうに思えない。どこかの収容所のような気がする。早く早くそこから出所することですね、なんていう感じを持ってしまう。なにかおかしいのだ。
 しかしもう何と書いたらよいのだろうとも思う。

この子の言っていることはみんな正しい。

 まったくその通りです。しかしこの学校の先生方はそうは思わないのだろうから、私とは全く逆なのだ。そうすると私とこの先生方とは、どちらが正しいのだろうか。

10090103 8月31日の23:18に届いていたHA茶さんの『独楽吟のススメ』です。

「2010/08/31 【No.2002】わたしの独楽吟(どくらくぎん)」を読んでの周の感想。

たのしみは 不自由という 賜物に ゆっくり行くしか 無いと知る時

体には自信があった私なのに、難聴が進み 働くのに不自由を覚えるようになりました。伝音難聴ではなく感音難聴なので 補聴器も今一。ゆっくりならば 生きていけます。笑顔を作って行けたらいいなぁ!

 そうなのでしたね。でもHA茶さんは、それを少しも感じさせない方ですよ。

たのしみは 夫と二人 ふるさとの 山と川とを 訪ねてみる時

鹿児島を離れて40年。ゆっくり行くチャンスがありませんでした。仕事を辞めたら一緒に行ってみたいものです。

 鹿児島は私も住んでいました。思えば、私は鶴丸高校に通ったのは原良町に下宿していたのでしたね。もう遠い世界ですが、懐かしく感じます。

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 思い出せば、私はいわゆる「漢文」の授業というのは、ほとんどないに等しかったと思います。鶴丸高校の1年のときに、出会った先生の漢文は好きでしたが、4月この先生はすぐに入院されてしまいました。退院された6月終わりには、私は転校してしまいました。
 横浜東高校というところでは、大学受験に漢文の科目があるのが私だけだというので、古文に振り替えられていたものでした。
 埼玉大学の一般教養での漢文の授業の先生は、偶然にも鶴丸高校の卒業生で私とはけっこう親しくお話できたのですが(先生の研究室で二人でお話したことがあります)、でもすぐに私は烈しい学生運動の中で、それどころではありませんでした。いやそのうちに私はムショに勾留される身になっていました。
 だから、いつも自分で学ぶしかなかったものなのです。
 今こうして、なんとか私のブログにUPするのに、必死にやっているところで、そしてそれは私には嬉しいことなのです。
 そして私は高校1年で知ったこの陶淵明を、こうして今なんとか知っているつもりです。彼の詩を知るたびに、私がだんだんこの陶淵明のことが好きになっていくことが不思儀なほど私には判っていくのです。

   雑詩 其三  陶淵明
  榮華難久居 栄華(註1)は 久しく居(お)り難く、
  盛衰不可量 盛衰は 量る可(べ)からず。
  昔爲三春渠 昔は 三春の渠(註2)為(た)りし、
  今作秋蓮房 今は 秋の蓮房(註3)と作(な)る。
  嚴霜結野草 厳霜(げんそう) 野草に結ぶも、
  枯悴未遽央 枯悴(註4) 未だ 遽(にはか)には央(つ)きず。
  日月還復周 日月 還(な)ほ 復(また)周(しゅう)すれど、
  我去不再陽 我去れば 再(ふた)たび陽(よう)ならず。
  眷眷往昔時 眷眷(註5)たり 往昔(おうせき)の時、
  憶此斷人腸 此を 憶いて 人の腸を断(註6)たしむ。

  (註1)栄華(えいが) 草木が栄え茂ること。
  (註2)渠(きょ) 蓮の花。この渠という字ではありません。
  (註3)蓮房(れんぼう) 蓮の実の入っている花托(ふさ)。
  (註4)枯悴(こすい) 枯れ衰える。
  (註5)眷眷(けんけん) 深く顧みるさま。
  (註6)断人腸(ひとのはらわたをたつ) 人に辛い思いをさせる。

  草木が栄えようなことはいつまでも続かず、
  盛んになったり衰えたりすることは推し量ることはできない。
  昔は春の三か月間咲いた蓮の花だったが、
  今は秋の蓮の実の入っている花托(ふさ)となっている。
  厳しい冬の霜が野草の上に降りてくるが、
  枯れ衰えても今もまだ尽き果てるようにはなっていない。
  歳月の流れはなおもまた周りめぐるけれど、
  私が死んでしまったら、二度と甦えることはないのだ。
  そのことを思えば、過ぎ去った日々を思い出す、
  こうして思えば、私は腸(はらわた)を絶つような思いになってしまうのだ。

 こうして陶淵明の詩を読み続けて、もうそのたくさんの詩に私はもういささか驚くばかりです。私はこうしてパソコンで打つことができます。でも陶淵明の時代には、何で書いていたのでしょうか。おそらくは、最初は詩句を泥の上で書くようなことがあったものなのでしょう。そして出来上がったなと思えるときに、木片等に書いたものなのでしょうか。
 だから、こうしてパソコンで、楽にやれることが私には嬉しいし、そして未熟な私、不勉強な私が羞しいものです。

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 私の中学の友人の 長春有情 をこのブログのサイドバーの「将門のブックマーク」にリンクしました。
 これはブログではなく掲示板です。だから誰でも書き込めます。もう丸1年半くらい前に知りました。きのうひさしぶりに読んでみましたものです。
 私は中学は鹿児島市立甲東中学校という学校です。小学校6年のときに7月に名古屋の北区六郷小学校から引越で、鹿児島山下小学校へ転校しました。
 そして高校は、鹿児島県立鶴丸高校に入学し、ただし両親と弟は横浜に引越(兄は東京の大学へ行ってた)しましたので、私は鹿児島市の原良町というところに下宿していました。
 私の兄は、中学は秋田・札幌・名古屋と3校で、弟は鹿児島・横浜と2校でしたが、私だけは鹿児島甲東中学だけですごせたのです。だから鹿児島には、たくさんの思い出があります。

 ただし、私はこの「長春有情」を毎日書いております「kanasikitakebue2000」さんが一体誰であるのかというのは皆目判らないのです。2008/ 1/26 20:02 [ No.2307 / 2309 ]Re: 「おひさしぶりです」の少し訂正 に

前回鹿児島に帰った時、あなたが誰かということが話題になりました
たぶんB電気の進君は覚えているでしょう

のように書かれている「B電気の進君」はよく覚えています。彼とは中学2年3年と同じクラスでした。
 この「長春有情」を読んでいきますと、同じ歳の彼のことが、とっても好きになってきます。彼がよく唄うのであろう日本の戦後の歌(戦前の歌も)も私もみなすべて歌えるものばかりです。彼がよく書いているいくつもの映画(「フーテンの寅」をはじめいくつ)も、また私は好きなものばかりです。
 今後、この私のブログのサイドバーから気軽に行くことができますので(今までは検索して行っていました)、ありがたいです。
 ただ、一つ一つの書込みで、トラックバックはできませんの、それがちょっと困っていますなあ。まあ、こちらで勝手に書けばいいんですね。

 今後は「長春有情」を毎日拝見させていただきます。

「長春有情」をリンクしました の2 へ

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年5月24日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 きょうに午前中にまっちゃんから電話があり、28日に病院を移転すると聞きました。でもそこで簡単な手術して、また戻るんですね。
 前の手紙の続きだけど、鹿児島のつぎが横浜だったね。
 実はね、私は鹿児島というところは少しも好きではなかったのだけど、鶴丸高校へ行ってからは実に面白い毎日だったから、けっこう鹿児島というところが気にいってきていたのでした。でもまた転校になりました。
 この横浜という街も面食らいましたね。まず私は皆が平気で話す言葉が標準語でなくて驚いたものです。なんだか、「…じゃん」という音(おん)ばかりが耳について嫌なものでした。でも入った学校には行きたくなかったのだけど、選んでくれた先生が鶴丸高校の卒業生だということで、あの先生と話して覚悟を決めました。
 この高校の2、3年のときのクラスの同窓会をすべて私がやっているのですが、今でも、その場で多くの人が私を鹿児島の出身だと思っているようで、もうこれにはげんなりします。あの人たちは思考法が実に堅くて保守的なんだよなあ。でも今になって、横浜の街を歩くと、なんだか懐かしくてなりません。
 我孫子の家の隣の娘さんの家族が中華街のあるビルの上のほうの部屋で、みんなで学校をやっているのだけど、そこへ行ったら懐かしい思いばかりでしたが、なかでも長男は実に私たち家族が懐かしいようです。おはぎ、ブルータスにニューヨークに来てくれって言っていました。彼は今航空会社で働いているのだけど、その前にはコマーシャルのモデルをやっていて、実にいい綺麗な男だと思うのですが、彼はアメリカ人のモデルというのは193センチ以上ないとだめだから(自分は3センチばかり足りないんだって)、その道はあきらめて、さらには母や父や他の二人の兄弟もアメリカがいいと思っているようだが、僕はやがて日本で生きようと思っています、なんて言っていました。彼は見た目はアメリカの白人だけど、心根は日本の我孫子人のようですね。私は我孫子も好きじゃないけれど、彼の前では、その私の本音が言えませんでした。彼には、我孫子というのは、うちの二人の娘やみーねえ、それに隣の怖い親父(の久二じじ)やばあちゃんの思い出だけで面白く懐かしいところのようです。
 でも彼は、おはぎとブルータスにニューヨークに来てほしい、ニューヨークは思われているほど、怖い街ではないです、と懸命に言っていましたね。私はおはぎとブルータスが子どもを連れてニューヨークを彼の案内で歩いてほしいな。そんな時がきっといつかくることでしょう。       早々

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07041801 私は離れている次女にこの1月からずっと手紙を書いてきました。そしてこのところ、同じマンションにいる長女にも手紙をこの4月10日から手紙を書いています。
 そして母が入院したので、母にも書いています。母は昔私が高校1年のときに鹿児島鶴丸高校で下宿しているときにも手紙をくれていました。でも返事はほとんど書いていません。私が学生運動で府中刑務所に勾留されていたときも、たくさんの手紙をくれていました。でもこのときにも返事を私はほとんど書いていません。そんな過去の私のことをおおいに反省しています。だから今、私はずっと手紙を書き続けるのです。(4/19)
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 私はずっと下駄を探していました。
 しかし下駄がないのです。まず下駄屋がありません。それから和服の関係の店でも雪駄はありますが、下駄はおいていないのです。これは浅草まで行かないと駄目かな、なんて思っていました。
 私は中学生のときから下駄でした、もちろん、中学校へは運動靴でいかなければなりませんが、普段は常に下駄でした。
 高校に入学した鶴丸高校でも、運動靴でしたが、生徒会で、生徒が下駄を許可しろと大声でみんなで叫んでいたのを覚えています。当時新設された鹿児島中央高校では、皮靴をみな履いてもいいようになっていて、それが高校の一つの売り物だったようですが、鶴丸高校では、みな下駄を主張していたのです。

 その後、私は横浜の横浜東高校に転入し、でもここでも普段はずっと下駄を履いていました。そして大学もずっと下駄でした。
 でも思いだしても、私はどうだったのか思い出せないことがあります。いつも下駄を履いていたのに、いざデモへ行くとなると、運動靴だったわけですが、運動靴はどうしていたのかな。どっかに置いていたのかな。大学内にずっといたわけだから、どっかに置いていたのかな。
 東大闘争に行ったときには、一体下駄はどこに置いていたのかな。今もこれがさっぱり解明できません。
 それで府中刑務所から保釈で出所して、また逮捕され、また保釈で出所した70年の4月の頃は、赤羽の雪印でアルバイトをしていましたが、あのときは下駄だったと思いますが、靴はどこに置いていたのでしょうか。靴がないと、デモとかゲバルトのときに困るよね。どうしていたのかな。
 北浦和の路上で、何故だったか民青の阿呆を、下駄で殴った思い出があります。だって私よりがたいのいい男なんだもの。下駄で顔を殴ったら、次には警官を連れてきたものでした。

 それで就職しても、相変わらず下駄履いていました。会社の面接受けるときも下駄でしたね。
 沖縄へ行ったときに、さらに南島へ行くときに、南西航空のエアーホステスが私の下駄を見て困っていました。でも仕方ないからそのまま乗ったと思いましたね。

下駄2 この写真の下駄を鎌倉の店で買いましたときに、ご主人は嬉しそうな顔をしていましたね。ずっと解説をしてくれました。でも私は、ずっと昔から履いているのだから、そんなことみんな知っているんだって。でも私は嬉しいから、お話を聞いていました。
 あ、この店の名前ですが、今調べても判りません。領収書をもらっておけば良かったな。しまったなという思いです。あ、また下駄を買いにいけばいいのか。

 さて、これで王子の街を歩くぞという気持でしたが、ところがところが今の都会は大変ですね。面倒ですね。

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