将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:鹿児島

12030817 私の「リー&笑美の只見日記」のホッケの飯鮓(すし)に、笑美さんが、コメントをくれたのでしたが、その2です。

 私は次のように書いてしまっていました。

 好きになれないのは、名古屋と鹿児島かなあ。横浜はまったくダサい感じでいやでした。

 こう私は書いたものですが、私はもうみな好きになりました。
 名古屋は、南区・千種区・北区と引っ越して、小学校も3つ転校しましたが、そして大変に暑い街・都市ですが、今では懐かしく思い出すばかりです。友だちのことも懐かしく思い出します。
 私はこの北区で小学5年のときに伊勢湾台風にあっています。いや思い出せば、札幌では洞爺丸台風に、小学4年のときは(そのときは千種区でした)は狩野川台風に遭っていたのでした。この名古屋での友人たちも何人も思い出します。
 鹿児島は、中学3年間と、高校一年の一学期は下宿していました。父が横浜に転勤になったけれど、もう転校なんて簡単にはいかないのでしたね。
 横浜は転校した高校が最初が横浜の中華街とか馬車道とかの近くに校舎があったものでした。でも授業はものすごく退屈で、私は授業中に莫大に本を読んだものでした。最初が「司馬遷『史記』」でした。そのあとは、もう文学ではなく、莫大に全集ものを読んだものです。先生方は、私が本を読んでいても何も言わなかったものでした。
 そんな思い出の中で、今ではどの地方も好きですよ。
 ただただ、懐かしく思い出すことがたくさんあるのです。

10090103 8月31日の23:18に届いていたHA茶さんの『独楽吟のススメ』です。

「2010/08/31 【No.2002】わたしの独楽吟(どくらくぎん)」を読んでの周の感想。

たのしみは 不自由という 賜物に ゆっくり行くしか 無いと知る時

体には自信があった私なのに、難聴が進み 働くのに不自由を覚えるようになりました。伝音難聴ではなく感音難聴なので 補聴器も今一。ゆっくりならば 生きていけます。笑顔を作って行けたらいいなぁ!

 そうなのでしたね。でもHA茶さんは、それを少しも感じさせない方ですよ。

たのしみは 夫と二人 ふるさとの 山と川とを 訪ねてみる時

鹿児島を離れて40年。ゆっくり行くチャンスがありませんでした。仕事を辞めたら一緒に行ってみたいものです。

 鹿児島は私も住んでいました。思えば、私は鶴丸高校に通ったのは原良町に下宿していたのでしたね。もう遠い世界ですが、懐かしく感じます。

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 昨日の21:48に届いていたHA茶さんの『独楽吟のススメ』です。

「2009/10/10 【No.1875】わたしの独楽吟(どくらくぎん)」を読んでの周の感想。

たのしみは ひさかたぶりに 故郷に 帰りその気を 吸って来る時

たぶんちょっと違っているのかもしれないのですが 人はオギャーと生まれたときに吸い込んだ空気を一部肺の中に持っているのだと。数年前に法事でちょこっと帰っただけの 故郷鹿児島に何の予定も無くぶらっと帰って来ました。生まれて育った町を またこの目で見てきました

 鹿児島は私には数ある故郷の一つです。懐かしくいくつものことを思い出します。また少しの時間に行ってみたいな。

たのしみは 霧島温泉 子と二人 日に3回も 湯に浸かる時

今回のふるさと紀行は 娘と二人 気楽な温泉ツアーでした。鹿児島市 指宿 霧島と泊って来ましたが どこでも温泉が出て若返った気がします。泥パックも楽しみました。

 鹿児島は温泉がいくつもありますね。羨ましいです。私の故郷の一つとは言いましても、親戚がいるわけじゃないのですね。もう遠いところになってしまいました。

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 長春有情さんから、新年あけましておめでとう へ次のコメントがありました。

1. Posted by 長春有情です    2009年01月02日 15:52
謹賀新年
萩原君ありがとうございます。
今年は会う機会を必ず作ります。
仕事が自由になります

 それで、さらに彼の掲示板に、次のUPがありました。

周二君、新年おめでとうございます。
君のブログに書き込みました。
君の家族の写真を見て、やっぱり君に間違いがなかったこともわかりました。
あの頃、たぶん中学校の頃、君は鹿児島人とはちがい、
垢抜けしていました。
君のブログを見ても、君は田舎の人間ではなかったことがよくわかります。
私も今年はフリーになります。
娘達が東京に行こうとしていますので、東京に行く機会もあるでしょう。
東京に行っても、浅草演芸ホールか新宿末広亭に行くだけのこと。
今年こそ君に逢おうと思っています。
たぶん5月連休のころでしょう。
今年もお元気で活躍して下さい。

 ありがとうございます。鹿児島は、私のいくつも引越た先の一つですが、でも私が小学校6年から高校1年のときまで、丸4年も住んだところですから、懐かしいです。
 私は札幌には2年半、名古屋には3年半(ただし、3ヶ所住みました。小学校も3つです)、横浜には3年半住んだので、比較的長いほうです。ただし、鹿児島は東千石町ばかりでなく、原良町にも住みました。

 懐かしい思いばかりが甦えるものです。

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1bd062bd.jpg 寒くなりました。もう札幌では雪が降っています。私は札幌には、幼稚園のときから、小学校2年の3学期の1月まで冬を2回迎えました。この11月に雪が降ってくるのをよく覚えています。その前に住んでいた秋田とは雪の種類が違います。降ってくる雪を手袋で包んでも雪だまが作れないのです。でも子どもであった私はこの雪が大好きでした。思えば、私の子どものときはいい体験をしたものです。鹿児島で鶴丸高校に入ったときに、同じクラスに、昭和29年に札幌の幌西小学校に入学していた同級生が偶然私の他に2人いたことを知り、大変に嬉しかったものでした。(11/19)
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07110103 5月30日私は58歳になりました の2 へコメント永田光男さん からさらに以下のコメントをもらいました。

1. Posted by 永田 光男    2007年10月31日 15:35
 貴方からの返事を見たのがこのブログでした。
わざわざ、コメントいただき感謝。これからもどうぞ宜しくお願い致します。ボクの出身は鹿児島県川辺郡知覧です。現在は大阪府箕面市在住です。
また、当方ブログへもお出で下さい。

 私は鹿児島には、小学校6年の7月に行きました。サビエル公園のとなりの山下小学校に入りました。中学は甲東中学だけで、私の3兄弟で一つの中学校だけですごせたのは私だけです(兄は秋田・札幌・名古屋と3つ、弟は鹿児島・横浜と二つ)。家族は中学3年の3学期に横浜に引越して、私はもう3学期なので、高校の入試があるので、下宿して鶴丸高校に入学しました。そして横浜の高校の入学先を両親が見つけてくれて、そこに転校しました。
 思えば、私は鹿児島に丸4年くらい住んでいたのですね。私の生涯の中では長く住んだほうです。
 川辺郡知覧というところは行ったことはないですが、思えば有名なところですね。大阪は旅行と仕事でしか行ったことはありません。
 鶴丸高校の関係は、私も東京鶴丸会に行っていますので(このごろご無沙汰ですが)、まだ関係があります。もう一つの横浜東高校は、クラスの同窓会クラス会を私が仕切っていますので、私が開催する手取りをしないとみんな会えません。
 それから大学は埼玉大学ですが、ここでは激しく学生運動とそのあと学園祭のむつめ祭に関わりまして、ここのその関係は今も続いています。私の上の世代からずっと下まで前後50年くらいの活動家ばかりをずっと飲み仲間としてつき合っています。
 そのほか、中学校・小学校の友人とはつき合いがありません。中学で同じ生徒会をやって、鶴丸高校から御茶ノ水大学へ入った女性とは、ずっとつき合いが続いていて、学生運動の場でも会いましたし、互いに結婚してからも、彼女が東京へ出てくるときには会っていましたが、今は私がケータイメールで連絡とろうよと言っても無理なようですね。もちろん手紙でも私は書くのですが、彼女はそもそもそんなにパソコンを使わないのかなあ。残念です。
 思えば、私はいわゆる全共闘世代、三派全学連世代、その上の60年安保ブンド全学連世代の方ともつき合いが続いていますが、みんなパソコンもケータイも普通に使わない世代ですね。それがとても残念です。
 いや、その上の世代もそうなのですね。私は2・26の関係者ともつき合いがあったのですが、みんなパソコンもケータイメールもうまく使わないので、どうしても縁遠くなってしまいます。
 思えば大変に残念です。
 でもありがとうございます。ときどき貴ブログは拝見しています。画像が綺麗なことにいつも感心しております。ブログ名は、無法松の一生 というのですね。無法松は小説も映画も好きです。映画での相手役の高峰秀子は私の大好きな女優です。彼女の書く本も大好きですね。

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ef2b3f0a.jpg とにかくただただ暑いです。私は小学校2年から6年までの3年半、名古屋に住みましたが、あそこが一番暑いところでした。その後住んだ鹿児島、大人になって住んだことのある沖縄よりも暑いところでした。でももう今のほうがもっと暑い気がしますね。さらに歳とると辛くなるんだろうな。(8/03)
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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年6月12日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 またもひさしぶりの手紙になります。
 もうきょうなんか、けっこう暑いです。おはぎは同じマンションですが、あそこのほうが涼しいです。ここの部屋はどうしても暑いです。もう古い部屋で、そのままだから。しかたないよねえ。夏だもの。
 うちの家族は、鹿児島にも住んだわけですが、はやり名古屋のほうが暑かったですね。ただ、このことは住んでみないと判らないでしょうね。今はもっと暑いんだろうなあ。言われることだけど、年々暑くなる年を感じています。このままいくとどうなっちゃうのかな。
 思い出せば、私が一夏過ごしたした府中刑務所も暑かったです。狭い独房なので、ただただ暑いだけでした。ただ中にいると、まったく外の世界のことが判らないので、ときどき面会に来られるかたの話はどうしても私には判らないことが多々あったものでした。
 ただ、私は保釈になってから、こうした拘置所なりに面会に行くときには、そうしたことを判った上でお話しするようにしていましたからね。私が中にいるときは全然無理解な人とは会っても、一応わざわざ面会に来てくれたからという感謝の気持は失わないようにしましたが、独房に長期勾留されているということがまったく判っていないとしか思えないという人もときどきいたものでした。まあ、でもこれは仕方ないことです。
 でも、こうして自分の母親にひさしぶりに手紙を書くようになって、昔を思い出しているのですが、いろんなことを振り返るようになりました。
 私は秋田というところは2カ所住み、名古屋は3カ所だが、鹿児島は1カ所だとばかり思っていましたが、私は原良町に下宿もしていたんだねえ。だから鹿児島は2カ所に住んだことになるんだ。
 浦和は2カ所だとばかり思っていたら、あそこは3つのところに住んでいるんだ。
 我孫子も勝手に3カ所だとばかり思い込んでいたけれど、我孫子の実家にも住んでいたのだから、4カ所なんだねえ。
 私がまったく記憶ないのが、東京の巣鴨に住んでいたということだけなんだけど、あそこはどこにいたのかなあ。私の孫のポコちゃんが巣鴨で生まれたから、あのとき、何度も、「自分の住んでいたのはどこらへんだったのかなあ?」という気持でいっぱいでした。できたら、いつかそこ場所を知って歩いて見たいものです。たぶん、何かを思い出すんじゃないかなあ。       早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年5月20日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 きょうは柏の病院にいるのかなあ? あとでまっちゃんに電話して聞いてみます。
 私は今、おはぎとブルータスにも手紙を書いていますよ。やっぱり、こうして父親から手紙をもらうということも、いいことだと思うんだね。
 我が家族は鹿児島にも住みました。思えば、家族としてはちょうど3年半ほどいたんだね。名古屋にいた期間と同じ長さですね。ただし、名古屋は3カ所に住んだから、東千石町だけに住んだのは、長い期間だったね。そして私だけは、そのあとも鶴丸高校で下宿していたから、私だけは小学校・中学校・高校と過ごしたのです。小学校と高校はわずかの期間だけど、中学が一つの学校だけというのは、私だけでしたね。兄の莞爾は、秋田・札幌・名古屋の3つの中学だったし、マサシは、鹿児島・横浜の二つの中学でした。
 だから私には、かなりな思い出がたくさんあるのが鹿児島です。おそらく今でも天文館へいけば、いくらでも同級生に会えると思うんだね。
 私が26歳のときに、鹿児島を歩いて、本当に驚くくらい天文館で昔の甲東中学の同級生と再会したものです。
 ある飲み屋に入って、そこのママに、「ここにAさんという方がいませんか?」と言って、その苗字ばかりでなく、名前もあげたら、「えっ、Nは私の息子です。さっき、ここの来たのが息子です」といいまして、すぐに彼を呼んできたものです。数分前に、この店の業務用の大きな氷を運んできていたのが、彼でした。お母さんはすぐに、本人を呼んできてくれたから、彼が、「あっ、萩原じゃないか」と言って、「今も下駄はいているのか」と懐かしい表情になりました。もう風貌が変わっていたので、数分前には判断できなかったのです。
 そのお母さんは、すぐにばあちゃんのことを思い出してくれたよ。「お母さんはお元気ですか。あなたのお母さんのことはよく覚えています」といくつものことを思い出してくれました。
 もうそのあと、何人もの友だちに会えたものでした。中学2年3年と同じクラスだった黒岩君がラーメン屋になっていたのは驚きました。でもこの「黒岩ラーメン」が今では、大きなチェーン店になっているんだよ。
 いや、実は鹿児島で私たち家族がお会いした人たちは、みなその息子さんなんかが、店を継いでまた元気に活躍していますよ。もう懐かしい思いばかりがしてきます。やっぱり私たちがおつき合いした方たちは、鹿児島市で、すべてで頑張っている方たちでしたね。                 早々

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06122301 毎日UPされている 王子生活札幌でも走ってます があります。なんだか私にはとても懐かしい札幌の市電なのです。

札幌の街には市電が走ってます。
緑色の車体が懐かしい感じの市電です。
(2006.12.22)

 私の家族は昭和28年の9月に、秋田市から札幌へ引越しました。秋田も市電が走っていましたが、社宅は市電よりかなり離れていたので、今度は比較的社宅より近いので、私たち3人兄弟は、そろって市電通りに見に行きました。
 兄は中学1年生、私は幼稚園生で、弟はまだ4歳です。市電通りは広くて、緩やかに市電が走っています。
 でも実に悪戯っ子の私の弟が、市電のレールの上に石を置きました。兄は怒り、私はあわててその石を取り去りました。実にまあるい石でした。白い少し茶色い平たい石でした。私は今のあの石の感触も形も色もよく覚えています。私の弟は、小さくてイタズラばかりする子どもでした。
 私は家に帰って、そのことを母に言いつけたと思います(嫌な奴だなあ)。でも間違いなく、母は怒ったけれど、笑っていたかと思います。でも弟は、「もう絶対にしないこと」と約束させられていました。

 この市電に乗って家族でよく札幌の繁華街に連れて行ってもらいました。丸井(今は札幌丸井というのかな)デパートへや三越デパートへです。そこで父母は買い物をして、私たち子どもは食堂で食べるのがいつも愉しみでした。
 思い出せば、その前にいた秋田市も、次の名古屋も、鹿児島も、横浜も、どこもこの市電が走っていしたね。ただし、名古屋の最初の南区若草町では、名鉄に乗ることも多く、横浜では港北区篠原町だったので、東急東横線に乗ることも多かったです。

 でもその後住みました千葉県我孫子も浦和市も市電(路面電車)がないのが不思儀でした。それから沖縄の那覇市にも市電がないので、少し驚きました。でももう声には出さなかったなあ。その頃一緒に働いている人たちに笑われちゃうかもしれないからです。

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 この一つ前に、昨日タクシーに乗ったことを書きました。そうしたら、また思い出しました。
 同じく昨日、今度は渋谷から靖国神社前までタクシーに乗りました。
 私はまた運転手さんに、東京の路が綺麗なことの感想を喋りました。そして、私の自宅の我孫子も今の王子も路が綺麗に掃除されていることを言いました。
 そして余計なことですが、東京の汚れた街の話もしました。「あそこらへんは、煙草の吸い殻だらけなんですよね」なんて街の名前をあげて話しました。
 それでそのあと、東京だけではなく、あちこちの都市の話をしました。まず大阪の印象から、名古屋の話をしました。
 私は名古屋は好きではないが、実に街が綺麗だと思うということをいいました。そして同じ愛知県でも、いわゆる名古屋−尾張と、岡崎−三河は全然違うなんて話をしているうちに、その運転手さんも、「私も名古屋は住んでいたことがありますよ」という話で、いろいろと話しました。私は名古屋は3カ所住んで小学校も3つだったことをいい、もともとは札幌で入学したことをいいまして、でも卒業したのは鹿児島なことをいいますと、彼も「自分は鹿児島です」ということで、だんだん話が進みます。
 彼の中学の話で、私は甲東中学で、彼もよく知っています。「私は甲南(高校)なんですよ」という話から、「私は鶴丸(高校)ですよ」ということで、だんだん詳しい話になります。
 彼が法事で、鹿児島に帰省した話の中で、鹿児島天文館の美味しいラーメンを奥さんと食べに行ったという話で、それが黒岩ラーメンだというので、私は「あ、彼は中2・中3と同じクラスだったよ」ということでますます話がはずみます。私は天文館のあちこちには、同級生が何人もいますから、もう懐かしい思い出ばかりです。
 彼は昭和22年生まれで、私より一つ上です。だからあの頃鹿児島の路ですれちがっていたのかもしれないですね。

 でも彼は三島に住んでいたこともあると言っていました。私もすぐに三島駅を思い出していました。温泉新聞社で集金に歩いた思い出です。あそこから、伊豆の中伊豆西伊豆の集金旅行が始まったのでした。
 いや、その他もいっぱいお話しましたよ。同じ団塊の世代だから、たくさんの思い出が重なります。

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 団塊世代Uターンの経済効果試算 で私は、団塊の世代が「故郷へ帰る」というので、いわゆる田舎に帰ることには否定的なことを書きました。ただし、もちろんそれは個々人が自分の人生でどのような生き方をしようがそれぞれが自由なわけですから、それはまったく構わないことだと思っています。

 私は「故郷へ帰る」というときの「故郷」というのは、それぞれによって違うだと思っているのです。東京という都会が故郷の人もいれば、例えば、鹿児島県内の郡部が田舎の人もいるでしょうが、鹿児島県の県庁所在地の鹿児島市が故郷の人もいるでしょう。
 でも私は「故郷回帰運動」というものに賛同できないのは、「東京23区が故郷であり、そこへ帰りたい」という人の考え方には認めないようなことを感じるからです。
 ようするに、地方といいましても、東京や名古屋のような地方ではない、過疎化が進んでいる地方がなんとしても、その自分の地域を活性化したいというのが本音でしょう。そして、それは切実な思いがあるのでしょう。
 だから、個々人のとって故郷はいろいろあるわけで、さも「故郷は自然と田園のあるところ」と決めつけていることが私は嫌なのです。そこはついでに「車がなければ生活できないところ」と付け加えてくれよという思いです。

 かつそして、個々人にとって、故郷とは、実際に自分が行き住んだところでなくとも、自分で選んでいいところだと思っています。

 私は生まれは昭和23年茨城県佐貫です。今は藤代市になっています。でも、1歳のときに、東京巣鴨に引越て、3歳で秋田市に引越、そのあと、札幌、名古屋、鹿児島、横浜、そして千葉県我孫子と引越しました。秋田では2か所、名古屋では3カ所に住んでいます。だから名古屋では小学校も3つでした。
 それでそのあとは、浦和に住み、また府中刑務所から保釈ののち我孫子に住み、また浦和に住み、一時沖縄に住み、その後船橋に住み、早稲田に住みました。そこで結婚して王子に住んで、そのあと我孫子に住みました。そして我孫子で3カ所住むところを替えました。
 そして今は、我孫子の自宅と王子の妻の実家と2カ所に住んでいます。

 そんな私には「故郷」というところがないのです。いや、全部が故郷とも言えるでしょうか。私は秋田と沖縄は、私の故郷とよびたいところでしたが、あとはすべて嫌いでした。
 札幌は、なんだか実にハイカラで嫌でした。ストーブの石炭の煙で汚れた雪が嫌でした。名古屋が実に暑くて、そして方言がひどくて嫌でした。鹿児島は、もうまったく嫌でした。毎日桜島のばい煙が降るのが嫌でした。横浜も方言がひどくて「これは同じ日本なのか」と思ったものでした。町を流れる川が汚くて嫌でした。

 そんな、どこも大嫌いでしたが、今はとても懐かしく思い出されます。札幌も名古屋も鹿児島も懐かしいです。でも遠い。横浜は行くことができますから、歩くと、あんなに嫌だった街が、今では懐かしくてなりません。浦和も嫌いな街でしたが、今行きますと、もう涙がこぼれます。浦和から北浦和まで歩くと、もうそれこそ私はあちこちで涙目になっています。

 このWeb東奥の記事では、次のようにありました。

 今夏、県が行った団塊世代への意識調査では、首都圏在住の本県出身者のうち9.4%が定年後の本県移住を、23.4%が首都圏と本県の二地域居住を希望した。

「首都圏と本県の二地域居住」なんていいことだな、と思いました。
 私が、もう1カ所住みたいところはどこかといいましたら、それは沖縄かな。そして沖縄のどこかと聞かれたら、それは実に困っていまうけれども、やはり都会である那覇でしょうか。でも沖縄ももう車がないとどこにもいけない地方ですね。
 それがなんだか少し哀しいな。

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06090905 夕刊フジBLOGこの記事 がありました。

 みなさん、どう思います。この頃のラーメンの味。
 私は基本的に庶民の味であり、今の経済情勢を踏まえて、普通のしょうゆ味で650円から価格が始まるのがラーメン基本価格の限界かな、と。
 いつも考えてしまうのが、神田や新橋、大手町と私鉄沿線のたとえば京王線、八幡山駅での同じような中華料理屋の醤油料金がほとんど変わらない。単純に、家賃分を考えれば八幡山のラーメンの方が安くてもいいはず。

 変な話、意外とラーメン屋さんはネットなどで見て「世間並みにうちの価格もこんなもんでいこうか」などどと無意識的にガソリン価格のように横並び意識があるかもしれない?
 どう思います?私はなぜか気にしてしまいます。
(2006.09.09)

 いえ、私はこれを読んで、「あ、そういえばラーメンなんて食べていないな」という思いがしたのです。58歳にもなると、なんだかラーメンをわざわざ外に食べにいく気持がなくなったのかな、なんて思いました。
 私が中学生のときに鹿児島の私の住んだすぐ近くに、「のり一」というラーメン屋がありまして、それがラーメン一杯50円でした。でも鹿児島で高校に入りましても、まだ50円のままでした。そして、それが後年テレビで、50円のラーメンということで、放映されていたものでした。
 私が大学生で大学4年の頃(1970年のときです)は、早稲田の戸塚にいたころ、ラーメンが150円だったなあ。ちょうど札幌ラーメンの店がたくさん目立つようになってきた時代でした。
 でもあれから、もう随分の時間が経ちまして、今は800円から1,000円でも別になんとも思わなくなってしまいました。
 あ、そういえば、5年くらい前に、代々木上原で、普通の食堂でラーメンを食べたら、驚くほど美味しかったことを覚えています。普通の東京の昔のままのラーメンで、たしか350円だったな。でも店主は、これからの競馬のことばかり気にしていて、そちらに必死でした。もうあの店がないかもしれないな。

 そんないくつものことを思い出させてくれました。

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 このブログのサイドバーに「livedoor デパート」があります。きょうから、それを「名古屋」というキーワードで、デパートを形成しています。
 
 最初は、ここは「沖縄」で作りました。私の住んだところでいわば一番好きなところだからです。その次は「秋田」でした。これもまた私が住んだところで好きなところです。沖縄は沖縄本島も八重山諸島もすべて好きですが、「秋田」は、住んだのは秋田市(市内の2カ所に住みました)ですが、「秋田」自体がみな好きです。秋田県全体が好きだというか、秋田犬も好きですし、秋田のお酒も好きですし、秋田美人も好きです。
 ただ、その次は「北海道」ではなく、「札幌」というキーワードでデパートを形成しました。北海道と札幌というのは、私には違うものなのですね。そして私の本心は、北海道は好きなのですが、札幌は、どうしても「好きなところだ」とはいいにくいところです。幼稚園が札幌めばえ幼稚園だし、小学校に入学したのが、札幌市立幌西小学校ですが、どうしても私とは似てもにつかないところでした。いわば、あの札幌のハイカラさが私には合わない気がします。
 
 そして、きょうからは、「名古屋」です。愛知県でもなく、中部地方でもなく、「名古屋」です。そしてここは、私の家族は、南区、千種区、北区と3カ所住みました。小学校は、私は3校でした。でも、どうしても私とは合わない地方という気がずっとしています。まあ、とにかく異常に暑い街でしたね。
 でも、そんな街である、名古屋のことを今はよく知りたい、好きになりたいという思いがします。これは私が気弱になったのかもしれないことです。訳の判らないこだわりばかりで世界を見ている私よりも、名古屋の存在のほうが迫力があるようにおおいに感じています。
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