将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:黒澤忠三郎

2016122713

10110605 私が詩吟を詠うのに一番好きなのがこの詩なのです。

    絶命詩     黒澤忠三郎(勝算)
  呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他(ひと)の評に任す
  幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る
  正是桜花好時節 正に是桜花の好時節
  桜田門外血如桜 桜田門外血は桜の如し

  狂人と呼ぼうと、賊徒と呼ぼうと、それはいう人の評に任せよう
  井伊を倒した今は、妖雲も一時に晴れた思いである
  この時はまさしく 桜の咲く三月三日の好時節である
  桜田門外の雪の上に飛び散った血も また桜のようであった

 万延元年3月3日桜田門外で井伊大老を討った時の水戸天狗党のひとり、当日拳銃で襲撃の合図をしたとされる、黒沢忠三郎(1840〜1861)の辞世です。
 当日は今でいえば、4月の桜の季節なのですが、ときどきいまでもある台湾坊主(といわれる台湾周辺で発生する低気圧)の気候のおかげで、季節はずれの大雪でした。
 忠三郎は、神田浦三と名を変えて薩摩藩邸に潜伏し、水戸・薩摩の浪士たちと連絡をとりあい、この挙を計りました。
 彼の銃撃は合図だけでなく、最初に駕篭の中向けて撃った彼の銃撃が、井伊大老には致命傷となったということです。忠三郎は武芸に長けていましたので、大奮闘をしまして、刀が鋸のようになっていたと言われます。身に数創を負いましたが、老中脇坂淡路守邸に自訴しました。即日細川邸に幽閉され、さらに移動させられまして、文久元年7月26日斬られました。享年22歳でした。
 この詩は、その刑死される日の辞世です。最初「走筆作詩(ふでを走らせて詩を作る)」と題して、1句目を「呼狂呼賊任人評」と考ました。そのあと、推敲してこの句になりました。私は意味で、「他評(たひょう)にまかす」というところを、最初の句の読み方の「ひとの評にまかす」と詠っております。

 この詩は昔埼玉大学むつめ祭(埼大の学園祭)の統一テーマになったことがあります。1971年のむつめ祭のときです。もちろん私が提案して採用されたテーマでした。あのとき以来この詩がやたらに埼玉大学関係のイベントで詠われるようになりました。ついでにいいますと、70年安保闘争のときにも、私は集会でヘルメット姿でこの詩を詠いました。

 また同じく忠三郎が刑死の日に作った辞世の短歌です。

  君がため身を尽くしつヽ益荒雄の
    名をあげとおす時こそ待て

 忠三郎の思いは、いつも私に伝わってきます。私はいつもどこでも詠ってきた私が一番好きな詩です。(2003.05.20)

 思えば、71年のむつめ祭のときに、このテーマが選ばれたのは、私が実行委員会でこの詩を吟じたからです。私は学生運動の場では、よく詩吟をやりましたが、むつめ祭の実行委員会で詩われたのは、みな驚いたものでしょうね。いえいえ、学生運動(三派全学連、そのあとは全共闘運動)で吟われるのも驚くべきことだったかなあ。いえ、私がいるわけですから、別に当然のことなのです。
 この「黒澤忠三郎『絶名詩』」を私に詠うように、命じてくれたのは、その前年70年の秋に、私の詩吟の宗家荒國誠先生でした。私はいつも荒先生の声もお顔も思い出しています。
 それから、この71年のむつめ祭の統一テーマは

   呼狂呼賊任他評
    −我がなすことは我のみぞ知る−

 でした。サブテーマの「我がなすことは我のみぞ知る」は、坂本龍馬の「世の中の人はなんともいわばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」の歌からとったものでした。

1f8a1793.JPG 3月3日の桜田門外の変の日です。私がそちらに行きまして、詠いましたのが、この日決起したときの黒澤忠三郎の辞世です。「絶命詩」です。3月3日桜の節句に、結句で「桜田門外血如桜」と詩たいました。起句は「呼狂呼賊任他評」としました。1971年の埼玉大学の学園祭のテーマです。ちなみにこのときのサブテーマは「我がなすことは我のみぞ知る」です。これは坂本龍馬の短歌の下の句です。 上の句は「世の中の人はなんとも言わばいえ」です。龍馬らしい歌ですね。
 写真は、一昨日に長女の家で撮りました。ポニョがこの色鉛筆入れを持っていました。その裏に描いてあるものです。これはブルータスが描いたのか、そもそものみーねえが描いたものかは判りません。もともとみーねえがこのハンドル名をつけたのです。(03/03)

2017041017  永井荷風の詩です。浅草を愛した荷風を思います。

墨上春遊 永井荷風
黄昏轉覺薄寒加 黄昏(こうこん)転(うた)た覚ゆ 薄寒(はくかん)の加わるを
戴酒又過江上家 酒を載せて又過ぐ 江上の家
十里珠簾二分月 十里の珠簾(しゅれん) 二分(にぶん)の月
一灣春水滿堤花 一湾の春水 満堤の花

ad7a9fda.jpg たそがれのとき、何となく寒さがつのり
酒を携えて、また川べりの料亭へと上る
十里の堤に立ち並ぶ青楼 名月が照らしている
春の水は入江に満ち、桜の花は堤に満ちている

漢詩は、他の詩から語句を転用するのはよくあることのようです。この荷風の詩も唐詩からいくつか転用しています。
「二分の月」とは、徐凝(じょぎょう)の「天下三分名月の夜 二分無頼是れ揚州(天下の明月の夜の美しさの三分のニはなんと揚州が占めている)」から転用しています。でも私なんかには、この二分の月でなぜ満月で名月なのかはすぐに判りません。この転用した詩を知ってはじめて判ることなのですね。
春といっても寒いので、酒を飲みたくなるのでしょう。隅田川沿いに並んでいる料亭に上がってしまうのでしょうが、そこに酒を持って上がっていってもいいのかなあ。

隅田川沿いの浅草では花見で飲んだことはあります。船でお花見で飲んだこともあります。いつも必ず隅田川に向かって、「正是櫻花好時節」という(これは黒澤忠三郎『絶命詩』の転句)詩を詠ったものです。

周の『独楽吟のススメ』の5へのコメント

永井荷風は、父親が永井禾原(かげん)で漢詩人です。母は鷲津毅堂という漢詩人の娘さんです。

と書きましたように、荷風には漢詩を作ることは普通のことだったのでしょうね。おそらく漢詩は30ほどしか残っていませんが、漢詩そのものは実によく学んだものなのでしょう。
私は浅草の北側の街で何度か飲んだことがありますが、いい街ですね。いつも永井荷風が好きだったのだろうななんて思いながら街を歩いています。

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07121203 掲示板に寅吉さんからの書込み へ寅吉さんから、以下のコメントをもらいました。

1. Posted by 寅吉    2007年12月12日 00:30
早々のコメントありがとうございます。私は1953年11月生まれの54歳です。周さん達の年代を常に遅れて歩き、周さんが学生運動にのめり込んでいるときは田舎の高校を中退して上京、製本工場で働いていた頃かと思います。吉本さんの著書に出会ったのはその頃でした。私は自己の身勝手な行動を正当化する手段として、詩人吉本さんに傾斜していったのだと思います。「固有時との対話」が何よりも好きでした。憧れで吉本さんが当時、根津(だったと思う)にお住まいの頃、一度だけお伺いしました。2階の書斎で先客の労働組合い関係の2人が熱心に相談され、飄々とお答えしている姿を私は奥様が出された日本茶を啜って黙って聞いていることしかできませんでした。今でも娘のばななが向いの部屋で赤い三輪車にのっていた記憶が妙になまなましいのです。

 あ、なるほどそうすると、1953年(28)ですと、私の埼玉大学でいえば、また元気な活動家がたくさんいました。私が6年のときに入学された人たちですね。ただもうその頃は、活動家と言っても、いわゆる学生運動は停滞していて、でも埼玉大学には、むつめ祭という学園祭をずっと私たちの先輩の時代から後輩の時代までやっていて(なんと今も現実にやっています)、とくに私は6年のときの1972年のむつめ祭は、私の出したテーマが統一テーマ(今はメインテーマという)でした。

   狂わせたいの
   ───花弁はうずく、女は叫ぶ、俺の墓はどこだ!!───

というものでした。いくつかのマスコミではこのテーマはとりあげられました。
 この翌年1973年(私は就職していて、印刷工でしたが)のむつめ祭のメインテーマが、

   いついつまでもおともだち

でした。前年以上にマスコミがとりあげ、とくにNHKが取材に訪れ、番組に顔も出た私は、そのあと何人もの方から、いわれたものでした。
 そういえば、1971年のむつめ祭のテーマも私の出したものでした。

   呼狂呼賊任他評
   ───わがなすことはわれのみぞ知る───

 これは、上の句は、黒澤忠三郎の七言絶句の『絶命詩』の一句目のことであり、サブテーマは坂本竜馬の『世の中の人は何とも言わば言え わがなすことはわれのみぞ知る』の短歌からとったものでした。

 でも小さいときのばななさんにも会われているのですね。私は吉本ばななの熱心なファンでもあります。お姉さんのハルノ宵子さんの書かれる漫画のファンでもあります。

 私が学生のときも、そのあとも「吉本(吉本隆明)さんとは、全然合わない人だ」といわれ続けたものでしたが、ただただ吉本さんの本を読むことだけを続けていたら、もう私に対して、そういう批判の声は聞かれなくなりました。

 私の掲示板にも書きましたが、どうかブログを初めてみてください。パソコンとインターネットをやるのには、一番適しているのが、このブログを毎日書かれることだと思いますよ。

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 絵本「おじいさんの旅」のことで思い出しましたナミちゃんが、以下のコメントをこれました。

1. Posted by なみんと    2007年10月27日 21:09
周さん!こんばんは。日本語訳の「おじいさんの旅」を私も読んでみたいです。下手な訳で恥ずかしいです。細かい所のニュアンスを確かめたいです。荒國先生のお話。。この本と少し似ているところがありますね。収容所にいたことがあるのですか。オペラ歌手の勉強をずっとされていたとの事ですから・・さぞ高くて力強く美しいお声なのでしょうね。周さんの声も高く力強いですね。

 ありがとう。昨日は、すごい雨でした。午前中10時台の王子図書館に行きましたが、この本の予約では、まだ本が用意されていませんでした。今インターネットを見ると、もう用意されています。9時すぎたら行ってきます。
 荒先生のことをはるかにたくさんのことを思い出していました。思えば、私が一番好きな詩吟である、黒澤忠三郎「絶命詩」も、この國誠先生が1970年に國誠流の日米加の合同の大会があった(この荒先生の國誠流は、米国だけでなくカナダも会員が多いのです)ときに、私の詠う詩として、私が指名されたものです。おそらく、先生は、私に一番合っている詩として、この詩を選んでくれたものだと思われます。
 この詩は、私は1970年の安保闘争でも、埼大の集会の中で、これを詠いました。いつもこころの中でも吟っている詩です。

 周の雑読備忘録「アレン・セイ『おじいさんの旅』」 へ

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