11010210「昔の手紙を見つけました」(これはまたいつか、掲載します)にも書いたのですが、いろいろな懐かしいものが見つかりました。でも読んでいると、懐かしく、かつ悲しくなる思い出のものがありました。
 ちょうど9年前のことですが、私の大学の19年下の後輩が南米ボリビアで突如亡くなりました。そのことは以下に書いてあります。

   友人の告別式の告知です

 このとき電話してきたのは、この練木淳夫君の一緒に住んでいるお祖母ちゃんでした。私の名が彼の口から出てきたことがあると言っていました。また私からの年賀状をこのお祖母ちゃんもよく見ていたようです。
 この練木君と一緒にボリビアでくらしていた荒木さんという方の書いた文書がありました。以下ここに掲載します。長いものですから、この号と次号で別けて(ここでは一挙に掲げます)掲載します。

練木君について
                     1995年3月17日
                          荒木健一郎
 練木君とペンション花田で最初に会ったのは、昨年(1994)の5
月5日子どもの日だったと思う。彼が仕事をやめて、日本を出てから約
1ケ月後だ。
 アメリカをロスからマイアミまでバスで移動したあと、ペルーのリマ
に飛び、その1週間後くらいにクスコへ飛んだのだった。
 そのあとすぐに練木さんは、B型肝炎にかかっており、食事規制もあっ
たため自炊しており、油気のないものを中心に作っていた。はじめは、
自分のために作っていたみたいだけど、練木さんは手先が器用らしく、
俺たちには、その料理がとてもうまそうに見え、俺にも俺にもと希望者
が増え出し、しまいにはペンション花田の夕食コック長になってしまっ
た。
 毎日メルヤド(南米の市場)へ買い出しに行き、野菜やら米やら肉や
ら仕入てきては、俺たちに腕を振るってくれたものだ。1人40円~80
円くらいで、スープ、おかず、ご飯がつく。自分が食う分くらいは浮い
たろうけれど、ボランティアのようなものだったけど、「今日は何作ろ
うかな?」なんて言って、人に作ってあげるのを楽しいんでいたと思う。
 俺が一番うまかったのは、圧力なべで、ことこと煮た肉じゃが。チン
ジャオロースもうまかったけど、一度ピーマンとトウガラシを間違えて
作ってしまい、エライことになったこともあった。

 6月はじめ頃、クスコ近郊でユヨリーノという大きな祭が行われる。
クスコ近郊といっても、バスで2時間、その後徒歩で3時間、すぐ横は
氷河の4,600mの高地で行われる。もちろん、宿泊設備なんかない
から、テントを持っていった。参加メンバーは、練木さんと、永井さん
(東大の大学院でインディヘナの民族学とかをやっている人)と青山さ
んという20歳くらいの女の子と、あと俺の4人。
 このメンバーの取り合わせは面白かったと後日、練木さんとよく語り
あった。永井さんなんて、俺と同じ年なのに、髪は七三に別けちゃって、
ジョークの通じないまじめな人。青山さんも、南米にボランティアに来
た人で、最近の女の子にしてはとても変っている。まあ、彼らにしてみ
れば、練木さんと俺の方が変っていると思ったかも。
 ユヨリ-テの祭。アンデスの村には普通10人くらいの小さな楽団が
いる。祭の多いアンデスでは、その楽団たちがケーナやサンポーニャ、
太鼓などを使って音楽をかなで、それに合わせて村人が踊る。
 ユヨリーテでは、クスコ県全体から、音楽自慢の村の楽団がそれぞれ
やってきて、4~5日踊りまくる。4,600mの高地は、何万人とい
う人でうめつくされる。俺たちみたいな見物客は100人もいないから、
ほとんどの人は祭の参加者だ。主役だけのの祭、主役のための祭。1543
年スペイン人がクスコに入り、キリスト教に改宗させられたため、たて
まえはキリスト教の祭になっているけれど、インディオの人たちは、自
分たちの神のために踊っているらしい。NHKもきていたから、図書館
などに行くとVTRがあるかもしれません。

 練木さんとペンション花田から食事などに行くと、子どもやら商店の
おばちゃんやら、色んな人から声がかかってくる。「アツオ!ケタル?
(あつお、どうしたい?)」。近所の人気ものなのだ。練木さんは、そ
れにイチイチ答え、立ち話するから、腹がへっているといなど、「もう
いいから行こうよ」と俺は思う。商店の14,5歳の娘さんに学校でディ
スコ大会があるから行こう、なんて誘われると本当に行っていた。
 又、俺たち日本人はよく、チーノ、チーノと言われる。チーノとは中
国人のことなのだが、この辺りの人たちは、東洋人一般を差してそう言
う。旅の浅い人など、「俺は中国人じゃない」なんて怒る人もいるが、
練木さんは、そう呼ばれると、「シー、クラーロ(そう、そのとおり)」
と答え、気にもしないようだった。

 6月24日は南米の冬至。インティライミという南米三大祭の一つが
クスコで行われる。日本では太陽の祭として知られている。その前夜祭
に向けて俺たちは楽器の練習をはじめた。フォルクローレ2曲の間に、
日本の曲1つ入れるという調子だ。11月に日本へ帰ってしまったが、
アラスカから自転車でクスコに降りてきて、そのまま8年居てしまった
通称ヒロさん(しめぎただひろさん)は路上演奏でくらしていう人。ヒ
ロさんがサンポーニャとチャランゴ、練木さんがギターとタンバリン。
俺がケーナ。
 前夜祭は人であふれるクスコの街を俺たち3人を先頭にペンション花
田の旅人たちがあとについて錬り歩いた。「日本人の楽団クスコにあら
わる」って感じで注目度100%だった。そりゃあ、楽しいなんてもん
じゃなかった。陶酔、絶叫、狂乱。     (ここまで2004.07.05)

 夏頃から、俺たちクスコ人はガイドの仕事をはじめるようになった。
又、その頃、森重さん(通称シゲさん)という料理のバツグンにうまい
人が来たので、ネリキコック長の座はうばわれた。
 俺たちの中には、本当に金のない連中が多い。日本に帰る金がないの
なんか当りまえで、あと700$、400$、中には50$なんてのも
いるみんないい奴だけど、欠点は金のないことだ。どっかで仕事をみつ
ければいいやというのん気なのが多い。
 いつのまにか、クスコのペンション花田のはなれにある4人部屋にガ
イド連中がかたまった。シゲさん、飯田さん、練木さん、俺。年も26、
7歳くらいの同年代。
 みんなで勉強会をやった。インカの歴史。遺跡のこと。原始宗教のこ
と。インカの石造建築について。マチュピチュやチチカカ湖について。
練木さんが一番熱心だったし、クスコでスペイン語学校に通っていたこ
ともあり、言葉もよくできた。練木さんは仕事も好きらしく、俺たちの
ように金のためというのも、もちろんあったろうけれど、楽しいからや
るという感じだった。お客さんからのお礼の手紙などももらっていたほ
うだ。
 男どうしだから、そんなにベタベタはしないけれど、同じガイド仲間
でとなり部屋の小山さんも入れての5人は、本当に中がよく、毎日が楽
しかった。俺も日本に友だちは何人もいるけれど。この5人組はそれぞ
れが個性的で、もの知りで、話しても面白くて、ちょっとなかなかいや
に、いい男たちだ。俺にとって、すごくいい時期に、いい仲間に出会え
てよかったと思っている。
 誰かが愛称をこめて、俺たちの部屋をヘンタイルームなどとよび、や
がてその名は定着してしまった。
 いつも誰かが楽器をいじっているうるさい部屋でもあった。誇張でも
何でもなく、少なくとも俺にとっては、このヘンタイルームのゆかいな
仲間たちとの日々が、今までいきてきたうち一番たのしかった。練木さ
んは天国へ行ってしまったし、他の仲間はブラジルへ行ってしまった。
もう一度というものはない、たとえ生きている俺たちがまたあの部屋へ
もどって生活したところで、きっと全く違ったものになるだろう。

 1月だったろうか。練木さんの27歳のバースディパーティはクスコ
のアメリカーナというピザ屋で行われた。飯田さんが司会をやり、井上
旅行社やペダソという日本人のミキさんがやっているセーター屋。それ
から他の宿の日本人、西洋人、ペルー人もい入れて30人ほど集まり、
盛大に行われた。セーター屋さんからはアルパカの青いセーターが贈ら
れ、他の人からもいろんなプレゼント。終った後、ポツリと「こんなに
たくさんの人に祝ってもらったのは初めてだ」と言っていた。
 練木さんは1月16日、俺は1月21日日にラパスに入り練木さんは
最初トリノというムリージョ広場知覚のホテルに入った。他にもクスコ
で一緒だったトビさん、シンちゃんという日本人も一緒だったから、さ
びしくはなかったと思う。俺もトキハウスに入ぅて個室の部屋がほしい
と思っていたところで、練木さんとときどきさがした。
 鉄道駅の近くに、2つ星でトイレ、シャワー付一陌10$だけど一ケ
月だと120$というHosteria Floridaがあると練木さんに教えられ、
俺は2月28日、練木さんは3月1日に移ってきた。とても眺めのよい
ホテルで、七階の窓からは天気のよい日、イリマニ山という6,000m
級の雪山が見える。
 中華料理店にギョウザを悔いに行ったり、日本料理店にテッカ丼を食
いに行ったりした。練木さんはテッ丼と焼肉が好きでよく注文した。
 俺たちはそれぞれ電気コンロを持っていたので、食いに行くのがめん
どうなときは、NISSINの即席ラーメンですませてしまうこともあった。
 3月9日の木曜日、Pm4時頃練木さんが、俺の部屋をたずねてきて、
電気コンロで湯をわかしているとき、足に湯をけけてしまい、ヤケドし
たと言う。一緒に薬局へい久。薬と包帯を買ったようだ。その後商店で
練木さんはオレンジジュース、俺は酒を買い部屋に戻った。
 心配して「大丈夫?」と何度も聞くが、「子どもじゃないんだから大
丈夫だよ」と言っていた。それが俺の見た最後になってしまった。金曜
日、土曜日と練木さんの部屋をノックするが、答えがないので、寝てる
か外出中と思い気にもしなかった。
 日曜日の夜、夕食を一緒に食べようと思い、ノックするが、また答が
ない。しかたなくひとりで中華屋に行く。がヤケドのこともあり心配に
なる。
 次の日の3月13日(月)昼ゴロ、再びノックしても答がないので、
1階のレセプションにわけを話し、呼びのキーを持ったHotel の人と俺
で練木さんの部屋509に入ると、ベッドにあおむけになって亡くなっ
ていた。
 呼びかけ、体をゆすっても動かなかった。

 以上で、この記録は終わっています。
 練木君は、実に私より19年下の後輩でした。彼が埼玉大学のむつめ祭の常任委員をやることになって、私と知り合ったわけです。彼にとっては、私なんかずっと上の年代であり、言っていることは訳の判らないことだらけだったでしょう。でもよく私の話を聞いていてくれました。そのときの彼の顔を今また思い出しています。(2004.07.12)