将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:1969年

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それで、私が彼Aと会ったときに、私は67年入学でしたから、大学2年のときに、東大闘争で試験の時期が勾留されていますし、大学3年の試験の時期もまた勾留されていましたから、大学4年で大学に戻っても、それでも成績は40数単位持っていました。
だが彼は、大学1年も2年も私と同じ時期で、試験を受けていませんから、たしか3年になったときに7単位しか持っていませんでした。試験も受けないのに、なぜ7単位あるかというと、とにかくなんであろうと、単位を認めてしまう教授がいたからです。
それで私はその後3年間で、卒業に必要な単位は取得しました。彼も3年間で所得しました。だから、相変わらず入学年の差が1年ありますから、私は卒業して働いていたときも彼は学生でした。
それで私が就職した1年目の秋に、会社の仕事で京都へ出張することになりました。それで私は突如、当時の彼女も京都へ呼ぶことにしました。お父さんに掛け合って京都から電話したのを覚えています。
そして当時Aは、京都の同志社大学の正門の前にあったレストラン六甲でアルバイトしていました。そこへ、私と彼女で訪れたものでした。思えば、あのあと彼が、三条丸太町の「赤垣屋」を最初に飲みに連れていってくれて、そのあと先斗町で串カツを食べ、最後四条の「リラ亭」に連れて行ってくれたなあ。
あ、そういえば、いや最初のしらふの時は本能寺近くの三月書房に連れて行ってくれたのでした。私はこのとき以来、京都へ行くと、必ずこの三月書房は訪れてなんかしら本を買っています。
でも思い出すと、あのときは彼は大学6年なのに、なぜ京都にいたのかなあ。彼はよく京都で働いていました。本当は映画の仕事をしたかったのでしょうが、でも、なんだか工事現場の高いところに登るような仕事をしていましたね。

でもその後彼も就職して、でもでも私と同じで、どこでもちゃんと雇ってくれるところもないので、自分で会社を作って、自分でやりだしました。こんなところは私と同じでした。

でもそんなことの中、私は彼の妹を知りました。私が72年の春、妹さんのBさんの紹介で、上中里の農業技術研究所でたしか5、6、7月とアルバイトをしたのです。このとき、Bさんととても仲良くなり、さらにその妹のCさんも知りました。
Bさんは、高校生のときに英語が不得意で困っていましたが、その替わりフランス語が得意で、のちにフランスに留学してたときに絵葉書をくれましたね。私は「フランス人も立ちションをするのか?」という疑問を投げていて、その葉書には「まだフランス人の立ちションは見ていない」と書いてあったものです。
やがて、Bさんは、このフランス語を活かして、スイス航空のエアホステスになったものでした。妹のCさんは、お姉ちゃんよりも、体格がよくて、将来は体育の教員になるんだと聞いていました。
そんなCさんの思いは、二人が一緒に来てくれた、埼玉大学のむつめ祭の暴力酒場ひだりで教えてくれていたものでした。
二人は一番お兄ちゃんが好きだったのです。でもお兄ちゃんは、なんだかまともではありません。その友だちの私も、一見普通の人に見えますが、でもでもやっぱりどこかおかしいと思ってきたはずです。

Aは、その後不動産の仕事をやり出しまして、それでその後も私とのつき合いが続きました。二人の妹も無事結婚して、いい家庭を築いていると聞いていました。
もうそれから、またまた年月がたったわけです。

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 私とAとは、同じ埼玉大学の学生活動家でした。でも歳は同じ昭和23年生まれですが、入学は彼は私より1年後の1968年です。あの時代は年齢よりも入学した年が違うと、まるで経験するあらゆることが違います。だから私は、顔は知っていましたが、ほぼ彼とは話をしたこともないままでした。というか、私は彼のことが少しも好きではありませんでした。
 それはそれ以前の埼玉大学での学生運動でのさまざまなことがあったからですが、でもそれはここで述べても意味のないことでしょう。

 でも私は1969年の1月10日の夜から、東大闘争の安田講堂に入っていたのですが、彼は10日には駒場の闘いに加わり、また私が埼大に戻って、再び安田講堂に戻るときに、同じ安田講堂の5階屋上を守備する同じ部隊になることになりました。
 それで、ずっと同じところにいるわけで、いろいろなことを語ります。彼は映画が好きなことを話してくれて、さらに私は男ばかりの三人兄弟なことを言うと、彼も3人だが、あとは妹が二人いて、その妹のことを、小さいときにいじめて、そのときのことを悔やんでいました。
 それで当然好きな女の子の話になりますが、もちろん私の好きな女の子のことも彼は知っていましたが、彼の好きな彼女が、実は私よりも1年先輩なのだということが判り、それは実は我が大学でも私が憧れる圧倒的な美人の活動家でした。「あの娘は今は俺の彼女だよ」というので、私が憧れていることをいうと、彼は、「じゃ、明日連れてくるよ」といいます。そしてその晩は彼は埼大に帰りました。たしか1月16日でした。
 そして次の17日、屋上でぼんやり起き出して、「あ、腹が減ったな」なんて思っていたら、「おい、ハギワラ、Rを連れてきたよ」といいます。
 私が驚くと、実にたしかに彼のあとからRさんが、ついて来ました。そして彼女は圧倒的に美人の方なのですが、あの安田講堂の屋上は実に高いので、怖いらしく震えていました。
 私は彼女も美人なこともありましたが、実に気の強い女性であると思っていましたから(これは私は活動の場で、強い彼女を何度も見ています)、こんな屋上くらいで、震えるような女らしい彼女に出会えるとは思っていませんでした。
 その後、彼女はしばらくこの5階にいましたが、彼が送って帰りました。もう私は彼が一緒に行って帰ってこなくてもいいと思っていました。なにしろ、安田講堂では、ここでパクられると、「最低6カ月勾留される」と聞いていましたから、そのまま籠もるべきことでもないのです。
 それでも、その晩彼はまたこの5階の守備する場に戻ってきました。彼としては、私を棄てて帰るわけにも行かなかったのでしょう。
 そして翌日は、朝から激しい闘いです。もう身体がくたくたになるまで闘いました。
 そしてさらに翌日1月19日、夕方に私たちは全員逮捕されました。

 彼と私は前後して逮捕されるつもりでしたが、大混乱の中、そういうわけにもいかず、私は東調布署に勾留され、やがて起訴されて、私は府中刑務所に移管されました。彼は東京拘置所でした。
 私たちは、東大裁判でも、同じグループでしたが、統一公判を主張しているので、裁判への出廷を拒否していましたから、裁判所で会うこともできずに、月日が過ぎました。
 だが、彼はその年の7月20日ごろ保釈になり、私は8月21日に保釈になりました。

 ああ、そういえば、彼の彼女だったRさんは、私の府中にも面会に来てくれたのが、7月のことでした。7月の暑い日、接見室に入った私は、あまりに綺麗な彼女に驚きました。だが接見室からの帰り、私は同行する看守に、「こういうムショに入っている男の前に、あんな肌を露出した姿で来てはいけないですよね」なんて言っていたものでした。彼女は、看守も大きくうなずくくらい圧倒的に綺麗な方でした。

 でもとにかく、保釈にはなったのですが、よく月69年9月19日は、芝浦工大事件(これは当初は内ゲバ殺人事件と報道されました)になりまして、またその年の12月に逮捕されることになりました。
 そして、この事件の勾留中にも、東大裁判があります。私はこの裁判に出て、他の仲間と連絡が取りたい気持でいっぱいでした。それでこの裁判のときに、芝浦工大殺人事件の被告で、東大裁判の被告が4人いたのですが、みな埼玉県のいくつものところからパトカーで、東京地裁までいくのですが、これがまた実に愉しい旅行でした。
 裁判の場では、一応私たちは、統一公判を訴えますが、とにかく仲間といくつも打ち合せをしまして、いわば芝浦工大事件では敵とされた中核派の活動家とも話をします。全然真相をつかめないブンドの活動家とも話をします。
 そして、傍聴席には、私の弟が来ていて、父の再就職のことを伝えてくれて、私の彼女(まだ「私の彼女」になっていたわけではありませんが)がいて、そして私の高校時代の後輩の女の子も来てくれていて、いろいろな連絡がありました。

 それで、また70年3月に私は再保釈になり、また後輩たちと、70年闘争の隊列の中にいました。だが彼は、このときは、けっこう長く浦和刑務所の拘置所に入っていたかと思っています。

 その後もさまざまなことがありました。彼と一緒に、北浦和で偶然知り合った日の丸土建の仲間と土方の仕事をするようになったのも大きなことでした。私はそもそも日の丸が好きですし、この日の丸土建の仲間も、実に法政大学・明治大学・早稲田大学等の学生活動家集団でした。

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