将門Web

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Tag:60年安保闘争

題  名 21世紀の100人 塩野七生
    「文明の運命」を現代に問い15年かけローマ史に挑戦
著  者 井尻千男=日本経済新聞編集委員
掲載誌 日経ビジネス9月7日号86〜88ページ

11050107 塩野七生の作品を読むと、これはいったい小説なのだろうか、歴史なのだろうかと思ってしまう。それに「レパントの海戦」などというのを読むと、なんだこれはいったい、なにか知識をひけらかしたいのかなどと思ってしまった。それが「ローマ人の物語機廚鯑匹鵑如△い笋海譴楼磴Δ召隼廚せ呂瓩拭
 日経ビジネスではこの「ローマ人の物語」が7月7日刊行ということから、彼女を取り上げたものである。この日は彼女の誕生日であるという。これから毎年7月7日に2006年まで15年かけて、この「ローマ人の物語」を書き上げるということだ。これは大変なことである。結果として15年かかった、いや20年かかったという作品はいくらでもあるだろう。でもこれから15年やり続けると宣言することは、ちょっとなんという決意だろうかと感心してしまうだけである。
 しかもこの本がかなり売れているという。こんなに彼女のファンがいるわけないのだから、これは驚くべきことだなと思う。この現在の世紀末がローマの盛衰と同じ雰囲気をもっているというのだろうか。
 この紹介文を読んで、先に書いた「レパントの海戦」も、「コンスタンティノープルの陥落」「ロードス島攻防記」と連なる3部作であるという。私は耻いってしまった。他の2つも読んでまた論評すべきだろう。
 また今私が読んでいる「海の都の物語−ヴェネツィア共和国の一千年−」とい作品も大変に読み応えのある語り口である。私はこの本を電車の中だけで読むことにしているので、まだまだ読み終わるには時間がかかりそうだが、いやはや随分と私も地中海世界に詳しくなれました。
 私は何故この人はイタリアに生活しているのだろうと疑問であった。「戦後民主主義と60年安保抜きに語ることはできない」というところを読んで、それは氷解したつもりである。

  特にこの世代は大学生の時に60年安保闘争という騒動の中核
  になる。そしてこの事件を、それぞれの方法で総括しないことに
  は表現者になりえなかった。塩野の場合は、イタリアへ渡って総
  括した。日本とイタリアの距離は遠く、それ故にその総括は苛烈
  なものになった。60年安保どころか戦後的ヒューマニズムも近
  代もまるごと総括してしまったようである。

 そして塩野七生の特徴は、キリスト教に踏み込まなかったことである。そうすると必然的にキリスト教以前の古代ローマへ行き着くことになる。

  彼女が15年後に、ローマ帝国の滅亡とキリスト教の関係をど
  う描くか、それは彼女に課せられた最大の宿命だろう。

 まさしく、ここは私も大変興味深いところである。それを塩野七生が描くとき、私は59歳になっているわけなのだなと思う。それまでに私も過去を何らかの形で総括しなければならないのだろう。

  ところで、長い間フィレンツェに住んでいた塩野は、近々ロー
  マに引っ越すという。「ローマ」へ行くたびに地霊のようなもの
  を感じる」という彼女は、今度は歴史を飾った男たちを呼び出し
  て、あの遺跡だらけの街をゆっくりとこころゆくまで散歩するこ
  とだろう。

 たしかに彼女はこれで、ルネサンスの世界から古代ローマの世界に移り住み、あの時代を自由に歩き回るのだろう。そんな彼女を想像するとき、私はとても嬉しくなるのです。(1998.11.01)

11030710 安保闘争は、戦争を体験しない戦後世代にとって内戦体験に相当しているかもしれない。そして、その挫折感は、わたしたちの敗戦体験に、それより規模は小さいけれど匹敵するものがあるとおもう。そこで発揮されたエネルギー量は大なり小なり、わたしたち日本人の自立能力が、ただ権力の言うがままに諾々として武装を解除して故郷へ復員した日本人が戦後十五年でどれだけ変ったか、どれだけ成長したのかの目安を示している。わたしたちの能力は、あれだけのものであった! そのことを噛みしめる必要があると思う。あれだけのものであった、という汚辱感のなかから再び未知の地点へ歩み入るのである。
「思想的不毛の子」1961.12「早大演劇免罪符」パンフレット掲載 「模写と鏡」1964.12春秋社に収録された

 敗戦から15年たって示されたのは「あれだけのもの」であり、「あれほどのもの」だったのかもしれない。私は60年の世代ではないから、それがどちらなのかはわからない。ただ私も「思想的不毛の子」だ。そして60年のときよりは少しは成長できていた時代を作っていたのだろうか。そして現在はどうなのだろうか。

 また、当時も現在もかわらないわたしの基本的なかんがえでは、改定安保条約は、日本国家=憲法の対米従属の表現ではなくて、戦後日本資本主義の安定膨張と強化に伴い、米国と対等の位置を占めようとする日本国家資本主義の米国との相対的な連衡の意志を象徴する法的な表現であった。改定安保条約の第二条(経済協力の促進)における「締結国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また両国の間の経済協力を促進する」という表現、第三条(自衛力の維持発展)における「憲法上の規定に従うことを条件として」という表現、第五条(共同防衛)における「自国の憲法上の規定及び手続に従って」という表現、第八条(批准)の「各自の憲法上の手続に従って」という表現、等はこのことを明示しているといえる。それゆえ、昭和三十五年六月十五日に最大の表現を見出した一連の行動は、岸政権によって保持されている憲法=法国家を本質的に対象とする思想の表現であり、これを媒介とせずしてはどのようなたたかいも維持されないという理念にもとづいていた。
「思想的弁護論−六・一五事件公判について」1965.7.19〜10.11号まで「週刊読書人」に掲載 「自立の思想的拠点」1966.10徳間書店に収録された

 だからこの60年安保闘争は、反米愛国や民主主義擁護の闘いではなかったのだ。この明確なる認識のもとに闘っていたのはブントを中心とする全学連と、吉本さんだけだったと思う。この闘いをまた明確に強力に阻止しようとしたのは、日本共産党であり、また市民民主主義派である。私たちはこのことをけっして忘れることはないだろう。

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