2017082803書 名 BANANA FISH
著 者 吉田秋生
発行所 小学館フラワーコミック
第19巻1994年10月20日初版第1刷発行

a247f72c.jpg 最後の19巻に「光の庭」という言わばこの物語の後日談とでもいうべき短い話が載っています。「BANANA  FISH」の話が終ってから7年後の話です。私はこれを読んでいて、思わず涙が溢れました。どうにも「女の書いた三国志か」なんて、「BANANA  FISH」を斜にみていたのですが、この「光の庭」で、その思いが消されてしまいました。この物語はやはり、愛の物語なのでしょうか。
この漫画を読み終わった頃、ある夜遅く山の手線の池袋から日暮里まで乗っている中で、こんなことがありました。吊革につかまっている女子高校生3人が声高に漫画の話をしています。あまりに大きな声です。その前にはちょうど30代のサラリーマンが7人座っていました。誰も寝ることもせず、スポーツ新聞を読むこともなく、いわばこの3人の高校生の大声に怒っているようです。全員が「お前等、高校生なら漫画ばっかり読んでんじゃないよ」というような顔つきです。
一人の女の子が一冊の漫画を手にして振りながら、他の二人に「これは絶対読むべきよ」と力説しています。内容を詳しく大声で説明しています。そしてまた違う漫画の話をしています。その大声に、もう「限界に来た」というサラリーマンが何か言おうかなという雰囲気に、私は酔いもあって、機先を制して私は彼女たちに話かけました。メモを開いてペンを持ちました。

あの、急に話しかけてごめんなさい。あなたが先ほど話してい
た漫画の題名を教えてもらえますか。私もぜひ読んでみたいので
す。

女の子たちは最初めんくらってようですが、「さっき話していた漫画ですか?」ということで、教えてくれました。驚いたのは7人のサラリーマン達です。
「もっと大馬鹿の、女子高生にゴマする最悪おやじが登場した」という目で私を睨みます。その視線の冷たいこと。でも私とその3人で会話が始まりました。  ところが彼女たちがあげてくれる漫画の数々を私は一つも知らないのです。それで私は苦し紛れに、「バナナフィッシュならいいなあと思っているんだけど」と言いました。そうしたら漫画を一番喋っていた子が、急にパット顔が明るくなり、

バナナフィッシュは最高ですよ。でもあれ19巻があるの知っ
ていますか(つまり19巻はあとで発売されたのだろうと推測し
ます)。その19巻がいいんですよ。

と教えてくれるのです。そうこうしているうちに日暮里駅についてしまいましたが、私は今、その子の言葉が正しかったことを、自分が流した涙で確認できたように思います。

まずこの物語はニューヨークの少年たちの抗争と大人社会との戦いの物語です。主人公アッシュは名前から予測できるように「アイリッシュ」系の少年グレン隊を率いています。その少年が米国の政治経済まで牛耳ろうかとでもいえるような巨大なマフィア組織と戦っていきます。黒人グループや中国人グループとも抗争したり、協力したりするなか「友情」というような形を作りながら、戦いは推移します。その中でたまたまニューヨークに来た日本人の少年と愛を育んでいきます。画面は殺伐とした殺し合いの中で、でもこの愛と友情が最後まで貫かれていきます。そして大きな特徴は、活躍するのが美少年ばかりであり、女性はまずほとんど登場しないということです。
私はどうしても女性の作家というのは、男を美少年たちをこうした存在と想像してしまうのかという思いでした。随分前にある本屋で女性の作家が書いた「三国志演義」を立ち読みしました(題名も作家名も忘れた)。驚きました。周瑜や諸葛孔明がみな同性愛の世界で描かれているのですね。私はなんだか「なんでこうなるの、こうするんだ」と思ったものです。

   <美少年たちの同性愛>
  わたしたちはこの作品のはじめに、じぶんを虚像に同化させるために、不可避的にじぶんの実像を腐蝕してゆく人物たちのうごめく世界を求めたかった。だが作者は束の間のうちに少女コミックにしばし執着されている世界、美少年をめぐる、美少年たちの同性愛の世界を、言語の劇画的な手法で描きたいという願望に乗りかえていったようにおもえる。わたしたちは、主人公の美少年今西良(ジョニー)が、同性愛の行為のなかで終始一貫して、ただ苦痛に身を縮め、顔をひきつらせるだけの、ただのエロス的な愉悦を感じないという <苦> としての設定のなかに、かろうじて作者の資質をみることになっている。こういう <苦> に溺れ込むエロス的な関係は、作者の嗜好以外には存在しえないからだ。
「空虚としての主題−背景のしくみ」1982.4.24福武書店

  これは栗本薫「真夜中の天使」について論じているわけだ。栗本の嗜好でしかないというところが、やはり私にはどうしてもその中に入り込んでいけないところなのだろうと思う。どうにも美少年間の愛を描いた女性による作品というのはどうにも苦手でしかない。どうして女性たちはあのように空想してしまうのだろうか。 (「吉本隆明鈔集」より)

  女性の作家たちは、どうにもどこか勘違いしているような気がしています。どうして女性たちはあのように美少年の形を描いてしまうのだろうなんていつも不思議なのです。私にとっては、あくまで「対幻想」という形が当り前であり、美少年同士では「対」にはなれないのです。そのように私は思ってきました。
「葉隠」でいう「忍ぶ恋」というところの愛は実は男色のことなのですが、これは理解できる気がします。

日本紀愚眼にのぞけば、天地(あめつち)はじめてなれる時一
つの物なれり、形葦芽の如し、是則(すなわち)神となる、国常
立尊(くにとこたちのみこと)とまうす、それより三代は陽の道
ひとりなりして衆道の根元を顕はせり、天神四代よりして陰陽み
だりに交はりて男女(なんにょ)の神いでき給ひ、なんぞ下髪
(さげかみ)のむかし、当流の投島田、梅花の油くさき浮世風に
しなえる柳の腰、紅の湯具、あたら眼(まなこ)を汚しぬ、是等
は美兒人のなき国の事欠ける、隠居の親仁の玩びのたぐひなるべ
し、血気壮の時、詞(ことば)を交はすべきものにあらず、総て
若道の有難き門に入る事おそし、 (井原西鶴「男色大鑑序」)

「唐獅子牡丹」において最後の殴り込みに健さんが出かけると、街角で池部良が匕首を持って待っています。そして同行することを申し出ます。健さんは目で挨拶して了解します。そして二人は死出の旅に出かけます。私はあの二人の道行が「男色」の基本的なものなのように思っています。このことを「葉隠」でも井原西鶴でも言っているように私は思っているのです。
それが、女性が描くとどうしてあのような形になってしまうのでしょうか。

ただし、女性があのようなものと空想してしまうにしろ、この漫画が愛の物語であることには間違いないように思いました。そしてまさしく現代はどうも、愛が「対になる関係」ではなく、「個を確認する」ところから始まるような思いを私はしてきています。
ミシェル・フーコーが亡くなったときに、彼はホモセクシャルでエイズであったと伝えられました。私は彼の言うところはなかなか難しくてよく理解できていなかったのですが、私は吉本(吉本隆明)さんとの対談のころから吉本さんを通すことによっていろいろなことが見えてきていました。かれが歴史をどう理解しているのかというような点が非常に理解しがたかったのですが、次第に何かがつかめてきました。ただ、マルクスが展開するに至らなかった国家の問題を吉本さんは「共同幻想論」において解明しました。その「共同幻想論」におけるもっとも大事なことが「対幻想」という概念であると思います。対幻想が共同幻想と向き合うときに「国家」が成立したといえるのではないか(周はかなりはしょって言っています)ということだろうと思うのです。
そうした私の確認の中で、ミシェル・フーコーの死は、何か違うものでしたた。そしてこれはどうも、現在の世界は「対になる関係」ではなく、男であれ、女であれ、「個を確認する」ところからこそ、愛が始まるのではないのか、と思いはじめたのです。このことは吉本さん自身も言ってきているように思います。
そうしたときに、私はこの「BANANA FISH」を思い出してしまったのです。アッシュが個としての寂しさを根柢に秘めていたからこそ、「人間は本来独りで寂しい存在」なのだということを確認できたからこそ、愛を求めていけたように私には思えているのです。それをとくに、この19巻を読むことにより、深く理解できてきたように思えています。
ともあれ、とにかく読んでみてよかったなと深く感じることができた作品でした。(1995.11.01)

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