将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

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13012714 私の『歎異抄』総結に、YAGURUMAさんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by YAGURUMA   2013年02月17日 23:27
 「外見あるべからず」の限界について
 周さんは、さすがに”私はこうしてインターネット上で公開してしまいました。”と軽々と限界を超えられましたが、この唯円、蓮如に連なる本願寺教団が「親鸞を偶像とする権威主義を確立」した点を古田武彦は『歎異抄』の思想的、歴史的意義を認めつつも、『親鸞思想-その史料批判』 の「第二章 歎異抄 第一節 歎異抄の思想史的意義」で厳正に次のように鋭く指摘しています。
【これに対し歎異抄の著者は、親鸞を継受すると信じつつ、その本質的な善人・聖者批判を脱落せしめた。そして、その地点に、親鸞を偶像とする権威主義を確立せしめたのであった。実に、この点においても彼は、後世本願寺教団の伝統的権威主義への懸橋の役割を有する。彼は本書の序文において、「歎レ異二先師口伝之真言一」と述べ、「口伝」を伝えたるをもってみずからを正統化した。絶対的権威たる親鸞の「口伝」こそ、この著者の「歎異」の拠点なのである。しかし、この著者との同時代にさまざまの「口伝」が存在したことは、著者みずからが証言している。「ひとのくちをふさぎ、相論をたゝんがために またおほせにてなきことをも、おほせとのみまふす」(正像末和讃、三時讃、七九三頁)状況であった。ここに、親鸞をめぐる権威主義の大勢が成立しているを見る。……
 革命的批判精神の創造者が、みずからの門弟や子孫によって、権威主義の偶像として祭られ終わった運命を。】
 これは、吉本さんの『最後の親鸞』を正に思想的に受け継ぐ見地と思います。
 是非、一度
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku2/j2shinra.htmlを一読下さい。13021906

 今になってレスします。遅いのですが、申し訳ありません。なんやかやとありましたね。
 古田武彦さんは何かを読んでいたと思うのですが、今は思い出せません。たしか「邪馬壹国」に関することでしたね。

 私は吉本隆明さんの『最後の親鸞』を『最後の吉本隆明』と読めてしまうのです。
 そうですね。私は蓮如の「御文」の最後は以下に書いてあります。

2011年10月02日蓮如の「御文」を少し思い出しました(2001.01.22)

 この「御文」の最後の「あなかしこ、あなかしこ。あなかしこ、あなかしこ。」くらいしか私は覚えていないです。

 吉本隆明さんは吉本隆明鈔集331「親鸞と蓮如にあるように、次のように言っています。

マルクスの思想は、信じる、信じないにもかかわらず近代思想の一つの場所を占めていて、だれも無視できない意味と影響力があります。
 蓮如の場合も宗派に入ってきた人には有効性や影響力があるけど、信仰しない人、浄土真宗あるいは本願寺に帰依しない人には影響力はないでしょう。通俗性はあるけれど、普遍性はありません。

 私はいつも「吉本隆明さんって、どうしてこんなにマルクスを評価しちゃうのかなあと不満です。私はマルクス主義なんてあこがれたことはないし、そのもともとのマルクスをマルクス主義と分けて考えることもできないです。マルクスは偉大なる哲学でマルクス主義はいわば13021907スターリン主義なのかなあ。私には、みな嫌いです。私の大好きな吉本隆明さんが「何でマルクスもマルクス主義も駄目だった」と言わなかったのか、かなり不満なことなのです。
 古田武彦さんに関しても、私はよく分からないのですが、私のように「信仰しない人」にはよく分からないです(少し私はいいすぎです)。
『歎異抄』だけは、この私もよく読んできました。今もこれからも読んで行きたいと思っています。

12112409  YAGURUMAさんからのメールがありました。長文ですので、私のこれへのレスもまた別に書いて行きます。でも丁寧にありがとうございました。私は「司馬遷『史記』(小竹文夫・小竹武夫訳)」しか読んでいませんので、大変に勉強になりました。
 ただ今まで私が書いてきたことは、膨大な「司馬遷『史記』」の一パーセントにもならない量です。偉大なる司馬遷に、ただただ頭が下がると同時に自分の卑小さに惨めな思いになるばかりです。
 しかも司馬遷は、これを紙に書いているのではなく(まだ紙が存在しない)、竹簡に書いているのですね。ただただ、司馬遷を尊敬するとともに、自分がいやになるばかりです。今は紙ではなく、こうしてパソコンでインターネット上に書けるのですからね。司馬遷がいたら、どんなに嬉しがったことでしょうか。

夏王朝時代の日本列島と史記
12112410  現在、分っていることをコメントさせていただきます。長くなってしまったので、Mailさせていただきます。
  会稽山麓の河母渡遺跡の発掘によりBC4600以降、夏王朝以前の新石器、土器文明が華麗に展開され、一大文明の中枢地帯に当たっていたことが証明されています。
  従って、金属文明である、「夏王朝以降」の中国古代文明は、この「前金属文明の故地」に対する”征服・支配”の上に成立したものです。史記が、この江南の地を、「夏王朝の諸侯集合の地」である会稽(会計)として記録したのは、司馬遷がこのような背景を暗示したと見なされます。
  河母渡遺跡は、「石けつ(けつ状耳飾り)文明」として、中国海(いわゆる東シナ海をふくむ)をはさんで、日本列島(九州から北海道まで)と両岸同一性格の文明として継続し、存在しています。
  尚書には堯典第一の、
   分かちて羲仲に命じて嵎夷に宅らしむ。暘谷と曰う。寅賓、日を出だし,平秩、東作す。
 益稷第五、夏書
   禹曰く、「兪なる哉、帝、天の下を光し,海隅の蒼生に至る。
 君〓、周書
   海隅、日を出だす、 率俾せざるは罔し。12112411

等、「暘谷」の地にいる、嵎夷との交流を語る史料があります。

「堯・舜・禹、夏王朝、周初」の時代は尚書の方が同時代史料であり、後代の史記より確実な史料と見なされます。
 堯・舜・禹から周公に至る時期は、日本列島においては縄文時代中・後期に当たっています。縄文の土器文明が最高度に開花している時期です。「堯・舜・禹」は縄文中期後半(B.C.2500〜2000)、「周公」はB.C.1000頃に当たっています。河母渡遺跡のしめすように、すでに縄文早期末(B.C.5000〜4000)において、大陸・列島間の交流が確認される点から、上の尚書に記された日本列島との交流があったと思われます。
 尚書に記された、これらの記事を、史記が正面からうけとめようとしなかったのは、日本列島との関係が中国(主)〜日本列島(従)ではなかったからです。逆に、日本列島の縄文文明が、「文明中枢」にあり、大陸の方がその影響を受けていた局面も考えられます。それを記すことは、「史記を制約していた中華思想」では許されないということです。 周の第五代の天子、穆王の行歴を記録した 『穆天子伝』にも西方なる西王母の邦に至り、この女王に臣下として貢献した記事がありますが、史記では史実を記すことなく、”好戦的な王にして軍事・外交上の失敗者にすぎぬ人物”として記されています。「儒教」の国家、漢王朝、「中華思想」の国家の「正史」の史家としては、正面から描けず、後代の読者に暗示を与えるに留めたといえます。
12112412 禹は後継者に臣下の益を指名し、子の啓を益の臣下として仕えさせましたが、『竹書紀年』は啓が益を殺して王に即位したことを記しています。しかし『史記』夏本紀では、これを改竄し、啓は有能で人望があるのに対して禅譲された益は諸侯たちの信任を得られず、啓は諸侯たちの推戴をうけて王に即位したとしています。啓が主君を殺して位を奪ったとなれば、それは反逆行為であり、儒教では非難されるべき大事件です。「燕召公世家」を書いた司馬遷は、当然これを知っていたが、『孟子』(万章章句上)をもとにその交代劇を儒教道徳により改竄し、王位の世襲化を正当化しています。

 周代の倭人の記事としては、漢代の王充の『論衡』に次の記事があります。

 周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。(巻八、儒増篇)
  成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す。」(巻一九、恢国篇)

 越裳は今のベトナムの領域に住した種族で、倭人がこれと並んで記されています。紀元前十一世紀、縄文時代後期末、ないし晩期初頭の記事です。
 なお、 和田家文書 、『東日流外三郡誌』には北方の古代の歴史が描かれています。
 今後、考古学、遺伝子人類学他の進展により、これらの状況が明確になると期待されます。なお、稲の起源について最近下記報告がなされました。

【 2012年10月26日 ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域 】
  これまで長い間論争が続いていたジャポニカ米などのイネの栽培起源地について、国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームは、中国南部を流れる珠江(しゅこう、the Pearl River)中流域であるとの研究結果を、英科学誌「ネイチャー」(オンライン版)に発表した。
12112413  研究チームは、アジア各地から収集した野生イネ(ルフィポゴン)446系統、ジャポニカ米やインディカ米などの栽培イネ1083系統のゲノム(全遺伝情報)を解析し、1529系統間の相互関係を明らかにした。さらに遺伝的変異のパターン解析から、ジャポニカ米とインディカ米では55のゲノム領域で、イネの脱粒性や芒(のぎ)の有無、粒幅などの重要な形質について、栽培化による選択が行われていたことが分かった。
  これらの遺伝的な指標を用いてイネの系統進化を解析し、さらに各系統の生息地の情報を比較した結果、イネの栽培化は中国南部の珠江の中流域で始まり、1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれたことが分かった。その後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディカ米の系統が作り出されたと考えられるという。

  イネの起源地についてはこれまで、遺跡の調査結果などから何十年にもわたり論争が続き、インド・アッサム地方から中国・雲南省にかけての地域や、中国の「長江」中・下流域などと12112414の諸説があった。研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている。
 参考 『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』 古田武彦 著
    『夏王朝 王権誕生の考古学』 岡村秀典 著

12112226 私の帝国と王国にYAGURUMAさんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by YAGURUMA   2012年11月23日 15:50
天皇と帝について
 久しぶりにコメントさせていただきます。
 元々は中国の天子(皇帝)に対し倭国王(倭の五王)を名のっていましたが、隋に対して日出ずる処の天子を称し、このため唐と決戦になり白村江の戦いで完敗し、天子に対する天皇と称することとなりました。その後、武家政権の間に中華帝国の冊封体制下を脱し、王政復古の明治維新後、大英帝国等の列国を真似、大帝と称しましたが太平洋戦争に完敗し象徴天皇制となったのは承知の通りです。

 そう思うと、聖徳大使って偉いなとも思いますが、あの流れが「白村江の戦い」になったのですね。でもそう考えると、今の「象徴天皇制」ってすごいな。この「象徴天皇制」って、アメリカが考えたのではと思われていますが、私はあれは日本人の発想だと思うのですね。
 それと次に長文のメールが書かれていますね。ありがとうございます。またゆっくり読んで、このブログ上でレスいたします。

12102917 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUMAさんがコメントをくれました。私が医者にも行く用がありましたもので、中途半端ばかりになりました。
 それで私は当初は、

  司馬遷『史記五帝本紀第一センギョク帝コク』

は書く予定ではなかったのですが、

私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです

と書きましたような具合なのですが、それでも書こうと思ったものなのです。
12102916 いや実は毎日私が本を読んだ記録を書こうと思って、日本、中国・朝鮮他アジア、欧米と書いて行こうと思っているのですが、欧米で、「トーマス・マン『ベニスに死す』」、「トーマス・マン『ワイマルのロッテ』」、「ボッカチオ『デカメロン』」、「ゲーテ『ウィルヘルム・マイステル修業時代』」、「アベラールとエロイーズの書簡集」と考えて、結局まとまらずこれをを書いてしまったのです。

 でも

2. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 17:25
 周 様
 レス了解です。確かに、黄帝記事へのコメントとしては不適切なので取消します。失礼致しました。

を読みました。それで私が少しいきりたっていて申し訳ありません。12102918

 先のYAGURUMAさんの以下は読みました。

 そして、シュリーマンがトロイの遺跡発掘で明らかにしたように神話の中核には歴史の真実が込められています。現在の比較神話学というキリスト教単性社会で発達した学問の限界を超え、歴史の真実を明らかにすることが西欧中心主義による現在の民族紛争の混迷を抜け出す視野を開くのでは。吉本さんのアフリカ的段階につながるのではと考えています。日本の現状は啓蒙思想の段階から抜けきれていないのではと感じます。
12102919次ぎのHPの十以下を参照下さい。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/philolog.html

 そしてまたちゃんと私も学んで行きます。孔子については、私も思うことがあり、また書いて行きます。
 それから私はシュリーマンもトロイの故事も好きですよ。

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