私は漱石はほとんど作品を読んで来ましたが、漱石の最後の作品の「明暗」は、今もどうしても中身が読み込めていない小説です。
そして彼の数ある漢詩も、どうしても読み込めてこないものでした。でもなんとか、漱石の心に迫りたく、今いくつもの漢詩を読んできています。
以下は、漱石が最後に作った詩です。大正5年11月20日夜の「無題」です。「獨唱白雲吟(独り唱す白雲の吟を)」と題名を勝手につけたのは私です。
獨唱白雲吟 夏目漱石
眞蹤寂莫杳難尋 真蹤(註1)は寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く、
欲抱虚懷歩古今 虚懐(註2)を抱いて 古今に歩まんと欲す。
碧水碧山何有我 碧水碧山(へきすいへきざん) 何ぞ我れに有らんや、
蓋天蓋地是無心 蓋天蓋地(がいてんがいち) 是れ無心。
依稀暮色月離草 依稀(註3)たる暮色に 月(つき)草(くさ)を離れ、
錯落秋聲風在林 錯落(註4)たる秋声 風林に在り。
眼耳雙忘身亦失 眼耳(げんに)双(ふた)つながら忘れ 身も亦た失(しっ)す、
空中獨唱白雲吟 空中に独り唱す 白雲の吟を。
(註1)真蹤(しんしょう) まことの人の行いのあと。まことの足跡。
(註2)虚懐(きょかい) 心にわだかまりのないこと。
(註3)依稀(いき) はっきりしないさま。幽(かす)かなさま。
(註4)錯落(さくらく) 散り敷く。入り交じる
まことの足取りは、ひっそりとしてもの寂しく、奥深くて、なかなか求めるのが難しい、
私は心にわだかまることなく、古今の文化を探求した。
緑色に澄んだ水と緑の木々が茂った山の、どこにわたしがいようか、
天地を覆うものは、無心である。
ぼんやりとした、夕暮れの気配に、月は草の上に昇り、
入り交じった秋の気配を感じさせる音があって、風の音は林に起こっている。
眼も耳も感じとることがなくなってしまい、肉体の感覚も失われてしまって、
大空にひとりで、心の歌である白雲の吟を唱っている。風が吹き抜けていくだけだ。
この詩が漱石の最後の詩です。翌日から漱石は死の床につきました。そして12月9日死去しました。
大岡信は、この詩を掲げて、次のように言っています。
漱石は大正五年十二月九日死去。これは最晩年の重要な仕事である漢詩群中絶作となった。漱石の漢詩は風流人の趣味・教養をはるかに脱していた。自己の内面生活の消息に取材して自在に人生を論じた点、近代詩の正統を漢詩の形で貫いたともいえる。この絶作には死の影があるが、言葉の澄明強力なこと、さすがである。(昭和58年8月28日朝日新聞「折々のうた」)
私は少しは、漱石の何かが判ったかもしれないと思いました。私の今は、漱石が亡くなりましたときよりもはるかに上の歳です。それなのに、漱石の前で、ただただ私は羞しいだけです。
「明暗」を読み直してみようと思いました。漱石が晩年をすごした修善寺を歩いてみようと思いました。修善寺は、何度か行きましたが、私にはいつも実朝を思い、頼家と北条政子の心のみを考えるところでした。今度行ったときには、漱石のことを深く思い浮かべようと思っています。
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