将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:実朝

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 こうして日曜日です。源実朝のことを思い、吉本(吉本隆明)さんを思い浮かべています。

2014/01/19 04:1219日です。日曜日ですね。昨日夕方18時代にブルータスから電話をもらって、ものすごく嬉しかったです。
 17日と18日にブルータスにはケータイメールを送っているのですが、こうしてケータイメールというのは喋るのとは違って(メールも同じですが)、記録に残っているのはいいですね。いや喋るということも明確に記録されているわけではないから、かえっていいのですね。
 ここで私は吉本(吉本隆明)さんのいう「『書き言葉』と『話し言葉』」ということを思います。私は『読み言葉』ということも思うのですが、私の中で明確にまとまっていません。
 でもちゃんと考えてみるかなあ。14011702

2014/01/19 04:44今また鎌倉も思い出しました。今度3月におはぎから、みんなで鎌倉へ行こうと言われているのですが(そしてそれは私にはものすごく嬉しいことなのです)、鎌倉江ノ電や大仏、長谷寺を歩くことを思い、小町通りを歩くことを思うと、実朝公が公暁に殺された銀杏の樹のもとを思うと(15日に私は行ったのでした)、なんだかものすごく悲しくなります。実朝様はあのとき28歳なのですね。

  世の中はつねにもがもななぎさこぐ
   あまの小舟のつなでかなしも

 この百人一首の歌が採用されたときに、実朝公の喜びはいかがなものだったでしょうか。
 実は昨日ブルータスと電話で話したときにも、少しこのことも言っています。ブルータスは生徒たちにこの百人一首のことを教えているのですね。いや教えているどころか、ものすごくやっているのです。それで生徒たちも嫌がるどころか、熱心にやっているのです。
 このことは、短歌が嫌いで漢詩のみが好きだった私に実に今大きなことを教えてくれています。藤原定家偉大なりというところです。14011703

 漢詩はいいのですが、短歌ではなく、小倉百人一首はものすごいものをもっています。今そのことが初めて分かった私なのです。
2014/01/19 05:25もう私の孫たち四人のことを思います。私にはもうめちゃくちゃに可愛いばかりなのです。


 今日は三人の孫には会えるのかなあ。会いたい思いです。

13062903  ここの画像は、鎌倉の倒壊する前の大銀杏です。今月の17日に私はこの銀杏を見にいけませんでした。そばまでは行っていたのでしたが。ここには今たくさんの人の銀杏への励ましの言葉が書かれています。
 そして今はまだ小さな銀杏の樹があります。
 鎌倉を歩くと、いつも実朝様のことと、北条一族を思い出します。そしていつもこの銀杏も思い出しています。もちろん実朝の歌も思い出します。
 そうですね、北条一族では政子も北条時頼も思い出していますね。北条義時は怖くて思い出せません。
 この画像は、ウィキペディアの源実朝にあったものです。
 周の掲示板にUPしようと思っていたのですが、ここにしました。

20170516112017051612  バルザックの作品はすべて連作の世界だといいます。私は「谷間の百合」しか読んでいないから分かりませんが。それで以下紹介する作品も長大な連作のなかのひとつの作品です。

書 名 死了
著 者 兵頭正俊
発行所 鋒刃社

この作品は作者の「全共闘記」とされる連作の世界の第5作目にあたります。

<全共闘記>は、近代の総体を否定するという動機のもとに、方法
としての創作思想の転移を、対象的現実との格闘のうちに文学的
に形象化するというもんだい意識につらぬかれた連作の作品世界
である。(「死了魁廚△箸き)

以下の作品群がこの「全共闘記」です。

1.助け舟
2.霙の降る風景
3.二十歳
4.猶予の四日間
5.死了
6.三月の乾き
7.
8.狼煙
9.鏡の国の政治家
10.明日に
11.希望

11041502 第7作は、現在書かれているのか、筆をおいたままなのか分かりません。また6作目の「三月の乾き」も未だ単行本としては出版されていません。私は出版されているものはすべて読み、さらにこの著者の評論もすべて読んできました。2.3.4.5.6は69、70年の立命館闘争にその舞台をおいて作品が展開されます。その中で、この「死了魁廚一番迫力があり、また量的にも一番長い小説でもあります。

この小説は、左翼の運動の中でのある党派の査問殺人事件を描いています。この左翼運動とは立命館闘争の中で展開されています。そしてそれが単なる左翼運動の思い出を書いているかと思うと、まったく別なことが事件の深層にあることに驚くことになります。それは作者自身は自分のことを「新」左翼潮流のひとりではないといっていることに関係あるのでしょう。
そしてこの作品の質をさらに濃くしているのは、この物語の展開と同じに、源実朝の暗殺事件が進行描かれていきます。実は私にはこの実朝の話のほうが興味深く読めたのです。
それは私にとってこの作品が、小林秀雄「実朝」、太宰治「右大臣実朝」、吉本隆明「源実朝」の次に読んだ実朝に関するものだったのです。これを読み終ったあと、またほかの「実朝」を読み返し、やっと「実朝」が分かった気がしました。

物いわぬ四方の獣すらだにも哀れなるかな親の子を思う
いとおしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

いったいどうしてこれらの歌を正岡子規は万葉調の力強い歌といったのでしょうか。さびしげな実朝の姿が浮かんでくるだけではないのでしょうか。私には沖の小島が母政子であり、寄る波が実朝であり、それがわれてくだけるさまがみえてきます。
尼姿の政子がこれらの歌を読みながら「それでもわたしには、夫頼朝のつくったこの幕府が大事なのだ」とつぶやいている姿がうかんでくる気がします。鎌倉幕府ってのは、最初から最後まで暗く暗く、そして生真面目なんですね。 この小説の最後に実朝暗殺の模様を北条義時と暗殺者(この小説では、公暁に似た冠者)が語るところがあります。

「それで将軍は逆らわれたか」
「いえ。将軍はあくまでも冷やかに、太刀を抜かれることもなく
……ああ、おもいだすのも怖ろしい」
冠者は、まるでそうすれば先の暗殺の光景を忘れることができる
というかのように両掌で耳を被う。
「なす術もなく一太刀受けたというのじゃな」
「そうではなかったのでございます。……怖ろしい……。将軍は
わたくしの姿をお認めになるとまるで叱るように近づいてこられ
―」
そこまでいうと、どのような恐怖が蘇ってきたのだろう、冠者
の土いろの唇がぶるぶると顫え始める。
「叱るように?」
「御意。叱るようにお近づきになり、……ああ、怖ろしい……」
冠者はふたたび両掌で耳を被うと、何かを振り切ろうとするかの
ように激しく頭を振った。「将軍はこう仰せられたのでございま
す。公暁殿、ナゼ、ソナタハワタシヲ刺シタノカ」
なぜ刺したのか? 刺したのかといういい方は妙だと思いなが
ら、義時は冠者の顔を凝視した。
「刺されてから実朝がそう叫けんだというのか」
「……それが刺される前に、まるでお叱りになるように……」

私も実朝の最後はこうだったのではないかと思うのです。

この実朝をめぐる政治の流れが、私たちの時代の左翼の運動の中にあったことと同じだというのが作者のいいたいことなのでしょうか。
ただ、私には、私たちが実際に携わった三派全学連・全共闘の時代というのは、たんなる反戦闘争とか学園闘争というのではなく、実に「血みどろの政治」であったかと思います。この小説での査問殺人事件と、実際の私たちの時代にあった「死」とはまったく同じ匂いがするのです。私たちの手もまた血に染まっていたのかなと思ったものでした。(1998.11.01)

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  私がこの本を手にしたのは、中学2年の3学期のことでした。私が読んだのは角川文庫でしたね。
 以下の6篇がありました。「当麻(たえま)」「徒然草」「無常ということ」「西行」「実朝」「平家物語」。みな短編ばかりです。この文庫本を再読したのは、もう50歳を過ぎていたものでした。
11032406 小林秀雄は、1902(明治35)年4月11日〜1983(昭和58)年3月1日の生涯でした。私は一昨日(2010.10.18)八重洲ブックセンターに行きまして、吉本(吉本隆明)さんの本を探す中、この小林秀雄の写真を表紙にしてある本を見ていたものでした。その写真の顔はなかなか私には昔から親しめないものでしたが、もう今ではもういつも思い浮かべる顔になっていました。
 私が五十代になって再読したときに、この『無常といふこと』に『一言放談抄』のことも書いてあるのだな、ということに気がついたものでした。この本『一言放談抄』は、私が当時必死になって読んでいた書物でしたね。私は吉本隆明さんの講演でこの書物を知ったものでした。
 小林秀雄の晩年に書いた『本居宣長』は私には少しも親しめない本でした。いや親しめないというより、少しも内容に感心しませんでした。でもこの『無常といふこと』という短編はいつ読んでも感心している書籍です。(2010.10.20)

577c9ef8.jpg 今朝は「読書さとう」で「太宰治『右大臣実朝』」を書きました。私は実朝は大好きですが、この太宰の描く実朝は今もその顔がはっきりしません。思えば、実朝は28歳で公暁に殺されるのですね。「公暁殿、ナゼソナタハ私ヲ刺シタノガ」と実朝はいうのです(これは太宰がいうのではありません。『死了魁戮箸い作品上でです)。「刺シタノカ」と自分の事件を過去形でいうのです。太宰の実朝では実朝はいいます。「平家はアカルイ。…アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」。
 今度なんとしても実朝が殺されたとき、公暁が隠れていた銀杏の元に行きます。いや風で倒れたけれど、緑の芽が出ているというのを確認したいのです。いつも孫の前で百人一首の実朝の歌を電子手帳で聞いています。
 写真は4月17日の午前6時23分の玄関にあったお花です。綺麗なお花です。(04/24)

 一つ前にUPしましたように、この記事が毎日新聞にありました。吉本(吉本隆明)さんの顔写真もあります。
 たぶん、やっちゃいけないのでしょうが、以下全文をコピーします。6911b861.jpg

 今月19日は小説家、太宰治(1909〜48)の生誕100年に当たる。次々と愛読者を招き入れ、今も色あせることのない作品世界の魅力は何か。没後60年を超えた「永遠の人気作家」は、どこにいて、どこへ向かうのか。ベテランから若手まで4人の文芸評論家が、さまざまな視点で語る。初回は「若いころから大ファンだった」という吉本隆明さんに聞いた。

 ◇本質知る反問の人 親密な文体の背後に重さ
 以前から「青年期に心から没入した」作家の一人に、太宰を挙げてきた。

 「どの作品も隅から隅まで読みました。太宰が死んだ直後、同じ大学で親しかった奥野健男(太宰研究で知られる文芸評論家。故人)と2人で酒を飲んで追悼しました。『誰も太宰の本質を理解していない。分かっているのは、おれとお前だけだ』と話したものです。それくらい好きで、嫌いな作品は一つもありません」

 衝撃的な死から60年以上たった今も読まれ続ける秘密は何か。

 「文体の親密性が特質として挙げられると思います。しばしば<軽さ>と見られるところでもあります。だけど僕は<軽さ>と見るのは知識人の間違いで、親しさの密度が濃い文体なんだと解釈しています。実際は夏目漱石にも決して劣らない重さをもっています」

 では、その隠れた重さは、どこから来るのか。

 「生涯の経歴と作品を総合して考えると、太宰は『人生をやっちゃった』後に本格的に書き始めたといえます。思想的には学生時代に左翼運動に深入りしましたし、女性との関係では生前に2度心中事件を起こしています。心中事件について太宰を悪人のように言う人もいますが、僕はそこにも太宰という人間の受動性、<人間らしさ>が含まれているのを感じます。一人の作家になる前に人間が普通やるようなことは大抵やっちゃったというのが特徴で、これは岡本かの子や宮沢賢治など、僕が敬意を払う文学者はみんなそうです」

 <人間らしさ>をうかがわせる具体的な作品についても語ってくれた。まずは『富嶽(ふがく)百景』。

 「富士の見える宿で文士らしく執筆に励もうとした作家(太宰)が、仕事がはかどらずごろごろしていると、その宿の娘に『ちっとも進まないじゃないの』とたしなめられる場面があります。娘は文学を知らない人として描かれています。こういう無償の善意から励ましを与えてくれる人間像を、自らの対照として必ず登場させています」

 『みみづく通信』にも太宰の特徴を示す場面があるという。

 「少し売れるようになり旧制新潟高校に初めて講演に呼ばれた時のことを書いた短編です。講演の後、文学の好きな学生たちと雑談していて、作家になった理由を『他に何をしても駄目だったから』と答えると、一人の学生が『じゃあ僕なんか有望だ。何をしても駄目だから』と調子に乗って話します。すると太宰は真顔になって『君はまだ何もしてないじゃないか』と言う。いかにも太宰だと思わせるところです。何か自分の琴線に触れることがあると、それを言わずにはおれないんです」

 話は、吉本さん自身の体験につながっていく。

 「学生時代に一度、彼の戯曲を上演するため了解を得る口実で会いに行ったんですけど、その時、あまりに軽く振る舞っているのを見て、『太宰さんは、重たい時ってなかったんですか』と聞きました。そしたら、キッとなって『いや、おれはいつでも重いよ』と答えました。そして『男の本質は何だか知ってるか』と聞いてきました。いい加減なことは言えないと思ったので、『いや、分かりません』と答えると、太宰は『男の本質はマザーシップ(母性)ということだ』と言ったんです。その反応から、いつも本質的なことを考えていて即座に言える人だと分かりました。世間が考えているような人じゃないなあ、と。相手が誰であっても、すぐ切り返す反問の仕方は太宰の特色です」

 そういう意味で「思想性を持った小説家」と評価する。

 「戦後に無頼派と呼ばれた太宰と坂口安吾、織田作之助にはそれぞれ思想性がありますが、太宰ほど総合的で本格的な思想家、革命的な文学者はいません。つまり、世の中がひっくり返るようなことが起こっても『分かり切ったことだ』と言えるだけのものがあります。晩年には『斜陽』『人間失格』など、意識的に構築した優れた作品も残しました。でも太宰文学は全部読まないと誤解されてしまうところがあります。今のように経済危機が叫ばれる時代には、よけい軽すぎると見なされやすいかもしれませんね」【聞き手・大井浩一】09053031

 私は今まで全集をすべて2回読んだものでした。
 そうですね、私が比較的それほど好きでないのは、『斜陽』くらいですね。あとはすべて好きです。いや彼の日記はそれほど熱を込めて読めなかった思いがあります。
 そうですね、今私が好きだと思える作品を思い出せるだけ以下にあげてみます。

ヴィヨンの妻
右大臣実朝
黄金風景
お伽草子
女の決闘
グッド・バイ
新釈諸国噺
惜別
走れメロス

 こんなところかなあ。
 昨日目森さんが、日本近代の作家では、この太宰治と漱石が一番ではないかと言っていましたが、私もまったく同意します。
 でもこの新聞の『みみづく通信』に書かれていることは、私もいつも自分に言われていることばに思えています。

すると太宰は真顔になって『君はまだ何もしてないじゃないか』と言う。

 私はいつも羞しくなってきます。
 そして太宰治と吉本さんは、実際にあっているのですね。太宰の家に吉本さんが行き、一度目は留守で、2度目に訪れたときに、また留守でした。困ったなあ、というときに、家から奥さまに挨拶して帰ると、そこで、お手伝いさんが、「私が言ったっていわないで」ということで、「あの人は駅前の屋台で飲んでいますよ」と教えてくれるのです。そして付け加えます。「あの人はとってもいい人ですよ」。もう私は涙が浮かんで仕方なかったものです。

09053032『駈込み訴え』で、最後ユダがイエス・キリストを売ります。そのときの、ユダの顔は、実朝を暗殺した公暁の顔にそっくりに思えます。私はいつも鎌倉を歩いて、このことを思い出しています。由比ヶ浜で、蟹をむしゃむしゃ食べている公暁のいうことが、イエスを語るユダと同じに思えています。

 私は府中刑務所にいるときに、フランソア・ヴィヨンの詩をすべて読みました。そしてヴィヨンの妻たる太宰の奥さまを思いました。ヴィヨンもめちゃめちゃな生涯の人でしたが、太宰だって同じですよね(いえ、奥さまからみればそうなのです)。
 私が登記に関して、すべて変更になったときに、渋谷法務局で待っていたときに、マイクでで、「青森県の○○さん」と女性のことの呼出がありました。私はそのときに、「あれっ、太宰の奥さんが津軽から出てきているんだ。早く呼出に応じればいいのに……」なんて思ったものでした(もちろん、そんなわけはありません。でもなぜか、このときに津軽から出てきていた女性がいたのでした。でもそれと太宰を重ね合わせて思うのは私くらいです。そしてでもその女性は出てきませんでした)。

『惜別』では、私は魯迅の『藤野先生』よりも好きです。私は魯迅も大好きな作家ですが、この『惜別』も大好きですね。

 また鎌倉を歩いて、実朝のことを思い浮かべようかなあ。

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「突然の出来事でした」を書いた私ですが、同じ まっまっくこのUPで、また涙にくれている私です。

「お母さんのポテトサラダは最高に美味しかった。それとネギの入った卵焼きも美味しかった」

って、妹の4人の子供達は話していたよ。

そういえば私達が小さい頃、母ちゃんがよく作ってくれていた料理だったね。妹も母となってから、この料理を子供達に作ってあげていたんだね。

 私の母もけっして料理を習ったこともなく、けっして上手とは思えなかったのですが、でも私たち息子には、実に口に合った美味しいものでした。今私の妻もけっしてちゃんとした料理とはいえないのでしょうが、いつもひたすら晩酌を勝手に延々している私には実にいいものです。
 私の妻の料理は、別段美味しい料理だと考えたことはないのですが、でも娘二人にも、亭主の私にも、じつにいい料理です。ただただひらすら飲んでいるだけの私にも、実に嬉しい料理です(実は私は夜は、ご飯は食べないで、酒を飲んでいるばかりです)。
 そして私は勝手に酒を飲み続け、勝手に本を読み、テレビを見て、そして勝手に涙を流したりして、そしてパソコンで何かを書いています。
 さきほど長女がポコちゃんと来てくれていました。ポコちゃんは、私の顔を見て、実にいい笑顔で笑ってくれます。でも長女はもちろん、私には厳しいです。

 きょうもひたすら歩きました。いくつもたくさんケータイメールしました。けっこう長いメールも書きました。秋葉原で買い物もしました。あ、きょうは珍しく昼にレストランで食事もしたんだ。あ、きょうも飲みすぎかなあ。
 鎌倉を歩いて、海を見ていたいと思いました。そして実朝公のことを思います。

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