Tag:源実朝
北鎌倉です
あ、だんだん鎌倉に近かずきます
もういくつこのIS01でUPしたのかなあ
こうして鈍(遅い)横須賀線もいいなあ
今東京駅横須賀線逗子行きに乗っています
BBS理髪店にいるときに野村和正さんから電話がありました
ルカ傳福音書第22章
この章を読んで私は「太宰治『駈込み訴え』」の最後のユダの言葉を思い出しました。
はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。
そしてまた私は源実朝を殺害した公暁を思い出すのです。
今に至るも、公暁が持ち去った実朝の首は見つかっていないのです。
第22章
さて過越(すぎこし)といふ除酵祭近づけり。祭司長・學者らイエスを殺さんとし、その手段いかにと求む、民を懼れたればなり。
時にサタン、十二の一人なるイスカリオテと稱(とな)ふるユダに入る。ユダ乃ち祭司長・宮守頭(みやもりがしら)どもに往きて、イエスを如何にして付さんと議(はか)りたれば、彼ら喜びて銀(かね)を與へんと約す。ユダ諾(うべな)ひて、群衆の居らぬ時にイエスを付さんと好き機をうかがふ。 過越の羔羊(こひつじ)を屠るべき除酵祭の日來りたれば、イエス、ペテロとヨハネとを遣さんとして言ひたまふ『往きて我らの食せん爲に過越の備(そなへ)をなせ』彼ら言ふ『何處(いづこ)に備ふることを望み給ふか』イエス言ひたまふ『視よ、都に入らば、水をいれたる瓶を持つ人なんぢらに遇ふべし、之に從ひゆき、その入る所の家にいりて、家の主人に「師なんぢに言ふ、われ弟子らと共に過越の食をなすべき座敷は何處(いずこ)なるか」と言へ。さらば調(ととの)へたる大(おほい)なる二階座敷を見すべし。其處に備へよ』かれら出で往きて、イエスの言ひ給ひし如くなるを見て、過越の設備(そなへ)をなせり。時いたりてイエス席に著きたまひ、使徒たちも共に著く。かくて彼らに言ひ給ふ『われ苦難の前に、なんぢらと共にこの過越の食をなすことを望みに望みたり。われ汝らに告ぐ、神の國にて過越の成就(じょうじゅ)するまでは、我復これを食せざるべし』かくて酒杯(さかづき)を受け、かつ謝して言ひ給ふ『これを取りて互(たがひに分ち飮め。われ汝らに告ぐ、神の國の來るまでは、われ今よりのち葡萄の果より成るものを飮まじ』またパンを取り謝してさき、弟子たちに與へて言ひ給ふ『これは汝らの爲に與ふる我が體なり。我が記念として之を行へ』夕餐ののち酒杯をも然して言ひ給ふ『この酒杯(さかづき)は、汝らの爲に流す我が血によりて立つる新しき契約なり。されど視よ、我を賣る者の手、われと共に食卓の上にあり、實に人の子は定められたる如く逝くなり。されど之を賣る者は禍害なるかな』弟子たち己らの中にて此の事をなす者は、誰ならんと互に問ひ始む。
また彼らの間に、己らの中たれか大ならんとの爭論(あらそひ)おこりたれば、イエス言ひたまふ『異邦人の王はその民を宰どり、また民を支配する者は恩人と稱へらる。されど汝らは然あらざれ、汝等のうち大なる者は若き者のごとく、頭たる者は事ふる者の如くなれ。食事の席に著く者と事ふる者とは、何れか大なる。食事の席に著く者ならずや、されど我は汝らの中にて事ふる者のごとし。汝らは我が嘗試(こころみ)のうちに絶えず我とともに居りし者なれば、わが父の我に任じ給へるごとく、我も亦なんぢらに國を任(にん)ず。これ汝らの我が國にて我が食卓に飮食(のみくひ)し、かつ座位(くらゐ)に坐してイスラエルの十二の族を審かん爲なり。シモン、シモン、視よ、サタン汝らを麥のごとく篩(ふる)はんとて請ひ得たり。されど我なんぢの爲に、その信仰の失せぬやうに祈りたり、なんぢ立ち歸りてのち兄弟たちを堅うせよ』シモン言ふ『主よ、我は汝とともに獄にまでも、死にまでも往かんと覺悟せり』イエス言ひ給ふ『ペテロよ、我なんぢに告ぐ、今日なんぢ三度われを知らずと否むまでは、鷄鳴かざるべし』かくて弟子たちに言ひ給ふ『財布・嚢(ふくろ)・鞋(くつ)をも持たせずして汝らを遣ししとき、缺けたる所ありしや』彼ら言ふ『無かりき』イエス言ひ給ふ『されど今は財布ある者は之を取れ、嚢ある者も然すべし。また劍なき者は衣を賣りて劍を買へ。われ汝らに告ぐ「かれは愆人(とがにん)と共に數へられたり」と録されたるは、我が身に成し遂げらるべし。凡そ我に係る事は成し遂げらるればなり』弟子たち言ふ『主、見たまへ、茲に劍二振あり』イエス言ひたまふ『足れり』
遂に出でて、常のごとくオリブ山に往き給へば、弟子たちも從ふ。其處に至りて彼らに言ひたまふ『誘惑(まどはし)に入らぬやうに祈れ』かくて自らは石の投げらるる程かれらより隔り、跪(ひざま)づきて祈り言ひたまふ、『父よ、御旨(もむね)ならば、此の酒杯(さかづき)を我より取り去りたまへ、されど我が意にあらずして御意の成らんことを願ふ』時に天より御使あらはれて、イエスに力を添ふ。イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈り給へば、汗は地上に落つる血の雫の如し。祈を了へ、起ちて弟子たちの許にきたり、その憂によりて眠れるを見て言ひたまふ、『なんぞ眠るか、起て、誘惑(まどはし)に入らぬやうに祈れ』なほ語りゐ給ふとき、視よ、群衆あらはれ、十二の一人なるユダ先だち來り、イエスに接吻せんとて近寄りたれば、イエス言ひ給ふ『ユダ、なんぢは接吻をもて人の子を賣るか』御側に居る者ども事の及ばんとするを見て言ふ『主よ、われら劍(つるぎ)をもて撃つべきか』その中の一人、大祭司の僕を撃ちて、右の耳を切り落せり。イエス答へて言ひたまふ『之にてゆるせ』而して僕の耳に手をつけて醫し給ふ。かくて己に向ひて來れる祭司長・宮守頭・長老らに言ひ給ふ『なんぢら強盜に向ふごとく、劍と棒とを持ちて出できたるか。我は日々なんぢらと共に宮に居りしに、我が上に手を伸べざりき。されど今は汝らの時、また暗黒(くらき)の權威なり』
遂に人々イエスを捕へて、大祭司の家に曳きゆく。ペテロ遠く離れて從ふ。人々、中庭のうちに火を焚きて、諸共に坐したれば、ペテロもその中に坐す。或婢女ペテロの火の光を受けて坐し居るを見、これに目を注ぎて言ふ『この人も彼と偕にゐたり』ペテロ肯(うけが)はずして言ふ『をんなよ、我は彼を知らず』暫くして他の者ペテロを見て言ふ『なんぢも彼の黨與なり』ペテロ言ふ『人よ、然らず』一時ばかりして又ほかの男、言張りて言ふ『まさしく此の人も彼とともに在りき、是ガリラヤ人なり』ペテロ言ふ『人よ、我なんぢの言ふことを知らず』なほ言ひ終へぬに、やがて鷄鳴きぬ。主、振反りてペテロに目をとめ給ふ。ここにペテロ、主の『今日にはとり鳴く前に、なんぢ三度われを否まん』と言ひ給ひし御言を憶ひいだし、外に出でて甚く泣けり。
守る者どもイエスを嘲弄し、之を打ち、その目を蔽(おほ)ひ問ひて言ふ『預言せよ、汝を撃ちし者は誰なるか』この他なほ多くのことを言ひて譏(そし)れり。
夜明になりて、民の長老・祭司長・學者ら相集り、イエスをその議會に曳き出して言ふ、『なんぢ若しキリストならば、我らに言へ』イエス言ひ給ふ『われ言ふとも汝ら信ぜじ、又われ問ふとも汝ら答へじ。されど人の子は今よりのち神の能力(ちから)の右に坐せん』皆いふ『されば汝は神の子なるか』答へ給ふ『なんぢらの言ふごとく我はそれなり』彼ら言ふ『何ぞなほ他に證據を求めんや。我ら自らその口より聞けり』
そして私はまた「太宰治『右大臣実朝』」のこの言葉を思い出しました。
平家ハ、アカルイ、とおつしやつて、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ
間違いなく、太宰治は、イエスと実朝を同じ存在に思えたのでしょうね。
短歌と俳句についての駄文(2002.06.17)
私は中学生の頃から、韻文では、漢詩は好きだったのですが、日本の短歌や俳句については苦手意識しかありませんでした。その短歌と俳句についてどうでもいいことを少し書いてみたいと思います。
以下で書きました相手の安保(あぼう)君なのですが、
周の三橋美智也の歌「俺ら炭坑夫」(これもいずれまたUPします)
この問答は安保君という文学にしか興味のない学生講師をからかっただけなのです。今はもう大学の日本文学の先生になってしまったのですが、よく彼とはこうした話をしました。
彼は大学と大学院で芭蕉と源氏をやり、そのうちに、私も彼をからかうのもしんどくなってきたものです。たとえば、芭蕉なら「奥の細道」の話で、「芭蕉は実は忍者らしいよ」とかいって、さらに「笈の小文」の話までくらいなら私もできるのですが、
安保「先生、芭蕉にですね、『冬の日』という連歌集があるんで
すがね、御存知ですか? …………これがですね……」
なんてことになると、もう私には手がでませんでした。また源氏も、「末摘花」のところなどなら、私も面白く彼をからかえたものですが、それよりさらに詳しくなるともうお手上げでした。なんせこちらは、当時谷崎源氏しか読んでいないのですから。でも楽しい思い出です。そういえば、ちょうど16、7年前に、お茶の水の丸善で偶然彼と出会ったことがありました。彼は本を買っていたところでした。
私「あッ!安保くんじゃないか。…………」
安保「あッ先生! ……何年ぶりでしょうか?」
………………
私「おい、それより何の本買ってたの?」
安保「いえ、あ、なんでもないですよ………」
彼はその本を隠したがります。無理やりとって見ると、また芭蕉でした。「え、まだこんなことやっているの?」とまたからかいました。その日ひさしぶりに彼と痛飲しました。いまは九州の大学の先生になってしまいましたから、電話くらいでしか話せませんが、また会っていろいろ話したいものです。彼に会う前の晩には、私は芭蕉と源氏をしこたま読んで理論武装していこうと思います。
それでなんでもとにかく私は思うのですが、俳句は連歌から生まれたわけですね。その連歌というのは、なんなのでしょうか。短歌といえるのでしょうか。そうだとすると、俳句は
短歌→連歌→俳句
というように、なってきたものなのでしょうか。でも私にはどうもそう思えないのですね。
なにか短歌と俳句との間にはかなりな違うものを感じてしまいます。なんというか、短歌は短歌として完結してしまっているように思えるのです。俳句をやるかたはまた別の表現行為にその俳句における体験を生かせるようにおもうのですが、短歌は短歌そのもので完結し、終ってしまっているように思います。 どうもうまくいい表せないのですが、たとえば俳句はヨーロッパ語などに翻訳できるように思います。いまウェブの世界でも世界をつないでそのような試みがなされているようです。芭蕉の俳句を英語に翻訳しても、その感動は充分に伝えることができるように思います。だが、短歌とくに「古今集」や「新古今集」での、短歌を英語に翻訳しても、いったい何が伝えられるのでしょうか。
私はそうした完結してしまった短歌とは違って、もっとお遊びとしての連歌があり、その中から、芭蕉という稀有な詩人が俳句を作っていったように思えるのです。
私の友人には何人か、短歌をやる人がいます。時々短歌集を出しています。それを読んでも、私には、どうにも届き難いものに思えてしまいます。私には短歌は実朝で終ってしまっているのです。
もちろん私は「万葉集」よりは「古今集」のほうが好きなのですが、それにしてもどうにも近寄り難いものが短歌になってしまっているという感じですね。 芭蕉の存在は、その連歌から俳句の自立のときであり、「冬の日」は大事な位置を占めているのかもしれません。
ただ、私ももっとここのところをもっと展開できるよう、もっと勉強すべきなのだと思っています。
第77回「『悪人正機』『源実朝』『源氏物語論』」
Wednesday, January 05, 2005 6:35 PM
Re: お願いがあります
萩原周二様
あけましておめでとうございます。旧年中はSCAPAランドマークプラザ店のHPやメールマガジンを多くの方々にご紹介いただき、また、12月にはお買い上げを賜り、本当にありがとうございました。どうぞ本年度も宜しくお願い申し上げます。
そして、お返事が大変遅くなりまして申し訳ございません。セールがようやく落ち着いてまいりまして、通常業務にも手を伸ばすことができるようになりましたので、遅れ馳せながらメールをさせていただきます。
お便り紹介コーナーの件、了解いたしました。私も配信を楽しみにしております。ただ、私達のことをとても美人だと錯覚される読者の方がいらっしゃるのではないか?ということだけを私達は心配しております…。
そしてこれはウーロンの個人的な話なのですが、今年の『初読み』本は、吉本隆明さんと糸井重里さんの『悪人正機』にしました。たいへんに面白く、そして“目から鱗”のお話が多く、読後感はとてもスッキリと楽になった気が致しました。『西行論』もそうでしたが、もしHPを通して周さまとお知り合いになっていなければ、読んでいなかったかもしれません。ショップのこととは別に、御礼申し上げます。(今後、『源実朝』『源氏物語論』を読みたいと思っています。でも、『悪人正機』を読んで、折口信夫さんの本も少し読みたくなってきました。どういう順番で読むか思案中です。)
それでは、これから寒さが厳しくなってくるかと思いますが、どうぞお身体ご自愛くださいませ。
SCAPAランドマークプラザ店・ウーロン
Thursday, January 06, 2005 9:37 PM
Re: お願いがあります
私のほうこそ、今年もよろしくお願いします。
お返事が大変遅くなりまして申し訳ございません。
いえ、ホームページで、お忙しい様子は少しは判っているつもりです。忙しいとこころに、面倒な用件で申し訳ありません。
お便り紹介コーナーの件、了解いたしました。私も配信を楽しみにしております。
ありがとうございます。嬉しいです。
ただ、私達のことをとても美人だと錯覚される読者の方がいらっしゃるのではないか?ということだけを私達は心配しております…。
SCAPAのスタツフの方が、実に綺麗な方なことは私がこの目と耳で確認しています。私は自信をもって言い切れます。
そしてこれはウーロンの個人的な話なのですが、今年の『初読み』本は、吉本隆明さんと糸井重里さんの『悪人正機』にしました。たいへんに面白く、そして“目から鱗”のお話が多く、読後感はとてもスッキリと楽になった気が致しました。
いや、これは嬉しいです。吉本さんの言われる内容は、実に私もすべていいのですが、糸井さんもいいですね。糸井さんは、私と同じ世代で、法政大学の私たちと同じ活動家(要するに三派全学連のね)だったものですから、親しみがあるのです。
今後、『源実朝』『源氏物語論』を読みたいと思っています。
二つともいいですよ。「源実朝」を読みますと、過去、実朝の歌を「万葉調」の歌なんてかたずけていた、日本の数々の文芸人が「判ってないよな」と思いますよ。ただ、このことは私は以下に書いています。
この本の中での、実朝の歌をどの歌集から「本歌どり」しているかという資料は実にすごいですよ。吉本さんは、この本を1971年に出版されているんですよ。この作業は、もしこのときにパソコンがあれば、実に早くより簡単にできたでしょうが、吉本さんは手でやっているのです。この本が出版されたときに、桶谷秀昭さん(私も尊敬する評論家です)が、ただただ驚いた発言をされていました。「もうこの吉本さんには、俺は勝てない」と思ったんじゃないかな。ただ、残念なことに、彼はこのあと、吉本さんのことを何も述べなくなりました。私は「これじゃ駄目だよな」としか思いません。
このことは以下を参考にしてください。
また「源氏物語論」ですが、これまたぜひ読んでみてください。私も普通の人と同じで「源氏」をちゃんと読むのには、原文で読むべきだと思っていました。でもでも、違うのですよ。そんなことやれば、それだけで一生かかってしまいます。そしてやっぱり、吉本さんのいうとおり、與謝野晶子訳がいいですね。早く読んで内容を知って、源氏の面白さをこそ、早く知ることなんです。 私は学生運動で、府中刑務所の独房に入っていたときに、谷崎潤一郎「新々訳源氏物語」を差入れしてもらって、全部読んだのです。これは母に入れてもらいました。私は谷崎潤一郎が中学生のときから好きで(中2のときに、ほぼ彼の小説は読みました)、それで「源氏なら谷崎さんだ」と思い込んでいたところがありました。だから、読んだのはいいのですが、実は刑務所の中で、私はさっぱり源氏は理解できなかったことにしかなりませんでした。 以下にこのことを少し書いています。
また以下も読んでみてください。
以上の内容は、また折口信夫さんのことにもなります。
でも、『悪人正機』を読んで、折口信夫さんの本も少し読みたくなってきました
小林秀雄が折口信夫さんに、
本居(本居宣長のこと)さんはね、やはり(古事記ではなく)
源氏ですよ
と言われた意味が、私には結局吉本さんを読むことによって判ってきました。小林秀雄さんは、偉大な人ではありましたが、結局は本居宣長が理解できなかったのだなと思います。折口信夫さんは、すごいですよ。
私は、折口信夫さんを読みました最初は、高校一年生のときで、折口信夫全集(中央公論社)の「第二十巻神道宗教篇」でした。もうこれは大変に面白かったものです。次にこの全集で、「口訳万葉集」を読みました。ただただ驚きました。これは折口さんが3カ月で、全万葉集を現代語訳したものですが、もうただ驚くばかりとしかいえないものです。折口さんが、お弟子さんを前に、口で喋り、それを記したものですが、もう「驚く」という言葉しかいえません。思えば、この本を思うときに、私はドストエフスキーの数々の膨大な小説を思いだします。いえ、それは単に、口述筆記という類似点だけなのですが。
どういう順番で読むか思案中です。)
できたら、吉本さんの「源氏物語論」、「源実朝」の順で読まれて、そして膨大なる「折口信夫全集」は、またどれからかゆっくり読まれる(全部読まなくていいと思いますよ、だってもう一人膨大なる柳田国男さんがいます)といいんではないかと思いますよ。萩原周二
(第232号 2005.01.24)
第40回桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』
Thursday, October 16, 2003 11:29 AM
萩原様
桶谷秀昭の『昭和精神史 戦後篇』が文庫になったので読みました。
いいところも沢山あるのですが、吉本さんを避けているのが奇異な印象でした。
村上一郎にも谷川雁にもそれなりに触れています。江藤淳にも触れています。
吉本さんは60年安保に付随して、ちらりと出てくるだけなんて……
桶谷が吉本さんを読んでいないのは考えられない事です。
どういう了見かなと不思議です。
そう言えば、保守派の枠でくくられる人たちは、吉本さんを読んでないはずはないのに、言及しませんね。恐いんでしょうね。けっこうみんな小さいですからね。
『昭和精神史』は敗戦までが良かったですね。目森一喜
Thursday, October 16, 2003 12:46 PM
ちょうど昨日から読み始めました。最初に「第十三章六〇年安保闘争」を読みまして、それから最初からちょうど半分くらいまで読んできました。
いいところも沢山あるのですが、吉本さんを避けているのが奇異な印象でした。
間違いなく避けていると私は思います。
桶谷が吉本さんを読んでいないのは考えられない事です。
どういう了見かなと不思議です。
ある時期、私たちの世代に桶谷さんは、吉本さんと同じように読まれたものなんです。「桶谷って、吉本さんと似てるな」なんていう言い方を聞いたことがありますよ(ただし、私はそう思いませんでしたが)。
ただ、1972年8月に「源実朝」が出たときに、桶谷さんは、たいへんに驚いた発言をしているんですよ。おそらくあのときに、「到底吉本さんには敵わないな」と感じたんじゃないかな。たしかに、あの「源実朝」には、誰も驚いたんじゃないかな。ただ桶谷さんの驚きはもう半端じゃなかったでしょうね。
そして、その頃からもう吉本さんに関しては語れなくなったんじゃないかな。
そう言えば、保守派の枠でくくられる人たちは、吉本さんを読んでないはずはないのに、言及しませんね。恐いんでしょうね。けっこうみんな小さいですからね。
そうですね。私が知る限り、いわゆる「保守派」で吉本さんを活字上で貶したのは、谷沢栄一と渡部昇一かな。ただ二人とも「一体何を言っているのかよく判らない」というような言い方だけです。それに比べて左翼エセ評論家は、ひどいですね。「ただただ吉本さんを貶したい」ということが前提で、それで言及している感じです。思い出せば、三島由紀夫さんは、吉本さんを絶賛していましたね。あれは気持よかったな。
『昭和精神史』は敗戦までが良かったですね。
これは、私も少し読んだときに感じました。でも、もっと考えれば、やっぱり、もっとちゃんと書けば一番良かったんだと思いますよ。吉本さんを普通に評価して展開すればよかったんです。桶谷さんならできるはずだったと私は思いますよ。萩原周二
Saturday, October 18, 2003 6:56 PM
実話時代の書評です。
『昭和精神史 戦後篇』。桶谷秀昭著。文春文庫刊。八百六十七円(税別)。
桶谷秀昭の『昭和精神史 戦後篇』が文庫になった。名著『昭和精神史』の続編である。
前作は戦争に向かってひたひたと収斂してゆく昭和が、悲劇の音調を帯びるところまでを描いた。著者の筆は類を見ない緊張を持って伸び、暗く美しい調べを奏でていた。
そして、その続編たる『戦後篇』にあって、著者は反時代的な精神を追い求めて筆を進める。著者は反時代的な精神から戦後を見ようとしており、その反時代的精神を輪郭づけるために時代精神を持ち出して来るという複雑で手際のいる方法をとっている。
そして、時代精神を読む読み方も反時代的に読んでいる。
これは、著者が戦後を嫌悪しており、そもそも二冊の『昭和精神史』そのものがその嫌悪から発しているためである。
著者にしてみれば戦後を書く時に、他に方法はなかっただろう。そして、この方法は失敗も成功もしていない。
本書は散漫で調和のとれていない印象に終始する。部分部分は共感も出来るし、いい所は沢山あるのだが、なぜか全体の張りがない。筆の伸びもない。
散漫さは戦後の散漫さから来ているのかとも思ったが、どうもそうではない。反時代的な精神とは緊張を持続した精神と見ていいからだ。
もちろん、著者の力が衰えたなどという話ではない。手際を必要とする方法を失敗していないというところで、著者の力量は屈指のものであり続けている事は証明される。
本来なら、このような方法で書ききったら、それは大成功作になるはずなのだ。それが、失敗ではないが、成功とも言えないという結果にとどまっている。あまりにも奇異だ。
この奇異さを抱えながら最後まで本書をたどった所で、著者が語らなかった事を考えた。
本来ならここに書かれるべきであり、書かれねばならない事があるように思える。だが、著者は書いていない。書かれてあるべき事がない事がもどかしさとなり、調和が成り立つのを邪魔している。
表面的には、触れるべき精神には触れている。巻末にある人名表だけを見ればそこに漏れはないように思える。だが、違うのだ。人名表に漏れがあろうとなかろうと、そのような事は些末であり、問題は著者が書くべきことがらを書ききっているかどうかという事だけなのだ。
例えば、桶谷秀昭であればもっと言及があってしかるべき吉本隆明について六十年安保の段であっさりと触れられているにすぎない。しかも、著者が間違えるはずのない間違いを書いて過ごしている。
著者のような周到な読み手が、吉本についてはあまりにも表面的な読みで通り過ぎている。批判するなら批判するでいいし、嫌悪があるならあるでいい。
しかし、ここでの著者の振るまいは批判にもなっていない。何か、気にくわないとつぶやいてみたという程度の事で過ぎているのである。
こうした形で、著者が通り過ぎてしまったものに、時代も反時代も含めて、昭和戦後の重要な出来事と精神があったのではないか。著者はどうしてか、その部分への言及を躊躇し、避けたように感じられてならない。
本書が成功でも失敗でもないのは、その前で立ち止まってしまったからだ。著者は何を封じたのだろう。それでも本書は水準を超えた作品となっている。目森一喜
(第171号 2003.11.24)
伊豆の家族旅行 の2(2004.08.30)
タクシーを降りたら、少し雨が降ってきます。修善寺に入りました。私は娘たちに岡本綺堂の「修善寺物語」の源頼家の話と歴史の中の頼家の話をしますが、娘たちは少しも知りません。ただ、あまりに頼家の最後の殺されたところは、詳しくは話せません。あまりに惨酷すぎますもの。頼家の屍体を見た息子一幡にはどれほどショックなことだったでしょうか(頼家の屍体には顔がなかったと言われています。鎌倉武士団はこの将軍を心の底から憎悪したのでしょうね)。修善寺で、夜叉王(実在の人物ではなく、「修善寺物語」の主人公)の作った頼家の仮面を見て、娘たちは少しは理解できたのかな。
そこから、すぐ近くの独鈷の湯を見ました。今はここには入れません。私なんかひとが見ていてもすぐに裸になってお湯に入るのですが、あそこでは駄目でしょうね。万人から止められるでしょう。
桂川の中に湧いている独鈷の湯でのブルータスです
独鈷の湯を出たところでおはぎです。この後のお蕎麦屋さんで食事しました
それから、4人であちこち歩きました。遊歩道が素敵で、4人で感激していました。また雨が激しくもなります。「伊豆は雨が多いんだよな」と、私は温泉新聞での集金旅行を思いだします。あちこちで雨に会ったものでした。
桂川を渡る桂橋です
それと桂川の対岸に古い旅館をいくつか見ました。「あ、あれが河鹿荘か、懐かしいな」、また私は温泉新聞時代を思い出します。
弘法太子さんです。手にしているもの(名前を忘れた)でつつくと独鈷の湯が湧いたといいます
ブルータスがお湯をかけています。自分のクラスの子どもたちを思い出しているかもしれません
今度はおはぎがお湯をかけます。私もかけたと思いましたが、忘れました
それからあちこち歩いて、頼家のお墓にいきました。階段の上にあるお墓に「では、パパが代表してお参りしましょう」と言って階段を登ります。そして降りてきて、
頼家に、「もうお母さんを赦してあげてね」と言ってきたよ
といいますと、おはぎもブルータスも頼家のお墓にお参りに階段を登りました。
政子母は、実の子どもたち(たちというのは、結局また実朝も殺すことになるのですから)を殺したのは、実に長年貴族に虐げられてきた鎌倉武士団の作った幕府こそが大事だったのだと伝えました。「修善寺物語」の原点になった夜叉王の作ったとされる面を娘たちも見たわけですが、あれを見た母政子の気持はどうだったのだろうと哀しくなります。
娘たちは、政治のためには、実の息子を殺してしまうということをひどいものとして深く感じたようですが、私は
そんなこと、鎌倉時代の話じゃないよ。今だって、政治のため
には、会社のためには、実の子どもだろうが、実の親だろうが殺
してしまうような現実がまかり通っているんだよ。
妻が隣で頷いてくれます。
それにしても、こんな鎌倉幕府草創の時代に、一つだけ嬉しいのは、実朝の歌が存在したことですね。実朝の存在はとても悲しく終わるわけですが、彼が歌ったいくつもの詩は、私には忘れることのできないものばかりです。
ただ、この実朝の歌をすぐに娘二人に教えようとしても、私の口からは、少しも正確な全文が出てきません。ただ一つ
大海の磯もとどろによする波
われてくだけて裂けて散るかも
が出てきたのは、お昼に入った蕎麦屋さんで、ビールを飲んだときでした。私は頼家の物語も娘たちに話すのですが、おはぎが後で
もうパパはごちゃごちゃもごもご言うだけで、全然話が判らな
いよ。さっきは途中で、「あ、雨がやんだ」なんて叫びだすし…。
と言ったように、もうちゃんと話せません。だから私はノートパソコンを常時持っていまして、それで私のホームページを差してそれで語り続けるわけなんですが、このときはね、もうビール飲んでいるしね、デジカメも撮るし。
そして、「さて、もうホテルへ行こうぜ」ということになりました。もう午後2時を過ぎています。
短歌と俳句についての駄文
私は中学生の頃から、韻文では、漢詩は好きだったのですが、日本の短歌や俳句については苦手意識しかありませんでした。その短歌と俳句についてどうでもいいことを少し書いてみたいと思います。
以下で書きました相手の安保君なのですが、
周の三橋美智也の歌「俺ら炭坑夫」(これはそのうちに読めるようにします)
この問答は安保君という文学にしか興味のない学生講師をからかっただけなのです。今はもう大学の日本文学の先生になってしまったのですが、よく彼とはこうした話をしました。
彼は大学と大学院で芭蕉と源氏をやり、そのうちに、私も彼をからかうのもしんどくなってきたものです。たとえば、芭蕉なら「奥の細道」の話で、「芭蕉は実は忍者らしいよ」とかいって、さらに「笈の小文」の話までくらいなら私もできるのですが、
安保「先生、芭蕉にですね、『冬の日』という連歌集があるん
ですがね、御存知ですか? …………これがですね……」
なんてことになると、もう私には手がでませんでした。また源氏も、「末摘花」のところなどなら、私も面白く彼をからかえたものですが、それよりさらに詳しくなるともうお手上げでした。なんせこちらは、当時谷崎源氏しか読んでいないのですから。でも楽しい思い出です。そういえば、ちょうど16、7年前に、お茶の水の丸善で偶然彼と出会ったことがありました。彼は本を買っていたところでした。
私「あッ!安保くんじゃないか。…………」
安保「あッ先生! ……何年ぶりでしょうか?」
………………
私「おい、それより何の本買ってたの?」
安保「いえ、あ、なんでもないですよ………」
彼はその本を隠したがります。無理やりとって見ると、また芭蕉でした。「え、まだこんなことやっているの?」とまたからかいました。その日ひさしぶりに彼と痛飲しました。いまは九州の大学の先生になってしまいましたから、電話くらいでしか話せませんが、また会っていろいろ話したいものです。彼に会う前の晩には、私は芭蕉と源氏をしこたま読んで理論武装していこうと思います。
それでなんでもとにかく私は思うのですが、俳句は連歌から生まれたわけですね。その連歌というのは、なんなのでしょうか。短歌といえるのでしょうか。そうだとすると、俳句は
短歌→連歌→俳句
というように、なってきたものなのでしょうか。でも私にはどうもそう思えないのですね。
なにか短歌と俳句との間にはかなりな違うものを感じてしまいます。なんというか、短歌は短歌として完結してしまっているように思えるのです。俳句をやるかたはまた別の表現行為にその俳句における体験を生かせるようにおもうのですが、短歌は短歌そのもので完結し、終ってしまっているように思います。
どうもうまくいい表せないのですが、たとえば俳句はヨーロッパ語などに翻訳できるように思います。いまウェブの世界でも世界をつないでそのような試みがなされているようです。芭蕉の俳句を英語に翻訳しても、その感動は充分に伝えることができるように思います。だが、短歌とくに「古今集」や「新古今集」での、短歌を英語に翻訳しても、いったい何が伝えられるのでしょうか。
私はそうした完結してしまった短歌とは違って、もっとお遊びとしての連歌があり、その中から、芭蕉という稀有な詩人が俳句を作っていったように思えるのです。
私の友人には何人か、短歌をやる人がいます。時々短歌集を出しています。それを読んでも、私には、どうにも届き難いものに思えてしまいます。私には短歌は実朝で終ってしまっているのです。
もちろん私は「万葉集」よりは「古今集」のほうが好きなのですが、それにしてもどうにも近寄り難いものが短歌になってしまっているという感じですね。
芭蕉の存在は、その連歌から俳句の自立のときであり、「冬の日」は大事な位置を占めているのかもしれません。
ただ、私ももっとここのところをもっと展開できるよう、もっと勉強すべきなのだと思っています。(2002.06.17)
吉本隆明全著作(単行本)38
源実朝『短歌』
戦前の時代に源実朝に関した印象深い著作が二つあります。小林秀雄の『無常といふこと』の中にある『源実朝』、太宰治『右大臣実朝』です。どうみてもあの閉塞した時代の流れの中で、どうしてこの二人が実朝について書いていったのか、私には興味深いものがあるのです。
私が長年属しています詩吟の世界では、漢詩だけではなく、和歌や俳句も吟うわけです。ただ私は短歌にしろ俳句にしても、漢詩よりは苦手な意識をどうしても持ってしまいます。ただその中でも、私は日本の最大の詩人であり(と私は思っています)、かつ私の一番好きな詩人である実朝の詩を、今ここで見てみたいなと思うのです。
私には昔から「源家」一族というのは、何にしても血だらけの貴族という印象しかなく、どうしても好きになれない存在でした。滅びの美を感じる平家とは違って、どうしてあれほど同族の中で血を争うのでしょうか。かつまた、武士として始めて関東に政権を開いた頼朝に従う鎌倉武士団の暗さと生真面目さを思うと、これまた溶け込めない気持になってしまいます。
鎌倉武士団はその生真面目さのせいか、王殺しをやりはじめます。彼等にとって、武士の棟梁としての器量のないと見做した頼家のことを、簡単に無残に殺してしまいます。兄を殺された幼い実朝にとって、どんな思いがしたことでしょうか。そしてその兄を殺したのが、自分の実の母親であると知ったときには、もはや自分の運命も見えてしまったことでしょう。
そして鎌倉武士団の長である北条一族と母政子は、実朝で源氏の将軍を終りとして、そののちは京都から藤原氏の貴公子たちを就けることを決めてしまいます。おそらく、側近のものたちからの、実朝様が可哀想だ、なんという怖ろしい母親なのだろうというささやきが実朝の耳にも聴こえていたと思います。
箱根の山をうち出てみれば波のよる小島あり。供のものに此うらの
名はしるやとたづねしかば伊豆のうみとなむ申すと答侍しをききて
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
沖の小島に波の寄るみゆ
私には、箱根山から、小島に打ち寄せる波を黙って見ている実朝の姿が見えるように思います。沖の小島が母政子であり、それに寄せる波は自分自身なのです。
あら磯に浪のよるを見てよめる
大海の磯もとどろによする波
われてくだけて裂けて散るかも
上の二つの詩は健保六年(一二一八)二月一四日箱根伊豆へ詣でたときの歌です。実朝二七歳のときです。
実朝が母のもとへ寄っていこうとしても、ただ空しく「われてくだけて裂けて散る」だけなのです。おそらく母政子はこうした歌を読んでいたに違いありません。源仲章(実朝の側近の貴族、最後実朝と一緒に公暁に殺される)に、将軍の雄大な詩だと説明されても、政子にはこの歌の実朝の寂しい気持が判っていたのではないでしょうか。
ただ政子にとって大事なのは、自分の息子ではなく鎌倉武士団の為の鎌倉幕府なのです。
道のほとりに幼きわらはの母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの
人に尋しかば、父母なる身まかしとこへ侍しを聞て
いとおしや見るに涙もとどまらず
親もなき子の母を尋ぬる
慈悲の心を
物いわぬ四方の獣すらだにも
哀れなるかな親の子を思う
この親と子の心と姿は、実朝が母政子に求めていたものではないでしょうか。
実朝は実に自らの運命をそのまま甘受していきます。政治家としては自分より数段上の存在である北条義時には何を考えても通じそうもありません。そして自分が信頼する幕府の宿老たちは次々と義時の為に亡ぼされていきます。自分をこどものときから可愛がってくれた和田義盛(おそらく小さな実朝をひざの上に乗せて可愛がってくれた義盛たちです)を始めとする宿老たちが不用意なまま蜂起し、亡ぼされるのを目の前にする実朝の気持はどんなものだったでしょうか。しかも、将軍実朝の名にて成敗しているのです。
母にも叔父義時にも何も逆らわない実朝でしたが、二つ(本当は三つと言えるのです。三つめは妻とりのことです)のことだけは言い張りました。一つは宋人である陳和卿に命じて船を作らせ、その船で宋に渡ろうとしたことです。母も義時も止めますが、実朝は船を由比が浜で作らせます。でもその船は何故か海に浮ばないのです。
世の中はつねにもがもな渚こぐ
あまの小舟の網手かなしも
小舟をこぐ漁師たちの手の動きに、自分の寂しい存在を見たに違いありません。私はこの船が鎌倉の海に浮んで欲しかった。実際に宋に行けなくとも、その船に乗った実朝の姿を想像してみたいのです。
そしてもう一つは、実朝が武士政権の棟梁であり、征夷大将軍でありながら、晩年になって、京都政権に官位の昇進をしきりに求めたことです。これもまた義時の意を受けた大江広元から強くいましめられますが、これだけは譲りません。実朝は源家は自分で終るのだから、日本の貴族の名家としての官位が欲しいのです。そして右大臣に健保六年(一二一八)一二月二日任ぜられます。
そして翌年健保七年一月二七日右大臣拝賀の為、鶴ケ岡八幡宮に参詣したとき、兄頼家の子公暁に殺されます。当日実朝の太刀を持つ役目の北条義時が俄病ということで、実朝の側近の宮廷貴族である源仲章が実朝の太刀を持ちます。公暁は仲章のことを義時と思い込んで、これまた殺します。
この拝賀に出かける前に実朝は不吉な歌を詠みます。
出ていなば主なき宿と成ぬとも
軒端の梅よ春をわするな
私にはもう何もかも用意していた実朝が雪の中、公暁の刃を避けることなく受ける姿が想像できてしまいます。実朝はまだ28歳の若さでした。
公暁殿、ナゼ、ソナタハワタシヲ刺シタノダ
(バルザックと同じようなとしか思えない超連作大作である兵頭正俊「全
共闘記」の中の「死了魁廚箸い小説の中での実朝の最後の言葉)
実朝はあの時代に、時代の流れのまま生きて死んでいきました。日本の輝ける貴族源氏の最後の棟梁としての右大臣実朝と、日本の初めての武家政権の源氏の棟梁征夷大将軍実朝としての役割を彼は雪の中を血に染めて終りました。
同時にまた、彼の死は日本の「詩」の一つの大きな経路であったように思います。一人の人格の中で、しかも短い生涯の中で、あれほど時代を象徴し、かつ日本の詩のやがてゆきつく「迷路」を彼は示していたように思います。
私にはこうして実朝の歌を詠んでいくと、実朝の歌が賀茂真淵や正岡子規がいうように「万葉調」の雄大な歌だなんていうのが信じられないのです。ただただ、寂しげな実朝の姿が浮んでくるだけではありませんか。
私が高校生のとき、古典の先生が「万葉集」のみをほめたたえ、「古今集」「新古今集」をけなしていました。そして源実朝の歌はすべて万葉調の雄大な歌でいいと言っていました。
霰
ものゝふの矢並つくろふ篭手の上に
霰たばしる那須の篠原
この歌もずっと典型的な「万葉調」の歌だといわれてきました。那須の原で軍事訓練している鎌倉武士団、その演習を武士の棟梁たる征夷大将軍実朝が見て、雄々しくこの歌を詠っているというのでしょう。だがよくよく読んでいただきたいのです。実朝の心は、単に、軍事訓練をしている武士たちを冷静にただみているだけなのです。その演習を見ている自分の視線を、もうひとりの実朝が寂しくみているだけなのです。
私はこの高校でのある授業で、とうとうこのことを言いました。私はどうしても正岡子規をけなしたかった。彼が短歌の革新なんて言っているのが気にいらなかった。彼はただ江戸時代に先人が言ったことを繰返しているだけではないのですか。まして賀茂真淵の言ったことなんか少しも越えていません。そして、真淵の弟子である本居宣長はこの万葉調と古今・新古今調のことなんか、もう真淵以上のことを言っています。真淵以上のことが判っています。もっと言っちゃえば、「古今集」だって「万葉調」なのだ、といったっていいんですよ。
私は譲らず、そのままになってしまった思いがあります。実朝の歌を「万葉調」の歌なんてかたずけたって、なんにもわかっちゃいないのです。
私は今もそう思うのです。日本が古代律令社会から、中世封建時代に移行する時期に、その時代を象徴する優れた詩人が源実朝だったと思うのです。
私はそのころから今に到るまで、実朝に関する書物で、どれもよく読み込めてきましたのは、最初にあげました小林秀雄『源実朝』、太宰治『右大臣実朝』、そして吉本隆明『源実朝』です。
また鎌倉を歩いて、実朝のことを考えたいものです。
以上はたぶん1998年の秋に書いていたものだと記憶します。その後も実朝の歌に関しては、何度か書いております。
続きを読む鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れる へのコメント

鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れる へやぎさんから以下のコメントがありました。
1. Posted by ヤギくん 2010年03月10日 15:54
周さんの『源実朝「短歌」』をより身近なものとして読ませてもらいました。実朝の歌をあらためて読むのは初めてですが、とても哀しい歌ですね。なんとも心許ない、うしろから抱きしめてやりたくなるような。
その場にいた銀杏が今朝倒れた銀杏だという事に、そして周さんのお母さんが側で腰掛けていた銀杏だという事に感動します。知った上で、見ておきたかったです。
実朝の歌はどれもいいでしょう。だからね、この実朝の歌を「万葉調の歌だ」なんていうことがいかにくだらないかなのですよ。それはただ古今集、新古今集を貶したかっただけです。
正岡子規という方は、ただただそのことではくだらない方でした。本居宣長なんか、そのことはごく普通に言っています。明治の時代に、北原白秋だけが、古今、新古今を普通に誉めているだけです。
でも古今集と新古今集も、今度はその二つの違いが私にはまだよく判らない、展開できないのですね。
そうだなあ、思い出しました。高校のときの古典の先生が古今集、新古今集をただただ貶し、すべて万葉集のみを讃え、そして実朝の歌は万葉調の雄々しい歌だと誉めたたえました。私は、手をあげて立ちまして、そうではない、実朝の歌は「万葉調とか古今・新古今調とかいうものではない。ただただ寂しく感じられる歌だ」と言い張りました。そのときあげたのは、「ものゝふの矢並つくろふ篭手の上に霰たばしる那須の篠原」の歌です。そうでしょう。実朝の視線は寂しいでしょう。高校3年の4月のことでしたね。
この高校の先生と、随分たちまして、もう私が50歳の頃、横浜で会いまして、このことを話しました。私が「どうして実朝は殺されたのか」というようなことを話しましたら、「実朝は、あの銀杏の元で自分で死んだのだ」なんて言っていました。さすがにもう万葉調だ、古今調だ、なんて言わないようになっていました。私は失礼なのですが、「えっ、先生、けっこう勉強されたのですね」なんて失礼なことを言っていました。
でも新聞、インターネットによると、この大銀杏は植え替えられるようですね。少しはほっとします。実は私はこの銀杏を見に行こうと鎌倉まで行こうかと思っていたのでしたが、これらのニュースで少しは安心しています。
母と鎌倉を歩いて、この銀杏の元に母を椅子で座らせていたことを思い出しました。その前に鎌倉の大仏の裏の与謝野晶子の碑のあたりで、リスが私の身体を足から登ったときにも、母は優しく見ていてくれて、私の長女おはぎに説明してくれていました。
また私の孫と娘たち夫婦を連れて鎌倉を歩きます。あ、できたら京都も奈良も神戸も歩きたいな。
鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れる

周のツイッターで、友人のやぎさんが、以下を書いていました。もう私は大変に驚きました。
すごい!幾世紀も風雪を堪え忍んできたのに、春の嵐というのは台風よりすごいのかも。RT mainichijpedit 鶴岡八幡宮の大銀杏ですが、倒れる前の写真も掲載してみました。どれだけ立派だったかが、よく分かります。
ちょうど私は、「蜘蛛業」への「読書さとう」で、「兵藤正俊『霙の降る風景』」を書いていました。それで、ここで、この作家の『死了』を思い出したのですが、この作品はある大学闘争の中での殺人事件を書いているのですが、同時に、この鎌倉三代将軍実朝の暗殺事件のことも描いてあります。
その実朝が殺されたときに、暗殺した公暁が隠れていたのが、この銀杏の木の下です。
私は学生のときから、何度も鎌倉を訪れていますが、いつも実朝のことを思い浮かべていますが、でもこの銀杏のところへほとんど行きません。そもそも私は鶴ケ岡八幡宮に行くことはないのです。頼朝がもともと嫌いなのです。
だからこの銀杏の元に行きましたのは、私の長女が大学に入った1992年の3月のことです。前年の12月8日に私の長女が大学の推薦入学に受かった報があったときに、私の父が亡くなりまして、その翌年3月に、私と妻、長女の3人で母を連れてここを訪れたものです。なんで次女が行かなかったのか覚えていません。
でもそのときに、私の母はもう足が悪いので、この銀杏の元で待っていてもらいました。偶然、私の義父と義母にも会ったものでしたから、みんなでお参りしたのですが、私の母だけは、この銀杏の元に椅子(当日母のために折りたたみの椅子を持っていきました)を置いて待ってもらったのです。
そのときに私は母に、「この銀杏の樹の下に公暁が隠れていたんだよ」と母に説明したものでした。
私は、私のホームページの中で、源実朝「短歌」で実朝のことを書いています。ぜひ読んでみてください。
わが家のおかあさん2010.02.26

私の常時持っている電子手帳では、小倉百人一首を聞くことができます。私はいつも実朝の歌を聞いています。実朝の歌だけはいいです。いつも何故実朝の船が由比ガ浜に浮かんで宋まで行けなかったのだろうと思っています(北条義時が細工したのでしょうが)。いつも鎌倉を歩くと、実朝のことばかりが私の脳裏には思い浮かんでいます。太宰治にも『源実朝』という作品があります。
写真は一昨日手に入れた車椅子です。これはいつもこういう状態で置いています。(02/26)
百人一首の実朝の歌

私の孫のポコ汰が昨日ここに来てくれていました。そのときに私は電子辞書で、音声を聞かせました。その中で、百人一首の源実朝の歌を聞かせました。
世の中は常にもがもな渚こぐ
あまの小舟(をぶね)の綱手(つなで)かなしも
ポコ汰は、まだ2歳になったばかりです。当然、この歌のことなんか判りません。でも静に聴いていてくれました。それは、こんな小さなマシンで声が聞こえるのが不思儀だったのかもしれません。
私の詩歌の館の
http://shomon.net/kansi/siika4.htm#sanetomo
源実朝「短歌」
で、私はこの実朝の短歌について、次のように書きました。
母にも叔父義時にも何も逆らわない実朝でしたが、二つ(本当は三つと言えるのです。三つめは妻とりのことです)のことだけは言い張りました。一つは宋人である陳和卿に命じて船を作らせ、その船で宋に渡ろうとしたことです。母も義時も止めますが、実朝は船を由比が浜で作らせます。でもその船は何故か海に浮ばないのです。
世の中はつねにもがもな渚こぐ
あまの小舟の網手かなしも
小舟をこぐ漁師たちの手の動きに、自分の寂しい存在を見たに違いありません。私はこの船が鎌倉の海に浮んで欲しかった。実際に宋に行けなくとも、その船に乗った実朝の姿を想像してみたいのです。
間違いなく実朝は、自分の死を予想していました。
実朝はあの時代に、時代の流れのまま生きて死んでいきました。日本の輝ける貴族源氏の最後の棟梁としての右大臣実朝と、日本の初めての武家政権の源氏の棟梁征夷大将軍実朝としての役割を彼は雪の中を血に染めて終りました。
また鎌倉を歩きます。鎌倉を歩いて、また実朝のことを思います。ああ、そういえば、実朝の奥さんは、檀ノ浦で滅んだ平家の子孫だったのでしたね。
この実朝の歌を百人一首に選んだ藤原定家の思いをいつも私も思い浮かべています。
今謙信の俳句と実朝を思いました

しばらく、上杉謙信の短歌を読んでいました。周の詩歌の館 の 「上杉謙信の短歌」を読んで、さらに他の詩歌も探してみました。
以下は謙信の俳句です。
月澄まばなおしづかなり秋の海
謙信という人は、月を見ても、秋の風景にもいつも清いものを見ていたのでしょうね。でも実際に彼が生きた世界は実に嫌なことばかりがありました。この句にもその謙信の思いが見えてきます。
それで私は、今 周の詩歌の館 をずっと読んでいまして(たいした量ではありませんから)。やっぱり実朝を熱心に考えていました。
源実朝「短歌」に私は次のように書いています。
霰
ものゝふの矢並つくろふ篭手の上に
霰たばしる那須の篠原
この歌もずっと典型的な「万葉調」の歌だといわれてきました。那須の原で軍事訓練している鎌倉武士団、その演習を武士の棟梁たる征夷大将軍実朝が見て、雄々しくこの歌を詠っているというのでしょう。だがよくよく読んでいただきたいのです。実朝の心は、単に、軍事訓練をしている武士たちを冷静にただみているだけなのです。その演習を見ている自分の視線を、もうひとりの実朝が寂しくみているだけなのです。
やはり鎌倉幕府の中で、実朝はただただ寂しかったと思うのですね。優しいはずの母政子は、優しい母ではなく、頼朝の死後は厳しい政治家なのです。
叔父の北条義時は、自分のことを歌の好きな貴族のおぼっちゃんとしてか見ていてくれません。自分にも源氏の統領としての鎌倉将軍としての気持が充分にあるのですが、誰もそれを認めてくれるような感じはありません。
いつも鎌倉を歩いて、私は実朝の気持、実朝の声を聞きたいのですが、一度も私にはその声が聞こえてきません。聞こえてくるのは、見えてくるのは、北条一族の声と姿ばかりです。北鎌倉から歩くと、私には北条時頼の顔姿が思い浮かびますが、実朝の声も姿も偲べません。
いつも、長谷寺の上から、由比ヶ浜を見て、そこにあるボードセーリングのいくつものセイルを見るときに、同じようにこの海を見ていた実朝のことが思い出されるだけです。
また少し暖かくなったら、鎌倉を歩いてきます。
『死了魁戮離爛ぅ轡絅ン公爵

『悪霊』と『未成年』やらそれに余計なこと に以下のように書きました。
あ、立命館闘争を描いている『全共闘記』という作品にムイシュキン公爵と呼ばれている人物が出てきます。以下読んでみてください。兵頭正俊「死了魁
でも実際にこの私の書評の兵頭正俊『死了魁には、その小説の中のムイシュキン公爵のことは少しも書いてありませんでした。この小説の中で、このムイシュキン公爵は、大きな存在をしめている人物なのですが、でも私は何も書いていませんでした。それに、私のこの本は、我孫子の自宅にありまして、今は参照することができません。
できたら、この『死了魁戮鯑匹鵑任澆討ださい。
でもこの『死了魁戮魎泙鵑澄愾感ζ記』全体でも思うのですが、あの時代を体験した人間は、自分の体験を実に大きな忘れられないものと思っているわけなのでしょうが、それは他の世代でも誰もが同じような大きな体験をしてきていたということなのだろうと思います。
60年安保闘争世代も、その前に日共左派時代の体験世代も、その前の戦争体験でも、その前の2・26事件の世代でも、みな同じじゃないのかなあ。
この『死了魁戮如⇔命館の闘争のことでも、同時に書かれています源実朝の公暁による暗殺事件でも、同じじゃないかなあ。当事者には、それこそ大きな大変な事件だったろうと思います。でも当事者は、誰もが忘れられない大きな出来事であっても、歴史はそれを次第にはるか彼方へ押しやります。そして私たちの記憶に残るだけのものになってしまいます。
このことはもう致し方ないことなのかなあ。
続きを読む周の雑読備忘録「安田元久『北条義時』」
書 名 北条義時
著 者 安田元久
発行所 吉川弘文館・人物叢書
定 価 1,500円
発行日 昭和36年12月25日第一版第一刷発行
読了日 2007年5月4日
私はこの北条義時を思うとき、いつも石橋山合戦において兄宗時が戦死してしまったときのことを考えてしまうのです。おそらく頼朝とともに大庭景親軍と相対していたときに、兄とは違った貌を見せていたのが、この義時ではないのかなあ、と思うわけです。兄はあくまでこの源氏の御曹司のためにこそ死んでも仕方がないと思っていたでしょうが、義時は、この頼朝を立てるのは、あくまで自分たち北条、ひいては鎌倉武士団のためだと思っていたのではないかなあ、と。義時には、源家とはあくまで自分たちの上に置いておく象徴としての貴種でしかないのだと判断できていたのではないでしょうか。
それにしても、義時には、三代将軍実朝とは判りにくい存在だったでしょうね。ただし、この本には実朝のことはほぼ何も出てきません。義時には実朝のいつも書きとめている短歌は、その意味は、さっぱり判らなかったろうなあ。おそらく貴族のお坊っちゃんのやることだとしか思わなかったことでしょう。それがさらには、唐船を作って宋にまで渡ろうという。「なんでもご勝手にどうぞ。だけどあなたは将軍だよ」という気持だったでしょうね。
だけど、このときは、私には実朝の気持のほうが、実朝の寂しい気持のほうにこそに引きつけられます。(私の実朝の短歌への思いは、以下に書いています。
http://shomon.net/kansi/siika4.htm#sanetomo 源実朝「短歌」)
ただ、この本で最後に彼の家庭のことを、次のように書いています。
彼は北条一門の中でも最も幸福な家庭をもち得た一人であろう。
思えば、この義時がいわばこの執権政治を始めたからこそ、北条一族には、たくさんの家ができ、それぞれが競合し強く連合するようにして、この鎌倉幕府を維持していけたのかなあ、と思いました。
周の雑読備忘録「川尻秋生『平将門の乱』」
実に読み応えがありました。私が驚いたのは、この著者が1961年生まれということです。実に私より13歳年下なのですね。そういう年代の方が、こうして、将門について書いてくれていることに、大変な感動の気持になります。
書 名 平将門の乱
著 者 川尻秋生
発行所 吉川弘文館
定 価 2,500円+税
発行日 2007年4月1日第一刷発行
読了日 2007年3月21日
「将門の目指したものエピローグ」には、いくつも納得できることが書かれています。
天慶の乱は、平安貴族の心の中に爪痕を残し、武力に対抗するには武力しかないという認識を植えつけた。いわば、平和維持のために必要悪としての武力の存在を、貴族たちが認めたのであった。
(中略)
従来、源平武士団の実践的武力ばかりが強調されてきたが、それは一面にしか過ぎず、将門の乱の鎮圧者としての「辟邪の武」が武士の成立・成長に大きく影響していたのであった。換言すれば、将門の乱に対する貴族のトラウマが武士を誕生させたと言えなくない。
これは適確な指摘だなあと思いました。
この将門のあと、250年を経て鎌倉武家政権が生まれるのですが、その長の頼朝は、この将門を自ら武士の先輩だと尊敬していたはずです。私は昔から源家というのは、どうにも好きにはなれないのですが、その中で唯一好きなのは三代将軍実朝です。その実朝は、実にこの将門を敬愛しています。
元久元年(一二〇四)十一月、将軍源実朝が絵師に命じて、京都で描かせた二〇巻本「将門合戦絵」が完成した。実朝は、その絵巻をとくに気に入っていたという(『吾妻鏡』)。
このことは、私は鎌倉へ行っても、いつも実朝公に話しかけている内容です。
実朝も、やはり自分たちが関東の武士たちを自立させることができたという誇りがあったでしょうし、そしてその自分たちの最初は、この平将門公だという思いが強かっただろうと思います。
これから、もっと新しい将門公像、新しい将門伝説が生まれてくることを私は信じて疑いません。
道端の石ころみたいな写真ばかり

私のこのごろのブログ将門は、16日、17日に行きました湯西川温泉の写真を掲載しています。まだまだ続くのですが、この旅行中に娘おはぎに言われました。
ちょうど、「平家の里」を歩いていたときです。
長女「なんでパパは、ここであまり写真を撮らないの?」
周「いや、別に、パパは平家って、そんなに好きじゃないんだよな」
長女「あんなにいつも道端の石ころみたいのばかり撮ってブログに載せているのに。こうしたところで撮りなさい」
思えば、私はたしかに毎日道端のどうでもいい写真ばかり撮っていますね。それをみなここのブログ将門にUPしています。
でも、こう言われて、私はそれから、少しデジカメを撮ることに頑張りました。
たしかに私はいつもデジカメを持参していて、いわばどうでもいい写真ばかり撮っていますね。なるべく人の顔が写らないようにしていますし。もちろん、こういう家族の旅行では、家族の顔がはっきり映る写真も撮りましたが、それは見せて、いいものは印刷します。
そうねえ、それに私は承平天慶の時代に、平将門様のもとで戦った関東に於ける下人の子孫であると思っていますので、その将門公を討った平貞盛の子孫が「平家物語」でえがかれている平家の人たちです。
だからその平家のことばかり飾っている、この「平家の里」は私には少しも面白いところではありません。なんだか敵地を歩いていた感じでした。
私は平将門を、尊敬崇拝していた、源頼朝、源実朝のいた鎌倉を歩くのは大好きですよ。
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