将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:魯迅

12090501 このところ将門Webや藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、いくつか書いていました。
 それで私は自分が読んだ文学作品で、ぜひとも書きたいのに、書けない作品があるのです。それは魯迅の『狂人日記』です。私は以下のように魯迅の作品については書いてきています。

  
  阿Q正伝
  ノラは家出してからどうなったか
  野草ー犬の反駁ー

 でも

  狂人日記

については、書こう書こうと思うばかりで、少しも書けていないのですね。
 私が最初に魯迅の作品を読んだのは、中学2年のときに、岩波文庫の『野草』でした。そのあとすぐに竹内好訳の「阿Q正伝・狂人日記」でした。
 そして中でも一番強くひき付けられたのが『薬』という短い小説でした。そしてこの文庫本を何度も読み返し、高校時代に一度、大学へ入って一度読み、大学4年の秋にもう一度読みました。そして、『薬』にも『阿Q正伝』にも、強くひきつけられました。
 だが私には『狂人日記』はどうしても分からない、というか、怖くてたまらない作品にしか思えませんでした。人が人を食うという、そしてそれは自分もやってきたんものではないかと思う、この狂人です。
12090502 なんとか、今度こそ読みまして、その読んだ読後感をここに書いてみます。もう竹内好の訳では何度も読んできました。今度は高橋和巳訳で読んでみます(もちろん、もう何度も読んでいますが)。そしてなんとか私が書けないのでは、私自身がどうしようもない存在だということだけです。

11070507   Thursday, June 21, 2001 8:24 PM
「将門Webマガジン第44号ありがとうございました」

 今回も、何回か読み返しました。
 水に落ちた犬を撃て とはどういう意味なのか、書いてある事を読んでもよく分からなかったからです。
 犬は、野坂参三氏のことなのでしょうか。水に落ちたからと言って情けをかけるべきでない、さらに撃たなければならないほどの人間だということなのでしょうか。
 私は、今生きていない人(歴史上の人などがそうです)を、あまり好きになったり憎んだりしたことがないのですが、歴史の本を読んでいると、現在も過去も変わらないような気がしてきました。(今、再度南北朝と戦国時代の本を読んでいます。)こうして読んでいくうちに歴史上の人々を好きになったりできるかもしれません。10年くらい毎日つづけないといけないかもしれませんが・・。
 先日から、事故にあったり(ケガはないです)仕事でいやなことがあったり(長くつとめた人が亡くなったり退職していきます)落ち込んでいます。
 でも、毎週月曜日を楽しみにしています。なぞのいきものこたつのこっちー

   Sunday, June 24, 2001 8:20 PM
「Re: 将門Webマガジン第44号ありがとうございました」

 水に落ちた犬を撃て とはどういう意味なのか、書いてある事を読んでもよく分からなかったからです。

 この言葉は魯迅の言葉です。そしてこの場合は、野坂参三のことを私は犬と言っているのです。野坂はそもそも故郷の福島を出てきた青年のときから得体のしれない人間です。長谷川慶太郎さんは、野坂のことを「5重、6重スパイではないのか」とまで言われています。私も同感です。
 彼は、私が見る限り、すくなくとも「日本官憲、アメリカ官憲、イギリス官憲、ソ連スターリン主義コミンテルン、中国共産党」のいいなりになる男だったのでしょう。私は戦前のみならず、戦後も自分の仲間である日本共産党の情報を間違いなく日本の官憲およびソ連に流していたと私は思っています。
 こんな男を長年議長および、名誉議長として崇めていた日本共産党というのはいかにひどい存在かということだと思うのです。
 魯迅の言葉はきびしいです。このような言葉がたくさんあります。第44号メルマガの冒頭に書いた「子どもを救え」という言葉ですが、これは「狂人日記」の最後の言葉です。以下のような内容です。

 人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。
 子どもを救え……

 先日から、事故にあったり(ケガはないです)仕事でいやなことがあったり(長くつとめた人が亡くなったり退職していきます)落ち込んでいます。

 私もこのところ3カ月ばかり落ち込んでおりますが、必ず復活しなくちゃと必死です。またやり抜きましょうね。萩原周二
(第49号 2001.07.23)

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2016111433

11060203 私は子どものときから、歴史が好きで、とくに中国の歴史には自分でも実に詳しくなっていることができたかと思っています。大学時代は私はもう日々学生運動ばかりの毎日でしたが、自分の学科の専門では東洋史を選考していました。でも中国の歴史は学ぶごとに嫌なもの、人間として許せないものをいつも感じていました。それは歴史上のことで、いくつもあるのですが、私がここで、書きましたことはどうにも嫌なこと、人間としては許せないことなのです。

   食人
   食人の2
   宦官
    「後宮佳麗三千人」のことで
   纏足

 あと、明日以下を書きます。

    子を替えて食う

 今日本には大勢の中国の人が来ています。ほぼ私よりもはるかに若い方ばかりです。でもそういう方と親しくなって、私はこの「食人、宦官、纏足」に関することを話します。そうすると、みな誰もが「そんなのは、昔のことで、今はもう関係ないことだ」といいます。私はたしかにこれが昔のこととして語れるのなら、それはいいと思えるのですが、どうしても私は親しい友人になったのなら、私の心にわだかまりとして残っているこれらのことを聞いていきたいのです。
 むしろ、同じ日本人のほうが「南京大虐殺」のことをいいたて、そのことで、私を攻撃したりしてきます。私には、どうにも理解できない人たちです。私は互いに相手を非難すること(それに私萩原周二をどうして非難できるのだろう。私はその当時も生きていたわけじゃないよ)よりも、事実をはっきりさせ、もう二度と悲惨なことを私たち自身が起こさないということが大事だと思っています。
 私は書きましたように、宦官は中国だけのことではありません。でもこの日本は明確にこの制度を国内に入れませんでした。食人ということは、嫌な悲しいことで、食料が欠乏する地域・歴史にはどこにもあります。だが、人肉に関する料理本を作っているのは中国だけです。纏足も、実にその女性たちは歩けなくなってしまうのですから、実にひどいことです。
 だが私が書いたこれらのことは実に私が生きていた、この20世紀に存在した事実なのです。
 日本は実にたくさんのことを中国から学んできました。だが、これらのことは日本にはけっして入れてこなかったことです。
 そのことに私はいつも、この日本の私たちの先祖に感謝していることです。そしていつも魯迅を思い、その苦しい思いを私も学びたいと思っているものです。それを苦しんでいる魯迅は、やはり狂人だと思われるのです。そして『狂人日記』という題名にする小説を書くしかなかったのです。でもでも狂人ではなく、本当のことなのです。歴史の上の事実なのです。

11052706 私は魯迅についてはいくつかのことを書いてきたものです。『薬』という作品に関しては、実に感じることがあり、何度か書いてきました。この薬とは人間のいきぎものこと、人間の心臓のことなのです。これは実在した秋瑾の心臓を風邪を引いた男の子に食べさせるのです。もう何度読んでも、何度思い出して、とても辛い小説です。

  http://shomon.livedoor.biz/archives/51887544.html 薬

 でも実は、私は『狂人日記』のほうが私にはすさまじい迫力なのです。ただ、そのことは書けませんでした。「人間が同じ人間を食う」という話は私は書けませんでした。この小説の主人公も「人間が同じ人間を食う」ということで、それが妄想であるということで、狂人と言われているのです。でもこの狂人は、自分の兄も自分を食うのではないかと恐れ、でもさらに実はもう自分もすでに誰かを食っていたのではないかと恐れます。そして彼は、「でもまだ小さい子どもは人間を食っていないのではないか」と思うことで、最後に「子どもを救え」と言っています。読んでいる私たちも少しほっとします。
 でもこの魯迅の書いている恐れ「人間が人間を食う」ということは、実は本当のことでした。実は中国には人肉の料理本もあります。こんなことは他の国では考えられないことです。絶対に他の国、他の民族ではないことであるわけです。
 我が日本では、羽柴秀吉の中国地方の三木城を包囲して兵糧攻めをしたときに、このことがあったと言われています。そしてそれは記録にあります。秀吉は勝利したのち、たくさんの粥を用意したと言われています。また、「武田泰淳『ひかりごけ』」でも戦時中に実際にひかりごけ事件という船の中での食人事件を描いています。
 思い出せば、「パールバック『大地』」でも、息子の軍人が戦争で包囲した相手の砦の中での、この食人のことが書いてあります。このシーンも私はパールバックがよくそのまま描いたものだなあ、と思うばかりです。
 だが、日本ではまったく例外的な恐ろしいこととしてわずかに記されているだけですが、中国の歴史書では、包囲されたところで、あるいはひどい食料事情のときに、「互いに相食(は)む」ということは、実によく書かれているものです。
 このことは、実によく中国では書かれていることですが、この日本にはそのことは少しも伝播しなかったものだなあ、と思い私は少しは安堵するものです。
 私は魯迅に関しては、中学2年のときに、竹内好訳の『阿Q正伝・狂人日記』を読み、その後高校生のときも読み直し、そして大学でも読みましたが、よく判りませんでした。だが、大学5年の頃、やっとその内容が少しずつ判っていったものでした。もうどんなに凄まじい作品ばかりだと思ったものです。
 私は大学3年の夏の終わりに、東大闘争で保釈出所し、そしてまた12月に芝浦工大事件でまた逮捕されました。だが翌年の3月に出所したものでした。この大学4年のときに、早稲田大学の授業を黙って聴講していたのですが、それは新島淳良という先生の授業で、この魯迅の授業を聞いていたものでした。その魯迅の講義の中で、あるときに中国人の留学生の女性が、この『狂人日記』の授業のあと、「先生のきょうの授業はおかしい」という意見質問があったそうです。先生は、「またあとの授業で答えます」と言って、でもその女性はそれっきりになって答えられなかったと言っていました。
 この人が、そのあと、2年後のむつめ祭(埼玉大学の学園祭)に呼んだときに、私は是非ともこの「魯迅『薬』」に関する話を願ったものでした。
 その後、この先生はだんだん、私から見てもおかしな転回をしてしまいましたが、この人の魯迅に関する話はいいなあ、と思っていたものです。
 でもでも、その先生でも『狂人日記』の「人間が同じ人間を食う」話は解説できなかったものだなあ、と私は思っているのです。

10121707  私は岩波文庫の『阿Q世伝・狂人日記』よりも、この作品のほうが先に読んでいます。中学2年の11月に鹿児島のデパート山形屋の前の「センバ」という古書店で購入したものでした。
 読みながらなんだか魯迅のいうことにただただ辛くなった思いです。この作品の中の『犬の反駁』に次のようにあります。

お羞しい次第です。私はまだ銅と銀の区別を知りません。それに木綿と絹の区別も知りません。それに役人と人民の区別も知りません。それに主人と奴隷の区別も知りません。それに……

 私はもともと犬が好きでしたが、この魯迅を読んで、犬を不気味なものに見直したものでした。犬は俺が考えているような存在ではないのだ…。でもそれは魯迅が書いている犬だけなのかもしれません。私の家で飼っている犬には、こうした魯迅の書く犬はいないように思えたものです。
 私はここで言われるように、私自身も「まだ銅と銀の区別を知りません。……」。それだけではなく、もっと知らないのです。それがこの本を読んだときではなく、それから約50年が過ぎているのに、まだ知らないのです。まだ分からないのです。
 また読み直してみます。ただ、辛い思いは心でも感じたくないのです。またインターネット上でいくつも読んでみます。(2010.09.19)

 またこの本を読みたいと思ったのですが、でも私のところにはありません。この本を魯迅の作品では最初に読んだものでした。中学の時で実に読むのが辛かったのを覚えています。これからまた読みなおすにはどうしたらいいかあな。
 また読んでみて、他のところに関しても私の読んだ思いを書いてみます。(2010.12.18)

10121614  私は中国をまず理解するのには、魯迅の小説を読むのがまずいいのではと思ってきました。だが魯迅を理解するのには、実に時間がかかってしまうものだと思っています。私も中学生、高校生、大学生のときと、何度も読んできて、そして社会人になり、今の今になってまた読み返してみて、そのたびに、新しい魯迅に出会っている気がしてしまいます。

書名    阿Q正伝
著者    魯迅
訳者    竹内好
発行所  岩波文庫

  私はときどき飲んで独りで道を歩いているときに、「跡取りなしの阿Q!」などとつぶやいてしまうことがあります。
  魯迅の「阿Q正伝」の中の出来事です。面白くないことのあった阿Qは通りかかった若い尼さんをからかい、頬をつねります。そのときにその尼さんが、泣きながらいうのが、このセリフなのです。この出来事は阿Qにとって大変なことになってしまうのです。
  尼さんは女であり、その頬はすべすべしていました。だから彼は眠れなくなってしまいます。彼は「女、女、女」と考えてしまう。そして、ついにふらふらと趙旦那の女中の呉媽に迫ってしまい、大変な折檻を受けてしまいます。だが、ここで大事なことは、最初の「跡取りなしの阿Q!」という言葉の中にあるのです。

  「跡取りなしの阿Q!」
  阿Qの耳に、またもこの言葉がひびいた。ちがいない、と彼は考えた。
 女がいなければいけない。子が、孫がなかったら、死んでから誰が飯を
  供えてくれるか……女がいなければいけない。

  ここのところをよく読んでいかないと、この小説は判かりません。中国人は祖先崇拝の宗教であり、現世中心なのです。だから、死んでもやがてこの世に帰ってこられます。だが、あの世に行っているときには、子孫が飯を供えてくれなければあの世で飢えてしまうのです。だから跡取りなしは怖ろしいことにまります。そしてその子孫とは男子の子どもだけなのです。だから阿Qがついふらふらと呉媽に「おらと寝ろ」と迫ってしまうのは、ただ女の体が欲しいというのではなく、俺の子ども、俺の子どもの男の子を生んでくれといっていることなのです。
 この「跡取りなしの阿Q!」というところが、高橋和巳の訳では「チョンガー阿Q!」となっています。竹内好の訳文を前に悩んだ高橋和巳の姿が想像できてしまいます。だがどうみても、これは竹内好の訳でないと、阿Qの苦惱は伝わってきません。
  これが中国の「家」の制度です。朝鮮半島の国々まではこの制度をそのまま取り入ました。幸運なことに、我が日本はこれに習いませんでした。なんと幸運だったろうと思ってしまいます。
  以前朝日テレビで韓国の若いOLたちの結婚感を聞いていたことがありました。この日本ではけっして理解しにくいことに、韓国(北朝鮮も)ではけっして同姓の男女は結婚しないというです(これは法で決まっています。ただし同姓でも結婚をしていい姓同士もあります)。韓国も、そして中国も、我が日本のように姓は多くないのですから(いやむしろ驚くほど少ない)、これはどうしてなのだろうと思ってしまうところです。そのときのキャスターの久米宏が、「でもひとめ好きになって、そのあと実は同姓だったということがあるのではないか」という質問をしたのですが、「絶対にありえない、自分の兄弟に恋してしまうようなことだから、ありえない」とそのときの若い女性たちは答えていました。このことを、私たちは充分に理解できるでしょうか。姓が同じなら、みんな兄弟のような同族なのです。そして私たちには不思議なことに、これは男子を直系とする一族であり、自分の母親は同じ一族ではないのです。男女は結婚しても別姓のままであり、相手の家には入らないのです。私の古い友人で、中国人同士の夫婦がいますが、どちらも姓が違います。魯迅を読んでいた私は、「成るほどな」と思ったものでした。

  このことが、「阿Q正伝」の第1章に序文として書かれています。なんでこんな物語の展開とは関係ないようなことをくどくど書いているのだろうと思ってしまう人もいるかもしれません。だが、ここは大事なところになります。ここを読み込まないと、魯迅が阿Qを書く気持は判らないのです。
  吉川英治「三国志」に、諸葛孔明が登場するあたりで、「諸葛」という二字姓は中国では珍しいと書いてあります。そして中国では姓の数は日本とはくらべものにならないほど少ないので、姓からその一族のことは出身地等が判るようです。そして同姓同士なら必ず系図をたどれば、関係してくるはずなのだ。だが阿Qはそもそもその姓がわからないのです。一時は「趙」というのではないかといわれますが、趙旦那に

  「おまえが趙であってたまるか………おまえみたいな奴が、どこを押せば
  趙といえるんだ」

といわれ、殴られてしまい、阿Qは「趙」ではないようです。作者も

   で、私も結局、阿Qが何という姓であるのかわからずにしまったので
 ある。

といってしまいます。だがこれでは、中国人である阿Qにとっては大変に困ることであるはずなのです。
  阿Qはしかし、名前のほうもはっきりしない。だから音から「Q」という字をあてているわけです。

    私が、いささかみずから慰めうる点は、片方の「阿」の字だけは、極め
  て正確なことである。

いったい、何ということでしょうか。この「阿」というのは、日本でいえば、「お梅」とか「お芳」などと名前を呼ぶときの「お」にあたるだけなのです。
 こうして阿Qという人物は、その存在自体が中国人にとってはさっぱり分かってこない存在になるのです。そしてこの時代、この阿Qがそれこそ中国全土に大勢いたことになるのです。
  こうした姓も名前もあやふやな阿Qの「正伝」を作者は書いていくわけです。でもそもそもこの「正伝」とは何でしょうか。このことがまず最初に触れられています。

   伝の名目はすこぶる多い。列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝
  ……だが惜しいかな、どれもピッタリしない。

  阿Qのような人間は、どのようにも扱いようがないのです。だが作者はその人物の「正伝」を書くことにします。これこそが魯迅の愛なのだと私は思ってしまうのです。
  最後に阿Qが処刑されるときには、多くの大衆はただ見物するだけです。誰も阿Qのことを悲しんだりしません。そして阿Q自身も特別嘆いたりするわけでもないのです。おそらくこうしたたくさんの阿Qがいたことでしょう。そしてこの日本にもこの阿Qは大勢いたわけなのでしょう。だが今はもうやっと違う時代になりえてきたと思っています。たくさんの阿Qの子孫たちは、少なくとも、自分の命と自分の生活こそが第一義的に大切なものだという考えをもつに至りました。阿Qであることをもう拒絶しているのです。「跡取りなしの阿Q!」も今はもう昔の物語になってしまうのでしょう。
  それにしても魯迅は何度読んでみても常に新しく感動してしまいます。もし中学生、高校生の人がいたら、是非ともいまのうちに、この魯迅の「阿Q正伝」の載っている「吶喊」を読んでおいてほしいと思います。そしてまた何年かたってまた読み返してほしいのです。きっとそのたびに魯迅の世界は違ってみえてくるはずです。(1998.10.01)

10121613 中国の北京から来たある女性と始めて知り合って飲んだときに、私は魯迅のことを話はじめました。彼女は知らないふりをしました。そうすると、私は「何で中国人なのに、魯迅を知らないんだ」といいます。
 あまりに私が貶し続けますので、ついに彼女は大声で怒り出しました。

  中国人で魯迅を知らない人なんて、誰もいない。

 それならと、私はまた話を続けます。
 実に日本と中国とは「同文同種」などと言われながらも、まったく互いに相手の文化を知らないのではないかという思いに私は囚われます。中国人はさておき、日本人たる私たちも、中国の文化が理解できているといえるのだろうかとたいへんに気になります。
 次の魯迅の『薬』という短い小説も、ただただあっさりと読み終わってしまうのではないかなと思います。いや、この短い小説も、これだけのことを含んでいるのだということを、私はいいたいなあと思いました。互いに相手の文化を理解することによって、日本と中国という不幸な関係が少しでも改善されることを願うからです。

書名 薬
著者 魯迅
訳者  竹内好
発行 岩波文庫「阿Q正伝・狂人日記(吶喊)」の中にある短い小説

 この中の薬とは、人間のいきぎも、夏瑜という処刑された革命家の心臓のことです。
 中国のどこにもいるひとりの父親が大事な息子の肺病を直すため、

  そら、金と品物と引きかえ!

と手にするのが、

「まだぼたぼたたれている」「まっ赤な饅頭(まんとう)」

すなわち、「薬」、革命家の心臓なのです。
 この処刑された革命家とは、現実の世界では、秋瑾女史のことです。武田泰淳の「秋風秋雨人を愁殺す」の主人公です。この武田泰淳の本の最初に日本の袴着物をきて、右手に日本の匕首を抜き身でもっている彼女の写真があります。1907年6月5日処刑されました。魯迅はこの革命家秋瑾女史のためにこの小説を書いたといわれているのです。

 しかし、よく読まなければなりません。この肺病の息子をもった父親が薬を手にして自宅まで帰るところ。

  彼の気力はただ一つの包の上に集中していて、ひとり子で十代血統の
 つながる大事な赤子を抱いているかのように、ほかのことを考える余裕
 がなかった。彼はいま、この包のなかの新しい生命を、わが家に移植し
 て多くの幸福を刈り取りたいのだ。

 中国では、ことのほか男の子を重んじます。現在1人っ子政策(ひどい政策ですね)なんてやっているから、女の子が生まれて、「男の子がほしい」と泣き叫ぶ母親がいるとか、女の子の間引きが多くなったりするといいま。これは何なのでしょうか。
 中国は祖先崇拝です。けっして仏教なんか信仰としては根づかなかった。そして、この世中心なんです。あの世行ったってやがてまたこの世に帰ってくるのです。でもそのためには自分の子孫たちが先祖である自分のために、毎日供物をささげてくれる必要があるのです。そしてそれをやってくれるのは、同じ一族、同じ家の子孫、同じ姓をもった男子の累系に限られるのです。
 中国では(韓国でも北朝鮮でも)、結婚しても男女の姓は変わりません。日本のいま「男女別姓」の問題なんか考えると、画期的なことかもしれません。
 でもこれは、女性は結婚しても亭主の家には入れない、同じ一族にはなれないということを意味します。中国では、女性はただ「腹を借りるもの」であり、人間、子供を生むのは父親なのです。実に歴史書は、つぎつぎに「誰だれ誰だれを生む」という表現がでてきますが、それは男がすべて生んだことになっています。男の気が生むのであって、女の腹は借りものなのです。
 中国ではこの時代に限らず、なにか時の権力者に逆らい処刑されるときは、一族の男みな全部殺害されます。こんな悪い奴は二度とこの世にもどってこれないよう、一族男性全部殺すのです。ただ、母親は亭主が殺され、息子がすべて殺されても、ひとり残ります。同じ一族ではないし、女ですから。だからこの小説の最後に処刑された革命家の母親が登場できるのです。

 「一番の当り屋は、なんていったってここの老栓よ。二番目は夏三爺さ。
 大枚二十五両、まっ白な銀で頂戴してよ、...」
 「夏三爺は抜目のねえやつさ。なあ、もしも訴えでなかったとしてみろ
 よ。あいつだって打ち首の財産没収になるところじゃねいか。それが今
 じゃどうだ。大枚二十五両!………」

 考えてみれば、この夏三爺は甥の夏瑜(実に秋瑾女史はこの小説では男性の革命家になっている)を密告することにより、銀二十五両を手にしただけではなく、自分の命を含め一族全員子孫まで(夏瑜を除いて)の命を助けたのです。
 また革命家の側は、そこまで覚悟しなければ、革命の活動家にはなれなかったのです。したがって、この肺病の子も、心臓を取られる革命家も男なのです。男でなければ、中国の民衆にとって、その迫力が伝わってこないのです。女の子が肺病だったらほっておかれるでしょう。事実のとおり夏瑜が秋瑾女史と同じ女だったら、べつに夏三爺は訴えはしないんです。夏三爺が女だったとしても。
 結局、夏瑜は処刑され、その薬を食べた、大事な息子も死にます。そして最後にこの息子を亡くした二人の母親が、二人の墓へ貧しい土饅頭の墓へいきます。そこで、どうしてか夏瑜の墓だけに

  あきらかに、赤や白の花が円錐形の塚の頂をとりかこんで咲いているで
 はないか。

ということになります。
 最後にカラスがないて、夏瑜の魂が母の前にいたことが分かりますが、この花は夏瑜がやったものではありません。じつにこの花は、多分小説の中にやってはいけないことだろうけれど、どうしても供えざるをえなかった魯迅の気持ちです。
 魯迅は秋瑾女史とまた多くの革命家の魂と、そして多分自分の母親にこの花を供えたのだと思います。(1998.10.01)

 この秋瑾の七言絶句を私は以下で紹介しました。

  赤壁懷古
  

 武田泰淳の『秋風秋雨人を愁殺す』という作品も好きです。この本の表紙が日本刀を抜き身で持っている秋瑾女史がこちらを向いています。(2012.09.05)

 ときどき魯迅の言葉を思い浮かべることがあります。魯迅が1923年12月26日北京女子高等師範学校で行った「ノラは家出してからどうなったか」の講演の最後に次のようにあります。

   もし道が見つからない場合には、私たちに必要なものは、むしろ夢
  なのです。

 ここでの魯迅のいう夢とは一体何なのでしょうか。
 そもそもノラは家出してそのあとどうなったのでしょうか。作者であるイプセン10121610は何も語りませんでした。おそらくノラは家出して、残された家族(つまり夫と子ども)は不幸なことになってしまったでしょう(食事も掃除洗濯もできないし)。そして家出したノラにも、まともな生活は出来なかったに違いありません。もちろん、ノラは炊事洗濯の母親と可愛い人形である妻の座を拒否したのですから、そのあとどうなったかなどというのは、イプセンの書きたいことではないわけです。でも現実には、あの戯曲を見た観客は、「このあとどうなるの?」と思うのは、これまた至極当然なわけです。
 家出したノラには二つのことしか考えられません。子どもと夫を失った悲しさに耐えられないことと、何の経済的うらずけ(つまりノラは働いたことなんかない)がないのだから、そのまま飢えてしまうということです(もちろん飢えない方法に至るかもしれないが、それは当時身体を売ることくらいしか考えられない)。このことは、おおいなな不幸なことであり、観客は誰もそこまで考えてしまうわけです。(註1)

  (註1)こうして書いてしまうと、私がさも女性が「自立」なんて考
   えるからいけないと主張しているように思う人がいるかもしれませ
   ん。そんなところに私の言いたい論点はありません。念の為言って
   おきます。

 そこでやはり言う人がいるでしょう。「優しい母」「可愛い妻」を拒否して「人形ではない人間としての自分」になりたいのなら、まずは独りで生活していけるような能力をつけることだ、と。といっても、それはおいそれと出来ることではないのです。
 だから、ここで魯迅は言うのです。そうした道が見つからないならば、「夢」を見ていればいいのだということなのです。「阿Q正伝」の阿Qは、何も判っていません。彼に対して、いかに自らが奴隷としての存在でしかないと認識しろと言ったって、そう認識してしまうことのほうが、阿Qには不幸なのです。

   人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないことで
  あります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからな
  かったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。

 だからノラも未だ夢を見ていたほうがよかったわけです。そうすれば彼女にも二つの悲惨なことは訪れてはきません。まずは魯迅はそういいたいのです。 だが魯迅は難しいのです。このことの確認点から、さらに彼はいうわけです。

   しかしながら、決して将来の夢を見てはなりません。

 現実の今の夢を直視し、そしてその夢を打ち破らねばなりません。そのことは実にたいへんなことであるわけです。私が、

   

で書いた処刑された革命家は、実は女性革命家であった秋瑾のことです。彼女も家、夫を棄てて、結局は処刑されてしまいました。魯迅はそうした女性を深く見ている訳です。

  魯迅「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓は一つもないし、こ
   わすことも絶対できんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜい
   いる。まもなくして窒息して、みんな死んでしまうだろう。だが、
   昏睡状態からそのまま死へ移行するのだから、死ぬ前の悲しみは感
   じないんだ。いま君が、大声を出して、やや意識のはっきりしてい
   る数人のものを起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どう
   せ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも君
   は彼らに済まぬと思わぬかね」
  魯迅の友人(註2)「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋
   をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか」

    (魯迅「吶喊」自序  竹内好訳  岩波文庫)

  (註2)この友人とはもう一人の魯迅なのでしょうね。

 いったいこの眠っている中国の大衆を起こすことがいかなることなのか、それがどんなことをもたらしてしまうのかを魯迅はノラが元気になった秋瑾女史のような姿に見ているわけです(註3)。

  (註3)「薬」で殺される秋瑾女史は実は怖ろしいくらいの元気なノ
   ラです。武田泰淳「秋風秋雨人を愁殺す」の最初に彼女の写真が載っ
   ています。夫を追い出してしまったという彼女は、日本の着物を着
   て、抜き身の日本の匕首を構えて、こちらを向いています。実に綺
   麗な女性ですが。

 魯迅はやっぱり、どんな苦しみになろうと、魯迅の友人のいう道をとろうと決意したわけです。

   ですから、私は考えます。もし道が見つからない場合には、私たち
  に必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なの
  であります。

 この魯迅のいうことはひるがえっていったい何なのでしょうか。魯迅の描くたくさんの民衆たち、そのひとりひとりの姿。寒さに震え、きょうの喰うものもない一人一人。自分のとなりに、そうした一人の人間がいたときに、その一人を救うために自分が何かをするのではなく、もっと万人の為とかいって、人は悟を開こうとするのではないのか、となりの痩せた男一人にわずかの食べ物をどこからかさがしてくるよりも、人類全部を救う為と称して、菩提樹のもとへ座り込むのではないのか。たくさんの宗教家とかが約束したのも、明日の人類(とかいう)の為というのではないのか。

  「諸君は黄金世界をかれらの子孫に予約した。だが、かれら自身に与
  えるものがあるか」と彼はいっております。それは、あるにはありま
  す。将来の希望がそれです。

 将来の希望では、となりの痩せた男は餓死してしまうかもしれません。魯迅はこうしたことを鋭く言っているのです。
 私がこの将門Web(これは私のブログのみならず、前のホームページも含みます)の中で言ってきたのは、国政とか都知事と都議会とかいうことよりも、むしろ自分がこうして今いるところの会社であるとか地域であるとか団体であるとかいうその場で、人間として当り前のことを貫徹できないのならば、何をいっても魯迅のいうことには迫り得ないのだよということなのです。世界を語り、国政や都政を語ることがいけないとはいいません。だが今こうしているところでそこの夢をどう直視するのかという観点がなければ、結局は「人類」を語り、「世界」を語り、「政治」を語ったとしても、それはただ、「将来の夢」を語っていることでしかないのです。
 私たちがいるその場で、私たちの当り前の夢を語れるのでなければ、国際政治を語ろうと、日本の政治の是非を語ろうと、それは「将来の夢」「将来の希望」を語ることでしかない、菩提樹の下にいる宗教家でしかないのです(なんか釈迦をけなしちゃったかな)。

   私たちに必要なのは、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なので
  あります

                                                 (2001.12.24)

10120903 いつも Spider job  蜘蛛業 に書いております 読書さとう が2010年11月29日~12月08日までのUPしましたものが以下です。これが23回目の10回分になります。

2010/12/08(水)
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
2010/12/07(火)
椎名誠『銀座のカラス』
2010/12/06(月)
魯迅『薬』
2010/12/05(日)
魯迅『阿Q正伝』
2010/12/04(土)
飯嶋和一『始祖鳥記』
2010/12/03(金)
白川静『中国古代の民俗』
2010/12/02(木)
J.フィクス.R.バロン『ハーバード流経営士官教本』
2010/12/01(水)
ジェイムズ・フェニモア・クーパー『モヒカン族の最後』
2010/11/30(火)
島尾伸三『月の家族』
2010/11/29(月)
曽野綾子『太郎物語』

  なんと、きょう(12月9日)に、私は過去扱いました作品を再送してしまうというミスをやってしまいました。なんとなく情けないですね。恥ずかしいです。いや、12月はいっぱいやることがありましてね、こうしたミスもしてしまうのですね。
 でもこうして、自分が読んだ本のことを書いておくのはいいですね。テキストで書いて置いておくと、やがて何年後かにも読みなおすことがあります。そのときが実に新鮮なのですすね。ただ、本そのものはないことが多いから、自分の書いた内容でいくつものことを知ることになります。

aec029b4.JPG きょうこれから蜘蛛業に書くのですが、「読書さとう」は魯迅の『野草』を考えています。いえ、『狂人日記』を考えていたのですが、あれは人を食う話でしょう。ちょっと辛すぎて書けないのです。でもどうしても魯迅は辛いですね。ただこの日本では竹内好さんの訳でどうにか少しは軽い気持になれるのかなあ、なんて思っています。
「人を食う」というのは本当の話ですよ。だからなのか、辛いからなのか魯迅自身は『狂人日記』を『魯迅自選集』からは外しているのです。私は竹内好さんは大好きでもありますが、少し問題があるなあとも感じています。竹内好さんでは、本当に「人を食う話だ」なんて感じられないよ。それが私も竹内好が嫌いな点と、でもでも好きな点でもあります。
 写真は昨日6月17日に撮りました。ご近所にあった紫陽花です。(06/19)

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 この日はブルータスがおはぎの家に泊まっていまして、私が会いに行きました。

2010/02/28 07:29ブルータスがおはぎの家にいるから、私も会いに行きたいな。
2010/02/28 07:33食事してから、おはぎの家へ行きます。みんなの顔を見るのが実に楽しみです。
2010/02/28 08:35十五分くらい前におはぎの家に来ました。ブルータスとポコ汰がブロックで遊んでいます。ポコ汰が自動車のおもちゃをたくさん持ってきました。
2010/02/28 08:43ポコ汰が少しわがままでパパもママも困っています。大好きなブルータスおばちゃんの前でこんなわがままなことは初めてじゃないかなあ。
 じいじの私ではどうしようもできませんね。ときどき声を出すと「じいじ嫌い」なんて言われてしまうのです。そう言われてしまうと、実は私こそが大変な思いになっているのです。
 ミツパパにお腹さすられて、少し元気になったポコ汰です。ポニョは3Fにブルータスおばちゃんと遊びに行きました。
 今思いました。『源氏物語』って何で存在するのかな。なにがいいのかなあ。そのことをちゃんと答えられるようにしましょう。
2010/02/28 10:55もう家に帰ってきました。ちょうど一時間前くらいに帰ってきて、ブルータスにケータイメールしました。たぶんアクアラインのあたりで私のケータイメールを読めたでしょう。
 結構冷たい雨です。
2010/02/28 12:28今電池を換えました。けっこう電池をつかうものです。こうして充電式の電池にして良かったものです。このポメラと電子手帳も常時持っていますので、いつも充電した電池を交換しています。
 でも実は、少し前に魯迅の「狂人日記」のことを書いたのですが、これをパソコンで再度書き直し、書き足していきます。
2010/02/28 17:37三遊亭円楽襲名披露を見ています。もう6代目になるのですね。5代目は笑点を見だした頃から好きでした。あれは私が高校生の頃になるのですね。
2010/02/28 19:37食事が終わりました。ビールも終わりました。

 ブルータスは、生徒たちと「百人一首」の大会でした。でもでも昨日ブルータスが我が家をさるときに、私は「百人一首」の実朝の歌がすらすらと出てきませんでした。ブルータスはすぐに口から出てきました。私は実に情けないです。私はいつも電子手帳で聞いている私の好きな実朝の歌なのです。

 私は魯迅についてはいくつかのことを書いてきたものです。『薬』という作品に関しては、実に感じることがあり、何度か書いてきました。この薬とは人間のいきぎものこと、人間の心臓のことなのです。これは実在した秋瑾の心臓を風邪を引いた男の子に食べさせるのです。もう何度読んでも、何度思い出して、とても辛い小説です。

 http://shomon.net/hon/rozin1.htm#rozinkusu 薬

 でも実は、私は『狂人日記』のほうが私にはすさまじい迫力なのです。ただ、そのことは書けませんでした。「人間が同じ人間を食う」という話は私は書けませんでした。この小説の主人公も「人間が同じ人間を食う」ということで、それが妄想であるということで、狂人と言われているのです。でもこの狂人は、自分の兄も自分を食うのではないかと恐れ、でもさらに実はもう自分もすでに誰かを食っていたのではないかと恐れます。そして彼は、「でもまだ小さい子どもは人間を食っていないのではないか」と思うことで、最後に「子どもを救え」と言っています。読んでいる私たちも少しほっとします。
 でもこの魯迅の書いている恐れ「人間が人間を食う」ということは、実は本当のことでした。実は中国には人肉の料理本もあります。こんなことは他の国では考えられないことです。絶対に他の国、他の民族ではないことであるわけです。
 我が日本では、羽柴秀吉の中国地方の三木城を包囲して兵糧攻めをしたときに、このことがあったと言われています。そしてそれは記録にあります。秀吉は勝利したのち、たくさんの粥を用意したと言われています。また、「武田泰淳『ひかりごけ』」でも戦時中に実際にひかりごけ事件という船の中での食人事件を描いています。
 思い出せば、「パールバック『大地』」でも、息子の軍人が戦争で包囲した相手の砦の中での、この食人のことが書いてあります。このシーンも私はパールバックがよくそのまま描いたものだなあ、と思うばかりです。
 だが、日本ではまったく例外的な恐ろしいこととしてわずかに記されているだけですが、中国の歴史書では、包囲されたところで、あるいはひどい食料事情のときに、「互いに相食(は)む」ということは、実によく書かれているものです。
 このことは、実によく中国では書かれていることですが、この日本にはそのことは少しも伝播しなかったものだなあ、と思い私は少しは安堵するものです。
 私は魯迅に関しては、中学2年のときに、竹内好訳の『阿Q正伝・狂人日記』を読み、その後高校生のときも読み直し、そして大学でも読みましたが、よく判りませんでした。だが、大学5年の頃、やっとその内容が少しずつ判っていったものでした。もうどんなに凄まじい作品ばかりだと思ったものです。
 私は大学3年の夏の終わりに、東大闘争で保釈出所し、そしてまた12月に芝浦工大事件でまた逮捕されました。だが翌年の3月に出所したものでした。この大学4年のときに、早稲田大学の授業を黙って聴講していたのですが、それは新島淳良という先生の授業で、この魯迅の授業を聞いていたものでした。その魯迅の講義の中で、あるときに中国人の留学生の女性が、この『狂人日記』の授業のあと、「先生のきょうの授業はおかしい」という意見質問があったそうです。先生は、「またあとの授業で答えます」と言って、でもその女性はそれっきりになって答えられなかったと言っていました。
 この人が、そのあと、2年後のむつめ祭(埼玉大学の学園祭)に呼んだときに、私は是非ともこの「魯迅『薬』」に関する話を願ったものでした。
 その後、この先生はだんだん、私から見てもおかしな転回をしてしまいましたが、この人の魯迅に関する話はいいなあ、と思っていたものです。
 でもでも、その先生でも『狂人日記』の「人間が同じ人間を食う」話は解説できなかったものだなあ、と私は思っているのです。

 この作品を思い出そうとしたのですが、そして青空文庫で読んでみまして、作品の中に

この湖畔の呉王廟は、三国時代の呉の将軍甘寧(かんねい)を呉王と尊称し、之を水路の守護神としてあがめ祀(まつ)っているもので…

という文で、この甘寧を思い出し、そしてまた太宰治の『惜別』を読んで、これを最後まで読み、私はまた涙を浮かべていました。
 もちろん、魯迅の『藤野先生』もインターネット上で読みました。竹内好の訳したものです。これも読んでまた涙がでました。藤野先生は、魯迅が帰るときに(魯迅は先生には、帰国するとは言っていません)、自分の写真の裏に「惜別」と書いて渡すのですね。これが太宰の小説の題名になるわけです。
 それにしても、この『竹青』も実に太宰治らしい作品です。このカラスの女性の竹青が最後人間になってしまい、そして主人公魚容の妻の顔になってしまうのは、あまりに太宰治がやりすぎだよなあ、とも思ってしまうわけですが、でもでもやっぱりこれでいいです。
 なんだか、太宰治に感心してばかりいる私がいます。

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新聞名 図書新聞第2914号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年4月18日
読了日 2009年4月12日

評者◆蜂飼 耳 魯迅の新訳

 藤井省三の新訳による魯迅『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫)が出た。帯の言葉には「真の魯迅像を忠実に再現」とあり、「訳者あとがき」には「これまでの魯迅の日本語訳は、必ずしも魯迅の文体や思考を十分に伝えるものではありませんでした」とある。それなら、自分がいままで読んできたものは、なんだったのだろう。不十分とされるものによって心を動かされたのだとしたら、動かされたという事実を、どこへ持って行けばいいのだろう。

 ここを読んで、私はすぐにインターネット上で、この文庫本を注文しました。明日読むことができるでしょう。
 私は当然竹内好でしか読んでいません。いや、あといくつかは高橋和巳の訳でも読んでいます。でも高橋和巳には、なにかしら遠慮みたいなものを感じました。
 やはり、「竹内好しかいないよなあ」なんていう思いがあったものでした。

 訳者は指摘する。魯迅の文体に見られる特徴の一つは、「屈折した長文による迷路のような思考の表現」だ、と。それを従来の竹内好の訳では、「多数の短文に置き換え、迷い悩む魯迅の思いを明快な思考に変換している」と。

 私はただただ、新しい魯迅に会えるような思いがしています。それは、私たちにとって、魯迅とは竹内好を通して知ったものだったということを、ただただ知ることなのかもしれません。

2017071722 この詩を読むと、どうしても最初は鼻もちならない女性を感じてしまいます。

秋瑾
本是瑤臺第一枝 本是瑤臺(註1)の 第一枝、
謫來塵世具芳姿 謫(たく)せ来りて塵世に 芳姿を具(あらわ)す。
如何不遇林和 如何せん 林和福蔽陦押砲剖はざれば、
飄泊天涯更水涯 天涯を飄泊し 更に水涯(すいがい)。

(註1)瑤臺(ようだい) 西王母のいるところ。月世界のこと。月には西王母という神がいると考えられた。
(註2)林和福〇笋琉焚爾暴颪い討ります。

http://shomon.livedoor.biz/archives/51879639.html  林和靖のことで

梅を妻とし鶴を子として生きた北宋時代の隠栖詩人です。

本当は月世界にいた一番目の花であるのに、
でも俗世界に来てしまい、美しい姿をあらわした。
でも林和覆砲蓮会えなかった、
天のはてをさすらい、地のはてまでさすらおう。

8ddc74fd.jpg 自分は、もともとは月世界のような、素晴らしい世界にいた人間なのに、つまらない男と結婚してしまったという嘆きを書いているわけです。だから、彼女は、よく切れる日本刀を常に持っていたのでしょう。だから、夫は怖くてそばに寄れなかったでしょうね。だって、実際に彼女は、その刀を奮うのですよ。
でも、この秋瑾が、魯迅「薬」に出てくる主人公の革命家なのです(ただし、魯迅の小説では夏喩という男性になっています。

http://shomon.livedoor.biz/archives/51887544.html

ここで私は最後に、以下のように書いています。

最後にカラスがないて、夏瑜の魂が母の前にいたことが分かりますが、この花は夏瑜がやったものではありません。じつにこの花は、多分小説の中にやってはいけないことだろうけれど、どうしても供えざるをえなかった魯迅の気持ちです。
魯迅は秋瑾女史とまた多くの革命家の魂と、そして多分自分の母親にこの花を供えたのだと思います。

だから、私はこの日本刀を構えている秋瑾をいつも思います(あ、彼女の写真は、日本刀を構えてこちらを向いているのです)。「薬」の中で、夏瑜は、彼のことを馬鹿にし、殴る中国の民衆のことを、悲しいと泣いています。でも、その涙がみんな訳がわからないのです。その涙は秋瑾の涙なのです。
私は秋瑾のことを決して忘れることはありません。

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「四川省で大規模大地震」へ、長春有情さんから、以下のコメントをいただきました。

1. Posted by 長春有情    2008年05月14日 19:33
萩原君ありがとうございます。私は君の中学校の時の顔を思い浮かべながら書いています。過去に荒らしにあったので名前はふせています。

 ありがとうございます。いや、あなたの「長春有情」を読んでいまして、私こそが駄目な奴だと反省しています。
 私は実に生意気なのですが、中国の古典や漢詩に関しては、中国人には負けないつもりなのです。もちろん、古典に限らず魯迅に関しても、私は私こそが好きだという思いです(もちろん、それは私が思い込んでいるだけですが)。でもね、ときどきスカイプで、中国人の若い人(35歳くらいまで)とChatしたりすると、本当に彼らは、中国の古典を何一つ知らないですね。ただし、よく知っているはずの年代の方は、今度はインターネットができないから、当然スカイプもできません。
 いえ、もう中国の方は、もう米国やヨーロッパにもいるし、そして欧米は日本よりも中国のほうを向いていますから、私なんかはとっても面倒なのです。
 いつも、中国の漢詩を読んでいます。そしてそのたびに、中国って判らなくなります。それでも何度も何度も読むようにしています。

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 書評を書いていて、だんだんと一人の作家の作品批評が多くなってきましたときに、その作家単独のページを作ることになりました。いや、まだそれほどたくさんのことを書いているとは言えないわけですが、今後もその作家についての書評を増やしていきます。現在は、飯嶋和一、さくらももこ、塩野七生、島田荘司、長谷川慶太郎、藤沢周平、吉本隆明、魯迅、島尾敏雄の各ページがあります。
 今後このページに置きたい作家としましては、山口瞳、ゲーテ、ドストエフスキーがあります。(2003.11.11)

   http://shomon.net/hon/chosha.htm  周の書評(作家別篇)

 その後作家としては、誰一人の部屋も増やしていません。以下の作家については、

   http://shomon.net/hon/kazuiti.htm  周の書評(飯嶋和一篇)

出版されている著作はすべて読んでおりますが、まだ1冊の書評しか書いていません。ちょっと我ながら情けないよなあ、ということころです。
 今後、なんとしても私のホームページ内の各書評のページを充実させてまいります。

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 私は今朝7時35分に起きました。その寸前まで長い夢を見ていました。

 私はある会社で、保母を養成する仕事に関するコピーライターをやっています。これは実際に私が27歳の頃やっていたことです。
 でも夢の中では、実際にその広告を書くことよりも、その私の勤める会社に社員をどうやって多く新規採用するのかということに必死でした。なにしろ、より多くの社員がほしいのです。
 もうなんだか必死でした。より多くの若い社員がほしいことと、でもなかなかいい人材はいません。そして会社の上層部からの要請は執拗です。
 私は多くの若い女性に、この仕事が何故素晴らしい職業といえるのかを必死に話しています。それらの方々は、まずは私の広告コピーで集まられた方々なのです。この方々の中からまずは多くの人材を選ばなければなりません。

 私は「教育」ということで、かなりいろんな話をしていきます。魯迅の話も長く展開します。
 その必死に私の喋る口調の中で私は目が覚めました。

 でも長い長い夢でしたが、なんだかほとんは忘れてしまいました。

 ああ、今すぐに出かけるので、詳しく書いていられないのが残念です。

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 私は、草や花というものを見るという志向は一切ない人間でした。
 そういえば、思い出したのですが、東大闘争で逮捕起訴されたときに、府中刑務所で、あるときに世話焼きの懲役の方が、「今度ここで切り花の差入れができるようになりました(いや正確には違う言い方だったかもしれません。なんせ大昔のことですから)」。
 そのあと私は接見のときに、かいま見る生花の存在に驚いたものです。「えっ、ゼンガクレンって、花なんか見るのかよ」。私はまったく、花なんかに興味のない人間でした。
 でも、その後娑婆に出てから、私は好きな女性に花を贈る人間になりました。もう20代後半からは、たくさんの女性に、その誕生日やその他の時に花を贈ってきました。
 ただし、私自身は、花のことなんか、少しも判っていません。まして野山に咲いている花のことなんか、少しも判らないのです。

 このサイトに関しても、真っ先に、「野草」というのを、「野草(やそう)って魯迅の話かな」なんて思ったものです(「野草(やそう)」は魯迅の小説です)。

  http://home.att.ne.jp/sky/nakayamatsu/ 東京都、板橋区・北区内に咲く野草

 でももちろん、サイトを見ますと、この私が今住む東京都北区のあちこちの草や花の写真を見ることができます。それを見ていて、今までこうした野草を知らなかった私を、「お前、単なる阿呆じゃないか」としか思わないものなのです。
 そして、このサイトをおやりの方は、私よりも年上の方です。お孫さんの写真も見ることができます。
 いい写真で、いいサイトです。私も真似していかなければな、と思っています。

 このサイトは、ブログ将門のサイドバーにある「東京都北区王子のホームページ」でリンクしています。

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 私が魯迅の「吶喊」を初めて読んだのが中学3年生のときです。岩波文庫の竹内好の訳でした。そのときの私の印象といいますと、

 たしかに少しは面白いといえるのかもしれないが、これがスタンダール『赤と黒』やドストエフスキー『罪と罰』などと並ぶ世界文学といえるのだろうか?

などと思ったものです。さらに「野草」も読みましたが、これはもうさっぱり判りませんでした。この感じは高校生になって読みなおしても変わりませんでした。
 それが大学でいわば全共闘運動が後退期になったころ、魯迅の存在が大きく感じられるようになってきたのです。私のいた埼玉大学のバリケードというのは、古い木造校舎でまったく汚くて、しかも私が東大闘争で保釈になって訪れた69年8月、9月の景色は、もう誰もいなくて寂しい限りです。その寂しいバリケードの中で、とくに雨が降ったときに、私には何故か「阿Q正伝」の阿Qの存在や、「狂人日記」のひとつひとつの言葉が、私の心に迫ってくるのでを感じたのです。「薬」という短い小説のひとこまひとこまの場面―赤い饅頭が、墓の前の2人の母親の姿、…―が私の心に淋しく悲しく迫ってくるのです。そこではじめて私には、魯迅の存在は大きく力強い存在として感じることができるよになってきたのです。
 こうして私は、やっと魯迅のことが少しは判ってきたと思える時になったのです。
 その後も、何度も魯迅の「吶喊」を読み返しました。他のたくさんの著作や評論も読んできました。人生のいろいろな時期で読んだ感じが違う作家は、私にはもちろんたくさんいるわけですが、その中でも一番激しく違う感じを与えてくれるのが魯迅です。
 この魯迅について、もっと書いていかなくてはと考えています。 (2003.08.11)

   http://shomon.net/hon/rozin.htm  周の書評(魯迅篇)

 しかし魯迅を知りましてからもう大きな時間が経ちました。でも今は中国という自分の国に魯迅ががっかりしているだろうな、なんて思います。なんでこんなことになってしまったのでしょうね。
 現在王子に住むようになりまして、王子中央図書館にて、この魯迅をさらに読んでいこうとかなり決意しています。
 また新たに魯迅に会いたいという思いでいっぱいです。

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